第四話
友人、その言葉に不思議そうに丸まった紫色に見つめられて、リディアナはまた小さな笑みをその口に浮かべた。誰にも、誰よりも愛する母にも自分から話したことがなかった彼の話。それを何故か今だけは、彼に話してもいいと思ったからだ。
「五歳の頃、だったかしら。両親に連れられて、私はその子と出会ったの」
リディアナの言葉にレンは言葉を返さず、ただ頷く。繋いだその手が引かれて、リディアナは語りながらも歩きだした。リディアナの手を引きながらこちらを見つめる彼は、恐らく話を聞きながらもメアリの部屋へと戻ろうとしているのだろう。道中の話としては丁度いい長さなのかもしれない。そう思いながらも懐かしい日々を脳裏に描いていく。
「……なんというか、相性が良かったのかしら。私達は性別や身分の垣根を飛び越えて、あっという間に仲良くなったわ」
「……男なのか」
「……ええ、今の王太子殿下よ」
令嬢の親友が男というのはやはり変だろうか、眉を顰めたレンにそう首を傾げつつ、リディアナは苦く笑うと潜めた声でそう返した。その言葉に紫色の瞳が見開かれる。出会ったばかりの頃、レンはリディアナとエリックの険悪な関係を目の当たりにしたことがあった。記憶力の良い彼のことだ、きっとまだ覚えているのだろう。
そう、知ってるが故にレンには理解が出来ない。あんなにも辛辣な態度を取られて、それでも彼との昔の思い出を宝物のように語るリディアナが。紫の目が細められる。
「色んな事をしたわ。一緒に絵本を読んだり、庭の花と図鑑を比べたり、流行っていたボードゲームをしたり……」
「…………」
「あとそうね、お互いにお母様の話をしたりしたわ。私も彼も、母親が大好きな子供だったから」
そんな視線に気づきつつも、リディアナは昔日の記憶に火を灯すように語り続けた。そんなリディアナの話をレンは無言で聞いてくれている。そのことがリディアナの記憶を更に温かなものとした。
今でも忘れないし、忘れたいとも思わない。幼い友人と過ごしたあの日々は、母と過ごした日々と比べようがないくらいに大切な記憶だ。その記憶が現状を省みる度に刃となって胸を刺すものでも、決してリディアナは忘れない。そこでリディアナは一つ思い出した。
「……『魔法使いと女の子』 そういえばそれも彼と一緒に読んだものだったわ」
「……あんたが持ってきたやつ?」
「そう、貴方が最近熱心に読んでいるらしい本」
そこで思い出したのは、朝にメアリから聞いた話。その絵本の名前にレンは眉を少しだけ動かした。そんな彼にリディアナは悪戯心から笑って言葉を返してみる。途端眉を思い切り顰めた彼に楽しげに笑った。やはり少女向けの絵本を読んでいることを指摘されるのは、彼にとって気分のいいことではないらしい。
抗議のように少しだけ痛む程度の強さで手が握られる。リディアナはそんな音のない文句に更に笑みを深めて、けれどごめんなさいと謝罪した。笑いながらの謝罪にレンは納得がいっていないようだったが、その手の力は直ぐに弱められる。言葉のない優しさに、リディアナは笑みを浮かべたまま話を続けた。
「私、あの魔法使いに憧れていたの。そう告げたら彼、いつか魔法使いになってみせるって。そんな約束をしたわね」
「……無理だろ」
にべもない、子供同士の約束なんてそんなものだろうに。そう考えつつも、実際彼の言葉通りなのだ。この時代とこれからの時代、人は魔法使いになることができない。魔法使いになれるのは、理屈のない不思議の力を使えるのは、人の姿をとった人外たちだけだ。今リディアナと手を繋ぎ、こうして話している少年もそのうちの一人である。
今は身近に居るとは言え、本来はそんな人外たちにお目にかかる機会は少ない。一部では彼のように人に紛れて暮らしているものも居るだろうが、大概は人が入ってこれぬ奥地で暮らしているらしいから。戦争が続いた時代に辟易とした彼等は、人に呆れて人の地を去ってしまった。昔読んだ本にはそう書かれていたはずだ。
「……ええ、無理ね。でも正直、まだ少し信じているの」
彼は人外ではないから、決して魔法使いになれない。それはそんなこともわからなかった時代に、二人交わした約束だ。それにきっと、彼の方はもうそんな約束を忘れているだろう。
もう守られることの無い、忘れ去られた約束。そう考えながらもリディアナは小さな声で呟いた。そんな声を拾い上げたレンが訝しげにその呟きに瞳を眇めたのに、苦笑を浮かべつつも。
「彼は約束を絶対に守ってくれる人だったから、もしかしてって」
絵本の中の魔法使いは主人公である少女を何度も助けた。どんなに絶望的な状況でも、主人公の涙を笑顔に変えてみせた。現実はきっと物語のように上手くはいかない。絵本の主人公のように、リディアナの現状がひっくり返る奇跡なんて起きはしない。けれど。
それでもリディアナの親友は必ず約束を守る人だった。小さな約束から困難な約束まで。例えば彼が重要なパーティに出席する日に遊ぶ約束をした時、彼は夜中に眠い目を擦ってフォンテットの屋敷を訪れてくれた。そんな彼と共に目を擦りながら、二人絵本を呼んだ記憶は今でも朧げながら覚えている。
だからこそリディアナがサラへと伸ばした一本の光筋のように、リディアナは今でもその光が自分に伸びているのではないかと錯覚してしまうのだ。そんな絶対に叶うことのない、幼子同士の約束が。現実ではきっと冷たい視線と言葉を向けられるだけだろうけど。
「……魔法使いなら、俺が」
「?……ごめんなさい、聞こえなかったわ」
リディアナがそこで浮かべた懐かしむも切なく微笑む姿に、何を思ったのだろう。どこか悔しげに眉を下げたレンの口が何かを小さく呟いた。けれどそれは本当に本人にしか聞こえない程度の呟きで、リディアナには届かないまま消える。
首を傾げて問い掛けたリディアナに、レンははっとしたように目を見開くと、視線を逸して先程は違う言葉を紡いだ。その差異にリディアナが気づくことはない。レンはきっと、気づかれたいとも思っていない。
「……どうしてそんな仲が良かったのに、今は悪いんだって聞いたんだ」
「……それが、わからないのよね」
確信を突く問い掛け。けれどリディアナはそんな問い掛けに眉を下げて、首を振る。は? とそんなレンの声が聞こえたのに増々眉を下げるも、リディアナはそれ以上の答えを出せそうにはなかった。何故ならばあの日まで育まれていた二人の絆は、彼の方から一方的に断ち切られたようなものだったから。
「私が七歳で、彼が八歳の頃。八歳になると貴族は公式の場で魔力の測定を行う、覚えてるかしら?」
「覚えてる」
マナーの授業の一環で話したことをレンは覚えていたらしい。頷いた彼にリディアナもまた頷き返し、未だ痛みの残る記憶を探り探り思い出す。それは彼の魔力の測定が終わった一週間後の話だった。痛みの多い記憶ほど鮮明なものだと内心苦く思いつつ、リディアナは首を傾げているレンに話し始める。そろそろ、メアリの部屋へと辿り着く頃だ。
「彼の公での測定が終わった一週間後、彼が屋敷に来たの。一週間も会わないなんて久しぶりで、久々に会えたことが嬉しくて私は駆け寄ったわ……それで、」
「……それで?」
リディアナはそこで言葉を切った。鮮明に覚えていて、何一つ余すこと無く語れる記憶だ。けれど言葉にするのは躊躇われて、そのまま口を閉じてしまう。黙っていたところであの現実が変わるわけではないのに、言葉にすることでそれがより確かな物になってしまう気がして。
眉を下げて悲しげな表情を浮かべるリディアナ。その足が止まったのに気づいて、レンもまた足を止める。そうして彼はそんなリディアナの表情を見て、少しだけ眉を下げると促すように言葉を反復した。その声に背中を押されるようにリディアナは言葉を絞り出す。突然に告げられた離別の記憶を。
「……それで。お前とはもう友人じゃないって言われて。そこから後のことはあまり覚えてないわ」
「……それだけ、なのか」
「ええ、それだけ。そこからはもう、貴方の知っている今の彼のままなの」
今でも鮮明に思い出す、あの日の記憶を。フォンテットの屋敷、その入口に駆けてきたリディアナ。けれどそこに立っていたのは温かな緑の瞳を凍てつかせた親友だった。彼は冷たい言葉でリディアナをもう友ではないと告げると、馬車へと戻っていく。リディアナはその背中に何一つだって言葉を掛けられない。
そこから先は覚えておらず、気づけば次の日になっていた。夢だったのかと手紙を送っても、返事はない。屋敷に訪ねても来ない。顔を合わせたパーティで声を掛けた時に冷たい態度を取られてそこで、リディアナはその日の記憶が現実だったと知った。
その日から品行方正で賢く優しかった彼は、悪名高い王太子に相応しくない人物へとなってしまう。急な変心に誰もが戸惑っても、彼はその理由を語らない。むしろ今までが演技をしていたと告げるような始末であった。そうしてそれは十年後の今でも変わらないまま。寧ろ周囲が手を尽くそうとする度に、彼の態度や素行は悪化していくばかりだ。彼の唯一の王子という立場が、周りの人間の不安を大きくしていく。
「……その魔力測定の日になんかあったんじゃねぇの?」
「それが、本当に問題はなかったの。魔力値も歴代の王族の中でも高い方で……」
レンは理解できないというような表情を浮かべながら、リディアナに問いかける。けれどそんな問い掛けにもリディアナは首を振った。王族の魔力測定は貴族から王都の民にまで広く公開される。その日の魔力測定の日にはリディアナには用事があり、直接見ることは出来なかった。けれどその日の事は見物に言った父や祖父から話は聞いている。彼が優れている王族と判明した、名誉な日だったはずだ。
寧ろその日は本当に問題がなかった、彼の様子も昔のままだったらしいから。寧ろその後、リディアナが顔を合わせなかった一週間。そこで何かあったと見るべきなのだろう。
「あ、着いたわね」
「……ん」
けれどそこで話は途切れた。メアリの部屋のその前へと辿り着いたからだ。一応ノックをしてみるも、返事が返ってくることもない。まだお祈りの時間も終わってないのだろう。恐る恐る開けてみた部屋の、その内装も特に変化は見られなかった。
「……昔のあの人に似てたから、つい警戒心を解いてしまったの。大丈夫、次からはちゃんと注意するわ」
「……別に、しなくていい」
そのことに一安心しつつも、リディアナはそうやって話を纏める。例え友人に似ていたとしても、クラウディオの態度は怪しかった。メアリを守るために自分も尽力しなければ。
けれど未だ何かを思案しているようなレンは、その言葉に視線を上げた。そうして先程とは真逆の言葉を告げる。そんな彼にリディアナの瞳は見開かれた。
「……したくないなら、しなくていい。その代わり俺がどうにかする」
それは不器用な言葉だった。リディアナの過去の話を聞いて、それで気遣ってくれているのだろう。昔の親友に似ている他国から訪れた彼を疑うのが、リディアナにとって痛みになることに気づいて。繋いだ手が離される。
リディアナはそんなレンの気遣いに一度瞳を伏せて、そして笑った。綻ぶようなその笑顔は、いつもの美しい笑みとは少し違っている。そんな笑みを浮かべてしまうくらい、彼に不器用な気遣いが嬉しかった。リディアナの些細な痛みに気づいてくれたことも、また。
「ありがとう、でもなるべく気をつけるわ」
「……わかった」
でもだからといって全てを彼に任せるわけにはいかないだろう。そんな気遣いをくれただけで充分だと、そう微笑んだリディアナにレンは躊躇いながらも頷いた。そうしてそのまま彼はいつもの席へと腰を掛ける。見慣れていた光景が戻ってきたことに、リディアナは目を瞬かせた。
どうやら今日はこの部屋で過ごすらしい。座って本を開いたレンにコルトとの時間は良いのかと一瞬そんな思考が過ぎったが、リディアナはそれに首を振って同じように席に座った。
もうすぐメアリが戻ってくるだろう。そうしたら少しだけクラウディオのことを彼女に話して、そうして三人のいつも通りを始めよう。そんな想像に、自分でも驚くくらいに心を踊らせて。