第二話
「……こほん! 本日はお伝えしたいことがあって参りましたの」
椅子に座り、そうして気を取り直したように咳払いをしてみせたクレアをリディアナは微笑ましげに見つめた。聖女の教育係としてここに通う前までは、彼女のことを尊敬できるが少し取っつきにくい人物のように思っていたが、エレンとのやり取りを見る限り存外そんなことはないのかもしれない。
「クレア様、今更取り繕っても無駄だと思うけど……」
「っお黙り! 元はと言えば貴方が突っかかって……いいえ、この話は帰ってからにしましょう」
エレンの正しくも余計な一言にまた再燃しそうだったクレアは、リディアナやメアリが浮かべた苦笑になんとか冷静になれたらしい。一度エレンをじとりと睨みつけると、二度目の咳払いをして彼女は話し始める。その瞳に何かへの懸念を宿して。
「……貴方、リティエの王族が今週末からこの神殿に一時滞在することになったことはご存知?」
「!」
リディアナは予想だにしてなかったクレアのその言葉に目を見開く。他国の王族が神殿に滞在。しかも聖女教育が行われているこの期間に? そんなクレアからの突然の知らせを、リディアナは一瞬信じることが出来なかった。
しかしクレアの家であるロビンソン侯爵家、その現当主である侯爵は外交官も務めていたはずだ。恐らくその経緯で知ったのであろう彼女が齎した事実は、嘘偽りではないのだろう。
「……いえ、存じておりませんでした。クレア様はさすが世情にもお詳しいんですね」
「っ別に! 家の都合ですしそう褒められることでもありませんわ!」
思わず心から感心したような声を上げたリディアナだったが、そんなリディアナからクレアはぷいと顔を背けてしまった。嫌味に取られてしまっただろうか、そう不安げに眉を下げたリディアナは気づかない。その彼女の耳がほんの僅かに赤く染まっていることに。
もっともそれは、クレアの黒い長髪がほとんどその耳を覆ってしまっていることが原因なのだが。メアリもリディアナが浮かべた表情に不安そうにする中、クレアの照れ隠しに気づいたのは隣に座っていたのエレンくらいだった。恐らくこの中で一番付き合いがあるからという理由もあったが。
「……嬉しいなら素直にそう言えばいいのに」
「お黙り」
ぼそり、クレアにしか聞こえない声で呟いたエレンをクレアはまた睨みつける。そんな自分の表情に増々悪戯っぽく輝いた深い緑を忌々しそうに見つめると、クレアは小さく溜息を吐いた。そうして自分の聖女候補への説教やら文句は、人前ということもあり後回しにすることにしたのだろう。
つまらなそうな表情を浮かべたエレンを無視し、そうしてクレアは再びリディアナへと視線を戻した。心配そうに見つめる美しい青色の瞳に息が詰まりそうにもなりつつ、クレアは声を絞り出す。
「……あ、貴方もおわかりでしょう? 王城への滞在ならまだしも、この時期に神殿に滞在させるなんて非常識極まりないですわ」
「ええ、確かに。それに神殿の方々にも負担がかかるでしょう」
どこか苦しげにも聞こえるクレアのその声にリディアナは首を傾げつつ、けれど神殿で暮らす人々を脳内に浮かべた。今ではリディアナにだいぶ慣れてくれたのか、通る度に笑顔で挨拶をしてくれるシスターや、神殿騎士たち。
神殿内で暮らすだけあって根は気のいい彼等に余計とも言える苦労が掛かるのは、リディアナにとっては歓迎できることではなかった。憂鬱を意味する溜め息が思わず零れそうになるのをこらえる。
それに。リディアナはそこで王族と聞いた瞬間から硬直しているメアリの方へと目を向ける。きっと自分の聖女候補にとっても、王族と暮らすそんな毎日は息が詰まる事だろう。
どうやらリディアナやクレアはだいぶ慣れたらしいが、メアリの身分の高い人への畏れのようなものは未だ完全には消えていないらしい。貴族が訪れることの無い穏やかな村育ちならば、致し方ないことだろう。取り繕えるようにはなっているので、成長をしていない訳では無いことだし。
「……エリック王太子のご決断でしてよ」
「!……そう、でしたか」
けれどメアリを苦笑して見つめていたリディアナは、躊躇うようにしてクレアの口から告げられたその言葉に目を見開いた。そうして一度小さく息を吐いた後、少しだけ目を伏せる。賢王と謳われる陛下の判断にしては妙だと思ったが、まさか彼が関わっていたとは。脳裏に浮かぶのは、温かみのあった緑にすっかり冷たい色を宿すようになった友人だ。
あの日神殿で軽い会話を交わして以来話すことはなかったが、そういう話ならば近い内に顔を合わせることもあるだろう。かつての親友とも呼べる存在に、また辛辣な言葉を吐かれるのかと思うと少しだけ憂鬱な気分になる。
けれどそれでもリディアナは、未だに彼を嫌うことが出来ないでいた。割り切ってしまえば楽なのに、その度に脳裏で穏やかな少年だった頃の彼の柔らかな笑顔が浮かぶから。失いたくないと手を伸ばしてしまうから。
「……まぁそうであってもあたくし達には関係はありませんけれど。せいぜいお気をつけられてはいかが?」
眉を下げたリディアナに何を思ったのか、クレアはそう言って話を終わらせようとした。リティエ王国の関係者がこの神殿に滞在する。確かにそれはこの大事な時に、と眉を顰めるようなことではあるが、クレアの言う通り聖女教育には直接関わってこない。
いくら王太子の決定と言えど、他国の王族と言えど、神殿側が聖女教育にリティエの王族を関わらせようとはしないだろう。今の神殿長であるコルトを想像すると、それは確実に信用できるものになる。彼は聖女教育に関しては、積極的にこちらを支援する態度を取っていた。余計な手立ては恐らく彼が拒むはずだ。
だからきっとクレアの言葉通り、きっと彼女にとってこの話は全く関係のない話だったのだろう。仮にエリックが今後外交のためこの神殿に訪れるようになっても、人に絡む悪癖を持つエリックもクレアには何故か関わろうとしない。エリックに絡まれるとすれば、それはリディアナだ。
恐らくクレアは、そんなリディアナのために忠告をしに来てくれたのだ。そう思うと沈んだ心が、少しだけ柔らかくすくいあげられた気がした。
「……ありがとうございます、クレア様」
「っ別に! あの王子がうざったく嫌味を言う姿が見たくないだけでしてよ! 決して貴方のためではありませんから!」
相変わらず誠実と言うべきか、公明正大というべきか。少々高圧的でこそあるが、正義感の強いクレアにリディアナは頭を下げた。心の準備が出来ているのと出来ていないのとでは全く違う。彼女の忠告のおかげでリディアナは、深く傷つくようなことはしなくて済むだろう。
心からの感謝を告げたリディアナに素っ気なくクレアは言葉を返すが、その頬は先程の耳のように赤く染まっていた。残念なことにまたしても、頭を下げているリディアナはそれに気づかなかったが。
けれど王子関係の話を理解できずに、ぽかんと成り行きを見守っていたメアリはそんなクレアに気づいたらしい。年頃の少女らしく頬を赤らめてみせるクレアに、納得したようにメアリは笑顔を浮かべる。そうしてクレアにとっての爆弾を何気ない気持ちで投下した。
「ロビンソン様も、リディアナ様がお好きなのですね!」
「えっ?」
「なっ!?」
「……あちゃー」
その爆弾に、三人はそれぞれ個性的な声を上げた。一人は不思議そうに、一人は心底驚いたように、一人は楽しげに。中でも名前を挙げられたクレアはそんな反応が顕著だった。顔を真っ赤に噴火させた彼女は、椅子から乱暴に立ち上がるとメアリをにらみつけて強い剣幕で捲し立てる。
「なななな、何を言っておりますのメアリ・カーラー! あたくしが彼女をす、す、好きだなんて、そんなわけあるわけないでしょう!?」
「ひぇっ!? ご、ごめんなさい!?」
「確かに美しく気品があってお人好しで真面目で褒めることしか見当たらない人間ではありますが、す、す、好きだなんてそんなことは断じてなくってよ!」
「え、え……? わ、わかります!」
目まぐるしく回転するクレアのその口から語られたその言葉達は、リディアナの耳をすり抜けていった。なにせ早口過ぎたせいで、殆ど聞き取ることが出来なかったのだ。聞き取れたのは、ほんの一部だけ。
けれど様子がおかしくなったクレアを呆然と見つめるリディアナとは違い、メアリはそんなクレアの言葉達を聞き取れたらしい。混乱しながらも怯えながらも、強く頷いたメアリにクレアは目を見開く。
「えっとリディアナ様はいつも優しくって、綺麗なんですけどかっこいいときもあって……絵本の中のお姫様と王子様の良いところだけを合わせたような人なんです」
「メアリ……?」
そこで勢いを止めたクレアの隙を縫うようにはにかんでそう告げたメアリに、リディアナは少し気恥ずかしくなってその服の裾を引いた。あまりにも早口過ぎたせいで聞き取れなかったが、クレアのあの剣幕を見るに恐らく自分を褒めるような流れでは無かったはずだ。寧ろ文句を言うようなそれだったはず。
なのに何故隣に座るメアリは自分を褒めているのか。しかもそんな完璧人間のように語られてしまうと、反応に困ってしまう。決して嬉しくないわけではないけど、僅かな劣等感が胸を突くから。
けれどそうしてリディアナが戸惑いながらもメアリの名前を呼んだことで、クレアはリディアナの存在を思い出したのだろう。そこで凍りついたようにクレアは硬直して、ブリキの人形のような硬い動きでリディアナの方へとゆっくりと視線を向けた。
何故そんな違和感のある動きをしているのか。リディアナは疑問を覚えたが、そんな態度はおくびにも出さず申し訳無さそうにクレアに微笑んだ。リディアナとしては自分の聖女候補が突拍子もない事を言って申し訳ないと、そういう笑みだったのだが、クレアは自分の発言を顧みてその微笑みを別のものに捉えたらしい。リディアナがその発言を、九割程聞き取れていなかったことに気づかずに。
「っ! お、お、覚えてなさいメアリ・カーラー! この借りは必ず返すわ!」
「あ、クレア様……行っちゃったかぁ。じゃ、メアリとリディアナ様、またねぇ」
顔を真っ赤に染めて捨て台詞を吐くと、クレアは部屋から去って行った。そんなクレアの背を見送ったエレンもまた、リディアナたちに一礼した後に緩慢な足取りでクレアを追いかけ始める。突然現れて去って行った彼女達にリディアナは呆気に取られつつも、ちらりとメアリの方に視線を向けた。
「あんまり突拍子もない事を言っては駄目よ? 困らせてしまうわ」
「……うーん、多分そういうことじゃないと思いますよ」
窘めるようなリディアナの声に苦笑を浮かべて首を振ったメアリに、リディアナは首を傾げる。けれどそんなリディアナに多くは語らず、メアリは椅子を片付け始めた。そんな彼女に習うように、リディアナもまたクレアが先程まで座っていた椅子を片付け始める。それにしても。
「少し残念ね」
「え? 」
「いえ、なんでもないわ」
リディアナが聞き取れたクレアの弾丸のような言葉の一割。それはリディアナのことは好きではないという部分だけだった。知ってはいたが、ああも強く好きではないと否定されるのは少し寂しい気もする。
残念そうに眉を下げたリディアナの声は誰にも拾い上げられず、結局その勘違いは誰からも否定されずにリディアナの中に残ってしまう形となった。