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聖女の教育係  作者: 楪 逢月
第三章
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第十二話

「それでは、そろそろお暇するわね」

「……はい、リディアナ様」


結局今日の授業が終わっても、メアリの部屋に再びレンが顔を出すことはなかった。教材として使った本を整え、そうしてリディアナは僅かな笑みをメアリへと向ける。どこか浮かない表情を浮かべたメアリが、リディアナの言葉に小さく頷いた。

未だ空からは雨が降り注いでいる。小雨とはいえこう長い間続いては、一過性の大雨とあまり変わりはないのかもしれない。季節も徐々に冬に近づいている。雨が降ったせいか、体がいつもよりも冷えている気がした。


「今日は肌寒いから風邪には気をつけるのよ。ゆっくり休んで」

「……はい。その、リディアナ様」

「? どうしたの?」


メアリに労りの言葉を掛けて椅子から立ち上がろうとしたリディアナは、恐る恐るといった風に掛けられたメアリの声に動きを止める。リディアナを見つめる黄緑の瞳は不安げにゆらゆらと揺れていた。躊躇うように口を開いては閉じ、それでも覚悟を決めたのか、メアリは心配そうな声でリディアナに問いかける。


「その、大丈夫、ですか?」

「……!」

「あ、えっと、なんて言ったらわかんないんですけど、でも……今のリディアナ様、元気がない気がして」


どうやらリディアナの様子がおかしいことにメアリは気づいていたらしい。告げて直ぐに申し訳なさそうな笑みを浮かべたメアリに、リディアナは思わず眉を下げた。彼女がそんな風に申し訳なく思う必要なんてないのだ。悪いのは彼を傷つけた上に、こうしてメアリにまで気を遣わせている自分自身なのだから。

どう答えるべきだろう。どう答えれば不安に瞳を揺らす彼女のその感情を拭えるのだろう。そう頭に巡らせて、そこでリディアナは内心苦笑した。こんなにも心配してくれている彼女に真実を告げる気のない、卑怯な自分が醜くて仕方ない。


「……メアリ、心配してくれてありがとう」

「っ! いえ、そんなこと……!」


慌てたように首を振るメアリはいつだって正直だ。比べて自分はどうだろうか。いつだって偽りに偽りを固めて生きて、そうしてそんな自分を内心嘲笑って。それでいいのだろうか、本当に。九年間揺らぐことなく築き上げたリディアナの土台が今、揺らいでいた。

躊躇って、けれど小さく息を吸う。本当は大丈夫だと、いつも通りそう偽ってしまおうかとも考えた。けれどもし、それでメアリまでも傷つけてしまったら。そう考えると弱音であったとしても、今は本当のことを告げた方がいい気がして。


「その、喧嘩をしてしまったの。私が一方的に、傷つけて」

「……レンと、ですか?」

「……ええ」


リディアナの言葉に黄緑色が瞬く。気まずくて思わず視線を逸らしそうになったリディアナは、しかし視線を逸らす前に目を見開いた。メアリが笑っている。心底嬉しそうな、そんな表情で。けれどそんな表情は一瞬で消え、はっと何かに気づいたようなものに変わる。次第に焦りにも似た表情がその顔に浮かんでいった。


「っあ! 違います、違うんです! リディアナ様とレンが喧嘩したのを喜んだわけじゃなくって……!」

「……ふふ。そんなに慌てなくても、ちゃんと分かってるわ」


目を見開いて呆気に取られた様子のリディアナに何を思ったのだろう。手と首を激しく振りながら、メアリは慌てて否定を始めた。その姿に思わず和み、リディアナは小さく笑みを零す。メアリは誰かと誰かの仲違いを面白がったり、喜んだりするような人ではない。短い時間のようで濃かった日々の中で、それは良くわかっていた。

けれどリディアナはそういう意味ではないということはわかっても、メアリがその表情を浮かべた理由まではわからない。リディアナの微笑みに安心したように表情を和らげたメアリはそこで俯く。やがてその唇が、噛み締めるように告げた。


「いっつもリディアナ様、大丈夫って言うので……あ、それが悪いわけじゃないんです! そういうところがかっこよくて、でも……」

「……でも?」

「なんか、私は頼りないんだなって。いやその、全然頼りがいがある人間ではないんですけどね!」


促すようなリディアナの相槌に、悔しさを僅かに滲ませた声音でメアリは呟く。けれど直ぐに苦笑を浮かべ、そんな自分を誤魔化すように彼女は明るく振る舞ってみせた。そんな姿にリディアナは言葉を返せず、ただ自嘲するような彼女の言葉を否定するように首を振る。

確かにメアリには抜けているところがあった。けれどそれは決して彼女が鈍いというわけではない。彼女は寧ろ人の感情に敏感で、聡い少女なのだ。きっと今まで何度もリディアナが誤魔化してきた大丈夫に何も返さず、飲み込んできたのだろう。それはリディアナを深く信頼してくれているからこそ。


「……だから今、話してくれたのが嬉しかったんです。喜んじゃって、ごめんなさい」

「……いいえ、いいの」


はにかむメアリを、リディアナは小さな苦笑を浮かべて見つめた。正直に話して良かったと、今なら心からそう思える。そうでなければ無意識の内にまた自分を心配してくれている人物を、傷つけたかもしれなかったから。

踏み出すことは恐ろしくて、弱い自分を見つけられるのが怖くて。けれど弱い自分を見せても、リディアナを見る目を変えない人だっているのかもしれない。弱音を吐いてくれて嬉しいというメアリや、頼ってほしいと言ったレンのように。


「……その、どういう喧嘩かはわかんないんですけど」

「……ええ」


メアリはそう言って瞳を伏せた。何かを考えるような仕草にリディアナは何も尋ねず、ただそんな彼女を見守る。やがて瞳を開いたメアリは困ったように微笑んで、そうして首を振る。それはレンの幼馴染である彼女だからこそ言える言葉であった。


「レン、多分怒ってはないと思うんです」

「……それは、そうかもしれないわ」

「でしょう?」


メアリの言葉にリディアナは最後に見た紫色を思い出す。そこに傷ついたような、悲しそうな、そんな色はあった。けれどそれは怒りの感情などでは決して無い。怒りだったのなら寧ろ、リディアナはこんなに悩むことはなかっただろう。明らかに傷ついたような表情をしていたから、リディアナもまた痛みを感じたのだ。


「……多分、レンも一緒なんです。私と」

「メアリと?」


またずきりと痛み始めた心臓を抑えるように胸に手を当てたリディアナを、メアリはどう思ったのだろう。手元にある本の背表紙をその指でなぞって、メアリは視線を下げた。リディアナはその視線を追いかけるように目を向ける。それは今日リディアナがレンのために持ってきた、魔法について事細かに描かれた本だった。


「はい。きっとレンも、リディアナ様に頼ってほしかったんですよ」


思い当たる節はありますか? そう問いかけたメアリの言葉に、リディアナは躊躇いながらも頷く。リディアナが開けた一歩を、彼は拒絶と見なしたのだ。だからこそあんなにも傷ついたような表情を浮かべた。

けれどそれならばどうすればいいのだろう。謝っても、また距離を詰めようとしても、リディアナの目にはそれはどちらも不誠実で身勝手に見える。だって結局リディアナは、助けようとする彼に誠実に答えられないのだから。どうすればレンの傷を癒せるのか。彼みたいに不思議な力が使えたのなら、リディアナもその傷を癒せただろうか。そんな無理な想像が頭を掠めた。


「……ありがとうメアリ、話を聞いてくれて」

「いいえ! 話してくれて嬉しかったです、本当に」


何かが解決したわけではない。けれど話したことで少しだけ頭にかかっていた霧が晴れたような気がして、リディアナはメアリに微笑みかけた。その笑顔に嬉しそうに微笑むメアリに背を向けて、リディアナは今度こそメアリの部屋を去る。また明日と、明るくその背中にかけられた声に振り返り同じ言葉を返して。


メアリの部屋から外に出れば、少し肌寒い温度がリディアナの肌を刺す。一人の帰り道、隣に誰も居ないことがその気温をより冷たいものにしている気がした。リディアナはいつものバスケットを自分で持って、ただ無言でその道を歩いていく。その隣には、当然誰もいない。

雨は未だ降り続いている。それどころか降り注ぐ勢いは、少し勢いをましているようにも感じた。傘があってよかったと、リディアナは少しだけ安堵する。このままでは明日も晴れないままなのかもしれない。


「……はぁ」


無意識のうち、リディアナは溜息を零した。それを聞いて咎める者も居ない。明日になれば謝れるだろうか、レンのことばかりがリディアナのその頭を満たしていた。仮に謝れる機会があったとして、どう謝ればいいのか。ぐるぐると巡る思考は一向に答えを見つけ出せないまま、また回る。

メアリの居住区をそんな陰鬱とした気持ちを抱えて抜けていき、いつのまにかリディアナは大聖堂の辺りまで来ていた。雨が降っているからか、道行く人は誰一人としていない。けれど大聖堂の前、濡れながらそこに立っている人を見つけてリディアナは目を見開いた。


「……クラウディオ殿下?」

「……リディアナ嬢か。会えて良かった」


小雨の中を駆けていき、リディアナはそこに立っていた予想外の人物へと傘を差し向けた。もう手遅れな程に濡れてしまっている彼が、せめてこれ以上は濡れてしまわないようにと。けれどクラウディオは向けられた傘を、リディアナの方へと押し戻す。


「貴方が濡れてしまうだろう。俺はもう手遅れだから気にしなくていい」

「……しかし」

「鍛えているからな。風邪の心配は無用だ」


そう言われてもリディアナは心配が拭えず、せめてというように屋根のあるところまでクラウディオを誘導した。何故彼は雨に打たれる形であそこに立っていたのか。近くに雨から身を守る場所は、少なくともあるというのに。


「その、ハンカチをどうぞ」

「いや、しかし」

「……どうぞ」

「……すまない」


雨を避けられる場所にクラウディオを連れてきて、そしてリディアナはバスケットの中に入っていたハンカチを彼へと差し出した。眉を下げたクラウディオは一度躊躇うように視線を逸らしたが、二度告げたリディアナに気圧されてか大人しくハンカチを受け取ってくれる。リディアナは受け取ってもらったことに、小さな安堵を宿して笑みを浮かべた。


「何故あんなところに?」

「……ああ、貴方を待っていたんだ」


降り注ぐ雨を見つめながら、リディアナは隣で水滴を拭うクラウディオに問いかける。そこで返された予想外の返答に、リディアナは目を瞬かせた。一体何の用があって、クラウディオはリディアナを待っていたというのだろう。

知り合って間もないどころか、録な会話も交わしていない。だというのに雨に濡れてまで彼がリディアナを待っていた理由が、リディアナにはわからなかった。


「ミレーニアが迷惑をかけただろうと、そう思ったんだ」


けれど続けられたその言葉にリディアナは納得した。どうやらミレーニアが朝から部屋にやってきたことを、謝罪しに来てくれたらしい。王子とは思えないほどに律儀な人だと、リディアナはそんな印象を受けた。

隣で苦笑を浮かべるその表情は兄としての彼のものなのだろう。武骨な印象を受けるその容姿は、僅かだが柔らかさを感じるものへと変化している。リディアナはそんな表情に同じく柔らかく微笑んで、そして告げた。


「……いいえ、素敵な方でしたわ」


これは本心からの言葉だ。ミレーニアは明るく奔放なところが目立つかもしれないが、思慮深く面倒見のいい優しい少女のように感じた。そんな彼女と共に時間を過ごせたのは、リディアナにとっての思わぬ僥倖と言えるだろう。きっと共に授業を受けていたメアリも、充実した時間を過ごせたと思っているはずだ。


「……そう言っていただけると、ありがたい。自慢の妹だからな」


妹を褒められたからか浮かべた心底嬉しそうな彼のその笑顔は、やはり昔のエリックに少しだけ似ていた。どこか懐かしさを覚えるその表情に切なさを抱きつつも、リディアナもまた微笑む。


「さて、あまり帰りが遅くなると家の者に心配をかけるだろう。引き止めて悪かった」

「……確かに、そろそろ御者が待ちくたびれてしまいます。すみません、お先に失礼致します」


けれどその言葉にリディアナは現実に戻された。メアリと話したこともあり、約束の時間には大分遅れてしまっている。こんな悪天候の中、いつまでも御者を待たせる訳には行かないだろう。晩餐の時間も迫っていることだし。

簡易的な礼をすると、リディアナは雨の中を早足で駆けて行った。けれど数歩程駆けて、そうして思い出したようにリディアナはクラウディオの方へと戻ってくる。そうして開いていた傘を閉じると、そっと彼に傘を差し出した。青灰色の瞳が丸くなる。


「馬車、そんなに遠くなくて。クラウディオ殿下がよろしければ使ってくださいませ」

「っ、しかし」


焦ったようなクラウディオにリディアナは微笑んで、傘をその武骨な手に掛けた。少し失礼かとも思ったがこうでもしなければ彼は受け取ってくれないだろう。背に腹は変えられない。

そうしてクラウディオの制止の声に今度は振り返らず、先程よりも早足で雨の中を駆けていく。雨の中走るなんて、子供の時以来だ。濡れた服で帰ればきっと侍女達を困らせてしまうだろうと、そう苦笑しつつ。


そんなリディアナの背中を呆然と見送って、クラウディオは苦笑を浮かべた。手にかけられた傘と、手渡されたハンカチ。迷子の時やミレーニアの迷惑を重ね、彼女には助けられてばかりだと。去っていく美しい少女のその背中に、クラウディオは幼い頃短い時間を過した友人の面影を見た。


「……君の親友は、本当に君によく似ている」


なぁ、エリック。そう苦笑交じりに呟いたクラウディオの声は雨音がかき消していき、とうとう誰にも聞こえることなく消えていった。


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