第二十五話
「……それで、いつまでそうしているのかしら?」
サラの背中を静かに見送ったリディアナはその背中が見えなくなった後、一人になったテラスで呟いた。いや、正確には今この場には二人いるのだが。そう苦笑してリディアナは、一本の木を見つめる。
風が一度強く吹いたあの瞬間、リディアナの目に木々の緑の影に隠れた亜麻色が映った。どうやらあの心配性な少年は、サラとリディアナが二人きりで相対することを放っておけなかったらしい。そうして彼はリディアナが見つめるその木の裏から、バツが悪そうな表情を浮かべて姿を見せた。
「……いつから」
「最初から、って言えたら格好良かったのだけれど。残念ながら途中からよ」
座ったら? そう促すリディアナにけれどレンは首を振る。そうしてレンはリディアナの近くにまで来ると、ガーデンチェアではなくテーブルの上に座った。一瞬その行儀の悪さを咎めようかとも思ったが、レンの心情を考えるとリディアナの中でその言葉は途端に萎れていく。
椅子よりも背の高いテーブルに座っているせいか、今はレンの背丈の方が高い。そんな彼を見上げながらも、リディアナは小さな罪悪感に苛まれていた。彼はメアリを傷付けたレラを、そうしてサラを憎んでいることだろう。リディアナはそんな彼が見ている中、彼女達への救いの手を差し伸べてしまった。
糸のようにか細い救いではあったけれど、それでもサラにとってはまばゆい希望の光のように見えただろう。決してあの言葉を掛けた自分を後悔しているわけではない。けれどサラが座っていた椅子に座ろうとしない、そんなレンの心情を思うとどうしても申し訳ない気持ちになったのだ。
「……ごめんなさい」
思わず零れたのは、そんな謝罪の言葉。独り善がりで自己満足に過ぎない、自分が楽になりたいだけの言葉。気づいてはっとして自分の口を抑えても、一度投げ出した言葉はもう返ってこない。申し訳なくて情けなくて、リディアナは俯く。きっと彼に呆れられてしまうだろうと、そう考えると悲しい気持ちになった。
「……別に。俺があの女たちをどう思うかと、あんたがどう思うかは関係ないだろ」
けれど落ち込んでしまったようなリディアナの姿に何を思ったのだろう。レンは穏やかな声で、俯くリディアナに言葉を降らせた。リディアナは思わず目を見開いて、そうして再びテーブルに座る少年の方へと視線を向ける。リディアナの視界に映った彼は、どこか吹っ切れたようなそんな穏やかな表情を浮かべていた。
「あんたはそれでいいんだ。寧ろ安心した」
「安心……?」
「会議中のあんたは別人みたいだったから。ほんとに貴族だったんだなって思った」
からかうように笑うレンに、リディアナも眉を下げながら笑う。未だ貴族であることを疑われていたことを嘆けば良いのか、それとも親しみやすいと感じでもらえたのだと喜べば良いのか。そう考えるリディアナの心は、まるで蝋燭の火が灯ったように少しだけ温かかった。
自分の感情とリディアナの感情を関係ないと彼は言う。それは一見冷たい言葉にも聞こえたが、それは違うのだ。その言葉は、リディアナの価値観や選択を肯定してくれる言葉だった。自分と考え方が違っても、向ける思いが違っても、それでもレンはそれをリディアナだと認めてくれた。
だから良いのだと、そんなに悩まなくても良いのだと、そう言葉をくれたのだろう。そんな優しさはゆっくりとリディアナの心を温かく染めていった。
ぶっきらぼうな彼が時折くれるそんな言葉達は、降り積もる度にリディアナの中で宝物のように輝いていく。また明日も、頼って良いも、関係ないも。全てがどんな宝石よりも、輝いていく。
「……私、ちゃんと貴族なのだけれど」
「……ん、今日やっとわかった」
もう、と怒ったふりをして見せるリディアナにレンは無邪気に笑った。きっと彼はありがとうと、そう言われても困るだろうから。だから心に強い感謝を抱いて、そうしてリディアナもまた笑う。
レンを見ていると、リディアナは古く懐かしい記憶を思い出すことがあった。自分が大好きだった絵本に出てくる、憧れの登場人物を。
それは魔法使いの青年。主人公が危機に陥る度に、魔法を使って彼女を助けてくれるのだ。時に密かに、時に大胆に、自分は君のための魔法使いだからとそう言って。そんな彼は色んな絵本を読んできたリディアナの中で、どんな王子様よりも素敵な存在だった。
レンはそんな青年に少し似ている。登場人物である彼と違って明るく朗らかな性格というわけではない。けれどメアリをただひたすらに助けようとする、そんな一途さが。怪我をしている人を放っておけずに傷をその魔法で癒そうとする、そんな優しさが。あの青年と、とある誰かに。
「……そうだ。あんた前、俺の守り方を間違ってるって言っただろ」
「? ええ」
幼い記憶に思いを馳せ黙り込んだリディアナ。けれどそんなリディアナに、思い出したようにレンが静かな声で問いかけた。それは彼と出会ったばかりの時のことだと頷いたリディアナに、レンは少しだけ眉を顰める。何の話だろうかと、リディアナは黙ってレンの様子を窺った。
レンは躊躇うように口を閉じて、けれど覚悟を決めたように言葉を形作る。レンのそんな真剣な雰囲気に、リディアナも釣られるように真剣にレンを見返した。
「意味が、わかった。俺はあの女みたいになってもおかしくなかった」
「……そうかもしれないわね」
少しだけ認め難いと、そんな表情を浮かべながらも呟くレン。そんな彼にリディアナは静かに頷いた。サラが垣間見せた狂気。レラは自分だけが守れるのだと、レラは何も悪くないと、そう支離滅裂に喚く姿。きっとそんなサラに、レンは思うことがあったのだろう。
お互いに誰かに執着し、その存在を守り抜きたいと思ったこと。根底という部分ではサラとレンは少しだけ似ている。サラのそんな狂気の芽を育てたのは環境だ。レンが置かれていた環境を考えると、もう少しでレンはサラの方へと堕ちていたかもしれない。そう考えるだけでリディアナの背筋は凍りつく。
きっとその心地は彼も同じなのだろう。レンとサラの違うところは周りを壊す力があるか、ないかだ。不思議な力を使えるレンがサラのようになっていたら、どれだけ恐ろしい事態になっていたか。
状況が最悪のものなら、本来彼が守りたかったはずのメアリすらも傷つけるような、そんな状況もおかしくなかったのかもしれない。きっとその考えにはレンも至ったのだろう、だから。
「……だから、あの時止めてくれたことに……感謝、してる」
「!……ええ」
少年は気まずげに、照れくさそうに、それでもリディアナに少しだけ頭を下げた。そんなレンにリディアナは一瞬だけ目を見開くと、直ぐに柔らかく微笑む。いつも助けてくれる彼の助けに、あの日の自分はなれたらしい。お返しが出来たような気がして、それがリディアナには嬉しかった。
きっと自分が現れたことは、誰かを苦しめる切欠になったかもしれない。例えばミランダや、サラ。彼女らが呪術にまで手を染めたのは、自分の存在が切欠だとそうミランダは語っていた。それは決してリディアナのせいではないけれど、切欠だったのは間違いがない。
でも自分が現れたことで、きっと誰かの助けになれたことだってあるはずだ。レンが今、自分に感謝を述べてくれたように。だからリディアナは後悔しない。自分に残された時間は多くないのだから、後悔している暇なんて無いのだ。
「助けになれたならよか、……っ!」
「……おい?」
照れたような彼に言葉を返そうとして、けれど次の瞬間、リディアナの心臓が大きく鼓動した。目を見開き苦しげに声を漏らしたリディアナに、レンが心配そうな声を上げる。
けれどそれを気にかけている余裕すら、今のリディアナには無かった。痛み始めた心臓、荒くなる息、そうして目の前にいる誰か。焦りと痛みが全身を駆け抜けていく。
リディアナは焦りのまま椅子から乱暴に立ち上がり、とにかくこの場を離れようとした。発作が来る、今は昼なのに、目の前にはレンが居るというのに。彼から離れなければ、初めての状況に混乱しながらもただその一心で走り去ろうとしたリディアナは、けれど逃げることが出来なかった。
「っ、げほっ……!」
「っ!?」
胃からせり上がってくる何か。足を止めて手で口元を抑えるも、耐えきれずに零れだす。手でも受け止めきれずに地面へと流れ行く赤に、どこか冷静な部分が血液だと判断した。息を呑むような音が遠く聞こえる。ああ間に合わなかったと、見られてしまったと、そんな諦念が心を満たした。
痛む、痛む、痛む。これまでとは比べようのないくらいに心臓が。苦しくて呼吸もままならない。ぐらり傾いて背中から倒れ込みそうになったリディアナの体を、けれど地に着くよりも速く慌てたレンが抱きとめる。
けれどそれに気づくことすら出来ないまま、リディアナの体中を痛みが飲み込んでいく。苦しくて仕方ない。このまま死ぬのではないかと、そんな考えが一瞬リディアナの思考を過った。
「っおい……! くそ、『癒やせ』……っ! なん、で……」
唇から血が伝う。焦ったような誰かの声が聞こえた。背中は冷たい地面の感覚ではない。心臓を苛む痛みも呼吸も、少しずつ楽になっていく。ああ短い発作だったからこその痛みだったのか。冷静な頭に動揺するような悲しむような、そんな声が響いた気がした。
リディアナは痛みから瞑っていた瞳を開ける。最初に映ったのは、大きく見開かれて自分を見下ろす紫色。酷い表情を浮かべた彼に苦く笑って、リディアナは慰めるようにそっとその頬に手を伸ばそうとした。
けれど両手は血で濡れている。こんな手で安心させるどころか、彼を汚してしまうだけだろう。引っ込めようとした手を、しかし自分を膝に乗せる形で抱えている彼が捕まえる。
「……生きて、る」
その手はリディアナの手ではなく、手首に触れた。血で汚れることを気にせずに確かめるよう強く脈を指圧するレンは、それが確かに脈打っていることに大きく息を吐く。安堵したようなそんな掠れた呟きに、リディアナは何だか無性に泣きたくなった。
自分は草むらに倒れ込んでいない。痛みのせいでその時の意識が曖昧だが、きっと彼がその小さな体で受け止めてくれたのだろう。今では草原に座り込んだ彼のその膝の上に、自分が寝転んでいるような状態らしい。……ああ、呆けている場合ではない。早く起き上がらなければ。
「……馬鹿。なんで起きようとすんだ」
「……だって、貴方が汚れちゃう、から」
けれどそんなリディアナをレンは止めた。もう大分聞き慣れてきた馬鹿に僅かに微笑んで首を振ったリディアナに、レンは泣きそうに顔を歪める。その唇が何かを告げると、リディアナの口から零れた赤はもう跡形もなく消えていった。まるで何も無かったかのように。
唇から零れたものも、手から伝っていったものも、受け止めきれずに地面へと零したものも、全てが消えていく。ああやっぱり魔法使いみたいだ、そう考えたリディアナをレンは少しだけ抱き寄せる。その手は僅かに、震えていた。
「……わかったなら、もう少し大人しくしてろ」
近づいた距離に何故か穏やかな気持ちになって、リディアナはレンの言葉に頷いて少しだけ目を伏せた。こんな姿を見られてしまったことに、僅かな後悔を抱いて。