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聖女の教育係  作者: 楪 逢月
第三章
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第七話

その日の夜、リディアナは一人自分の部屋でぼんやりと過ごしていた。窓の外から差し込む月の光に照らされるその姿は神秘的で美しく、この場に人が居たのなら間違いなくリディアナに目を奪われただろう。もっとも自室ということもあり、リディアナは今は一人なのだが。


あの後、二人がメアリの居住区に許可なく入り込んだことについては不問となり、軽い注意を受ける程度で済んだ。リディアナのおかげとも呼べるその処置に頭を下げるクラウディオに慌てながらも、リディアナはレンと共に無事に二人を大聖堂まで送り届けることに成功した。

そうしてレンと談笑をしながらも馬車まで向かい、リディアナは家に帰ってきたのである。父との晩餐や身支度を済ませてる間に夜は深まり、明日のことを考えればもう眠らなければいけない時間だ。しかしリディアナは、どうにもやってこない眠気に今頭を悩ませている。


「……色々あったから、かしら」


頭を過った今日起こった様々な出来事を巡らせ、リディアナは一人呟いた。メアリとの呪術の勉強、クレアとエレンの突然の来訪、他国との王族との出会い、レンに話した昔の親友の話。思えば今日という日には、出来ごとが詰め込まれている気がする。

そう考えてリディアナは小さく微笑んだ。慌ただしくも今日も楽しい日だったと、そうして笑えるのは幸せな事である。今の自分の状況を省みると、余計にそう思えてくるのだ。


「……お母様」


笑みを消し去るように瞳を伏せて、憂うような呟きを一つ静かな夜に落とす。未だ面会が出来ずにいる母親のことを、そんな忙しさの中でなら忘れられる。その事に安堵と罪悪感を覚える自分を、リディアナは到底好きとは言えなかった。

けれど家にいれば狂おしいほどの不安に駆られてしまうのだ。今通り過ぎていくこの一秒の間にも、母の命が流れていってるのだとそんなことをずっと考えてしまうから。それが苦しくて、悲しくてたまらない。いっそのこと死ぬほどの痛みの方がマシだと、そう思えてしまうのだ。


そこでリディアナは自分の胸に手を当てた。そして二週間程前に起きた発作のことを思い出す。あの日自分は、レンの前で喀血した。そんな症状は、九年程前から今の今まで起きることのなかった症状である。

何か他に原因があったのか、それとも限界が近いのか。生憎と病気ではないこれの症状を、リディアナは詳しく知らないし知ることが出来ない。ただそれでも何となく、後者のような気がしていた。母の死が間近に迫る中果たして自分は耐えきることが出来るのか、そんな不安が胸を刺す。


「……いいえ、耐えきるの」


しかしそんな不安を押し殺すように、リディアナは強く言い切った。呟きとは思えないほどの圧が込められたその言葉に、告げた自分で苦笑する。けれどその言葉通り、自分は耐えきるのだ。

リディアナは母を救うことが出来なかった。ならばせめてこれ以上何も母が痛みを背負わないように、耐えきって見せるのだ。たとえ耐えきった先に待っているのが、母との永遠の離別の日であったとしても。


「……! はい、何かしら」


未来に暗い覚悟を覗かせる中、そこで聞こえたノックの音にリディアナははっとして顔を上げた。恐らくアンリ辺りがリディアナが眠れていない事を察して、また紅茶でも淹れてくれたのだろう。想像して申し訳なくなりつつも、リディアナは扉の向こうに返事を返す。しかし返ってきた声は、リディアナにとって予想外の人物の声だった。


「……夜分遅くに申し訳ありません。リディアナ、お嬢様」

「……ミランダ?」


聞こえてきたのは最近この家で仕事をすることになった少女の声。申し訳無さそうなその声に、リディアナはベッドから立ち上がりその扉を開けた。扉の向こうではワゴンを引いた少女が僅かに眉を下げて立っている。あの日から変わらず、その表情の変化は見ようとしなければ見えないほどに微々たるものだ。

暗がりの中で緑の瞳が揺らめく。迷いを宿したその瞳に、リディアナは首を傾げた。リディアナのお気に入りの紅茶の香りが夜の空気に交わり溶けていく。


「その、リディアナお嬢様に相談したいことがあるとアンリさんに告げたところ、この紅茶を持ってこの時間に訪ねろと……」

「……もう、アンリったら」


使用人たちとの仕事関連の相談事を、リディアナは基本的に紙面でやり取りしている。けれどミランダの表情を鑑みるに、彼女の要件は恐らく仕事関連での相談事ではないのだろう。リディアナと同じく、いやそれ以上に察しのいいアンリのことだ。きっとそれを察してリディアナの心を癒やすと同時に、ミランダの憂い事を解決しようとしたというところか。

苦笑を浮かべたリディアナに、少し緊張したように表情を張り詰めさせたミランダ。そんな彼女を気遣い、リディアナはミランダを部屋へと招いた。あまり長いこと膠着していても、用意してくれたであろう紅茶が冷めてしまうことだし。


「まずは紅茶を淹れていただけるかしら。大分癖のある茶葉だけど、嫌いじゃなかったら貴方も一緒に飲みましょう?」

「ですが、私は使用人なので……」

「良いのよ。今の時間は勤務時間外、つまり今の貴方は私の大切な友人のお友達なのだから」


リディアナの言葉にミランダは迷うようにして視線を彷徨わせた後、頷いた。ベッドの脇に置かれたティーテーブルを挟む形で椅子に腰を掛ける二人。二つ置かれたティーカップ、そこにはミルクも砂糖もない。

カップに波々と注がれた赤茶色を微笑んでミランダから受け取り、リディアナは口をつける。慣れ親しんだ癖のあるその味にリディアナはほっとするような笑みを浮かべて、対面側に座るミランダを見た。特に表情を変えることもなく、彼女は注いだカップのその中身を飲んでいる。そのことがリディアナには嬉しかった。


アンリとこうしてお茶をすることはない。使用人と主だからという理由からではなく、単純にこの茶葉が好き嫌いの分かれるものだからだ。そして嫌いと唱える人物のほうが多い味でもある。アンリも残念なことに、嫌い側であった。むしろ好んで飲むリディアナや、今表情も変えずに飲むミランダの方が希少といっていいだろう。


「初めて飲む茶葉でしょう? 癖が強いと思うけど……お味はいかがかしら」

「……恐らく一般受けする味ではないですが、私にとっては好ましい味です」


問いかけに表情を和ませて返したミランダのその言葉は、恐らくリディアナを気遣っての嘘ではない。屋敷内でこの茶葉を飲むのがリディアナだけというその現状が、この茶葉の人気の無さを物語っている。だからこそ新たな同士が生まれたことが嬉しくて、リディアナは綻ぶような笑みを浮かべて手を合わせた。


「あら本当? それなら時々、私のお茶会に付き合ってくれると嬉しいわ」

「!……はい、私でよろしければ」


ミランダはリディアナの言葉に少し驚いたように目を見開いたが、その後おずおずと頭を下げる。恐る恐るという風に告げられた了承の意を汲み取って、リディアナは微笑んだ。

けれど夜も更けてきたことだし、いつまでも深夜のお茶会を楽しむわけにもいかないだろう。そろそろ彼女がやってきた用件について尋ねなければ。赤茶色の液体をもう一口口に含み、それを飲み干す。甘いような渋いようなそんな独特の味に、笑みを深めながら。


「それで、私の同士さん。貴方の相談事は、なにかしら?」

「……それは、」


弧を描いた唇で、リディアナはそのままミランダへと問い掛けた。その問い掛けに和んでいた緑の瞳が迷うようにまた揺らぐ。よっぽど言葉にするのが躊躇われるような、そんな相談なのだろうか。言いづらそうに言葉を切ったミランダを、リディアナはただ黙って見守る。


「……その、サラ様のことで」

「……成程」


一拍の間の後、ミランダはそこで絞り出すような声でリディアナの瞳を見つめた。メアリの瞳が青りんごでエレンの瞳が深い森だとすれば、ミランダの瞳は草原のような色をしている。黄色にも黒にも近くない、緑本来の色を研ぎ澄ましたような美しい色合いだ。いつもは凛とそこに咲く瞳のその揺らぎに、リディアナは納得したように頷いた。


ミランダはあの後サラとリディアナに起きたことを恐らく知らない。サラは話されるのを嫌うだろうと考え、あの場で起きたことや語られた彼女の過去はリディアナの心に秘めることにしたからだ。もっとも、あのやり取りを見ていた人物も居たのだが。

こんなにも不安そうに、そして申し訳無さそうに尋ねてきたその訳。それはミランダから見ればリディアナとサラはあの会議の時のまま、つまり敵同士のままという関係性に見えているからなのだろう。けれどミランダはリディアナ以外にそれを問い掛ける相手が居ない。故に苦肉の策でこうして問い掛けてきたのだ。


「その、ずっと気になっていたのだけれど」

「……はい」

「どうして貴方はサラ様をこんなにも気にかけるの? 貴方がされたことは恨んでもおかしくないことのはずなのに」


しかし申し訳なさそうにするミランダに、リディアナは問いかけ返す。それはリディアナがずっと気になっていたことだった。あの日はサラの様子が急変したことで問い掛けられずに居たが、今ならばその理由が聞けるかもしれない。リディアナの問い掛けに、ミランダは瞳を伏せる。それは問い掛けられるだろうと、そう察していたような表情の変化であった。

聞かれたくないことだっただろうか。リディアナはそこで眉を下げる。恨むも恨まないも、そんなのはミランダの自由のはずだ。それなのに恨むのは当たり前、というように尋ねてしまったことにリディアナは後悔を募らせる。やはり話させるべきではないか、そう考えてサラの現状を話そうとしたリディアナ。けれどそれよりも早く、ミランダの口が開かれる。


「……妹に、似てるんです」

「……妹さん?」

「はい。出会った時からそうにしか見えなくて、だからどうしても助けてあげたくって」


相手は貴族様だったのに、変ですよね。そう言って小さな苦い笑みを浮かべたミランダに、リディアナは少し息が詰まるような感覚に陥った。変だと小さく自嘲するミランダを否定するように首を振って、笑いかける。そんなリディアナの笑顔に、感謝するように僅かにミランダの表情は緩んだ。

妹のようにサラを見るミランダと、姉が全てだと言いながらもミランダにだけは少し気を許していたようなサラ。もし形が違えば、二人が幸せに笑う未来があったのだろうか。そんな二人の関係性は言葉という形では表せなくても、そこに確かにあったように思えた。ならば、ミランダには教えるべきだろう。リディアナは口を開いた。


「……サラ様は、先週この王都から発ったらしいわ」

「……そう、ですか」

「レラ様と一緒に、ね」


続けられたリディアナの言葉に、一度は残念そうに伏せられたミランダの瞳が見開かれる。信じられないような表情でリディアナの方を見てきた彼女に、リディアナは安心させるように笑った。そのことでそれが真実だと悟ったらしい。泣きそうに瞳を伏せながらも、その唇は僅かに弧を描く。その緑の瞳からは、涙が流れることはない。

きっとリディアナと同じように、ミランダもサラの過去を知っているのかもしれない。サラの口でそれがどこまで語られたかはわからないけれど、だからこそミランダはこんな表情を浮かべたのだろう。そして泣き笑いのような顔のまま、ミランダはそっと指を重ね合わせた。どこか祈るような仕草で。


「……あの方がしたことが許されるようなことだとは思いません。でも」

「……ええ」


月の光が差し込み、真摯な色を宿したミランダの瞳が瞑られる。元とは言え聖女候補である彼女の祈る姿は、洗練されたものだった。それをリディアナは美しい光景のように感じつつ、零れたような悲しげな言葉に相槌を打つ。重ねられた彼女の両指が強く祈るように固く交わった。


「でも、それでも……。どうか大好きなお姉様と共に少しでも多くの幸せと、自由を見つけられる日々があればと願ってしまいます」

「……私も、そう願うわ」


言葉で語らずとも、それで伝わる何かがあるだろう。習うようにして祈り始めるリディアナに、ミランダは僅かに目を見開いた後に小さく微笑んで頷いた。二人の少女が月夜に照らされて祈る姿、それは絵画に描かれるような美しい光景だった。

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