第二十四話
乱暴に自身の髪を掴み、そうしてそのまま引きちぎるのではないかと思うくらいに力を込めるサラをリディアナは止めようとした。けれどリディアナが止めるよりも早く、サラはその手を離す。そうして今度は労るようにその髪を擽るように触れ始めた。サラのその、歪められた唇が薄く開かれる。
「……でも、例え貴方みたいな天使になれなくても。それでも私は、私だけが姉様の味方だと思いたかった」
「……私は天使じゃないわ。あの日は相手が誰かもわからずに、彼女に一時手を差し伸べただけ。だから貴方こそが彼女の真の味方と呼べるんじゃないかしら」
リディアナを天使だと語るサラ。それに妙な気まずさを覚えて否定しつつ、リディアナはサラにそんな言葉を掛けた。リディアナは別にレラだったからハンカチを差し出したわけではない。例えあの時あそこに居たのが誰であっても、リディアナはハンカチを差し出していた。それが正しいことだと思うから。
真の味方、そんな言葉にサラはかすかに笑った。……まただ、その笑みには見覚えがある。自分を嘲るような、そんな笑み。そんな表情を浮かべて彼女は、心底馬鹿にするように言葉を吐いた。
「……はい。でもそう願うことは醜いでしょう?」
リディアナはそれを否定することが出来なかった。サラは毛先をくるくると指で束ねては、風に溶かすようにその指を引き抜く。その動きを何度も繰り返す彼女は、今どんなことを考えているのだろうか。リディアナは目を伏せて、醜くも人らしいサラのその願いの意味を考える。
サラはレラの味方で居たかった。けれどその感情はいつしか、自分だけが愛する姉の味方で居たいという執着に変わってしまう。自分だけが姉の味方で居たい、それは裏を返せば自分以外に姉を救われるのを望まないということ。
あの時リディアナがレラに手を差し伸べたことに、サラは恐怖したのだろう。自分以外が姉の天使になってしまうのではないかと。そうしてそう思ったサラは、自分が天使なんかではない醜い欲を持つ人間だと気づいたのだ。だからまがい物と、今自分を笑う。
「……聖女の教育係に姉様と共に選ばれた時、私はそこに貴方の名前が無いことに歓喜しました。ここで成功すれば、私は貴方を超えられる気がして」
「超える……?」
「だって教育係は国中の淑女が憧れる栄光でしょう? それに選ばれれば、私が一番の令嬢ということになるのだから。そうすれば、私はまがい物じゃない天使になれる」
黙り考え込んだリディアナに何を思ったのか、サラは笑みを深めて話を続けた。それは彼女達が教育係へと選ばれた時の話。リディアナを超えたいと思ったとサラは語る。きっとリディアナを超えれば、姉の中での自分が真の天使になれると思ったのだろう。きっとそれは国一番の栄光よりも、彼女にとては価値の重いものだった。
「それに私が教育係になれれば、姉様をこの歪んだ家から開放できると思ったんです」
「……報奨金ね」
「ええ。それで私だけが知ってる別荘を買って、そして姉様をそこで住まわせれば。両親はあの土地が浄化に良いとでも言えば、簡単に信じるでしょうし」
そんなサラにはリディアナを超える目標の他に、もう一つ目的があったらしい。それは報奨金。自分が教育を施した聖女候補が聖女に選ばれた時、国一番という名誉とは別に多額の金銭が教育係に送られる。
そこまでの聖女候補への献身と、国への大きな働きを認めてという理由からだ。それもまたサラの目当てだったのだろう。彼女はいつでも、姉であるレラのことしか考えていない。
その執着はきっと、サラの過ごした長い時間の中で思い通りにならないのがレラだけだったからなのだろう。リディアナはそう推測する。生まれたときからのその美貌も、強請れば全てを与える両親も、おいしい食事も。彼女には全てがあった。姉とは裏腹に。
語り口から考えるに、勉強もサラにとってはそう苦なものではなかったのだろう。最高の家庭教師を与えられ、それに見合うだけの知識を身につけるだけの才能が彼女にはあった。家が普通だったのなら、才女として持て囃される未来もあったのかもしれない。
そんな全てが思い通りに行く人生の中、彼女にとって思い通りにならないのが姉であるレラだけだったのだろう。先程自分の変化について離す時サラはレラに突っぱねられたことを軽く語ったが、その瞳は一瞬だけ懐かしむように細められた。
拒絶される、そんな初めての経験をサラに齎したのがレラだったのだ。それがきっとサラが姉に向ける、小さくも確かな執着の最初の芽。
「でも結局貴方はあの女の教育係に選ばれて、私はこうして蹴り落とされて……まるで、あの絵本みたい。人間が天使になろうとして、そのまがい物の翼をもがれる。私にあの絵本みたいな幸せな結末は訪れないけれど」
サラは笑う。サラが話すそのお伽噺はリディアナもよく知っていた。有名な絵本だ。天使や天国に憧れた少女が魔力で作った翼で空へと飛び立つも、その羽根は災害などで阻まれ結局彼女の翼はぼろぼろになって地へと落ちる。
けれどそうして地に落ちた彼女はそこで出会った人々に優しくされて、翼なんてなくても自分にとっての天使や天国を見つけられるのだと、そう気づく優しいお話だ。
「……そうかしら」
けれどリディアナは、サラのその言葉を否定した。リディアナの言葉にサラは笑顔を消して、リディアナを見つめる。その冷たいくらいの無表情に、今度はリディアナが笑ってみせた。何を言っているのかと、そう瞳に諦めを宿してリディアナを見る彼女に。
「貴方が行くことになる聖エドリック修道院は規律が厳しいことで有名ね。厳しい気候も相まり、心を病む人も多いわ」
「……ええ、だからもうここで私は終わりなんです。もう翼がないから」
その時風が強く吹く。一瞬見えた色にリディアナは目を丸くして、そうして苦笑した。乱れた自分の髪を直しつつ、気を取り直してリディアナは翼をもがれたと嘲笑うその少女を見る。乱れた髪を直そうともせず、サラはリディアナを見ていた。
彼女にもう翼はない、いいや翼なんて最初からなかった。自分がただの人ということに、ただサラ自身が気づけなかっただけ。けれど天使じゃない人には、最初からそこにあって失っていないものがあるのだ。絵本の中の少女が、それで前に進んだように。
「あら、本当に終わり? あの修道院に入れられて、そうして心を病むのを恐れた人々はどうすると思う?」
「……何が、言いたいんですか?」
煽るように笑うリディアナに、サラは不快げに顔を歪めた。リディアナは一瞬躊躇する。今から彼女に告げる言葉、それを告げる行為、それらは正しいことではないかもしれない。いや、きっと正しいことではない。
彼女は、彼女達は己の罪を見つめてそうして償わければならないのかもしれない。でも悪魔と呼ばれてたった一人しか味方が居なかった姉と、天使と呼ばれて手を差し出すばかりだった妹。もしも神様がこの世界に居るのなら、そんな彼女達にリディアナがもう一度だけ、その手を差し伸べることをどうか許してくれないだろうか。
訝しげにリディアナを見たサラにリディアナはとびっきりの笑顔を向ける。そうして躊躇いを押し殺しながらも天使のような笑顔で、悪魔のように囁いた。
「……逃げ出すのよ。だってあそこの気候は厳しいから、誰も追おうとしないわ。そんなことをしては自分の命が危ないもの」
「……!」
サラの目が見開かれる。金色の瞳が太陽の光を吸い込んで、輝いたように見えた。いいや、実際に輝いているのだ。その瞳から零れた、その雫によって。
頬を伝う涙。それはあの会議中一度も彼女が見せなかった泣き顔で、彼女の聖女候補が見せられなくなった表情だ。けれどあの少女は、サラのこの表情を責めること無く喜ぶのだろう。妹に向けるような慈愛を、サラへと向けていたミランダなら。
そうしてその喜びを、メアリは分かち合うはずだ。彼女達こそが令嬢という立場で生きてきた自分たちよりも、ずっと天使のように美しいのだから。
例えこの世界に神様が居なくても、天使も悪魔も居なくても。きっと天使のような彼女たちなら、リディアナのこの行いを許してくれるだろう。だからリディアナは、その口でサラにとっての福音を奏でた。
「貴方には口がある。上手くご両親を丸め込んでお姉様を連れ出したら? 貴方には頭がある。逃げる道とその行く先を考えればいい」
「……っ」
「貴方には手があって、足がある。その手でお姉様の手を引いて、そうして自分たちの天国をその足で見つけられたのなら」
それはまるで絵本の中の彼女みたいね。そう告げたリディアナにサラは視線を落として、小さく頷いた。俯いていても僅かに伺えるその瞳には、覚悟が見える。
実際リディアナが語るその話は口ほど甘くないだろう。両親を丸め込むのは簡単かもしれないが、令嬢である二人があの雪山から逃げ出すなど、命を落としてもおかしくはない。むしろ生き延びることのほうが困難だ。レラの様子がおかしくなったと、会議中にそうサラが語っていたことだし。
けれど希望が全く見えずに生きるのと、一筋の希望を宿して生きるのとでは全く違うのだ。リディアナはそれをよく知っている。例え語った絵本のような結末にはならなくとも、その希望があるだけでサラは修道院で生き抜くことが出来るかもしれない。最愛の姉と共に。
「……こうして貴方に話せば、諦めがつくと思っていました。姉様の未練を全て断ち切りたくて、私は最後に貴方を選びました」
「……ええ、ついたのかしら?」
絞り出すような声でサラが呟く。俯いたその顔がリディアナの問いかけによって持ち上げられた。きらりとその金の目が輝いたのは錯覚だろうか。その瞳に宿った強い覚悟が何よりも、リディアナへの問いかけへの答えを示していた。どうやらリディアナは彼女の未練を断ち切るどころか、希望を与えてしまったらしい。
「……最後に話すかもしれない他人が、貴方で良かった。リディアナ・フォンテット様」
「……光栄ですわ、サラ・ギブソン様」
彼女が椅子から立ち上がる。涙を拭って、その髪を直して、そうしてリディアナに深くお辞儀をしたサラにリディアナは笑って礼を返した。けれどそのまま去っていくかと思えたサラは、背中を見せること無くその白いドレスとともに地面へと足を着ける。
草の緑と土の茶色で真っ白なドレスが汚れることを気にもせず、彼女は地に足を着けてリディアナに再び頭を下げた。目を見開いたリディアナに、サラはぽつりと告げる。
「……今回の件。貴方にも、貴方の聖女候補にも、申し訳ないことしました。ごめんなさい」
それは貴族の最大級の謝罪だった。リディアナはその形で謝罪したサラに絶句する。それは自分に罪があることを認め、相手に何をされても構わないと、その意味を示す姿勢による謝罪。それは、全てを奪われても構わないとそう告げるようなものだから。
動揺するリディアナが何も言葉を返せないのに気づいたのか、サラは頭を上げて立ち上がる。真っ白だった彼女のドレスの裾は土で少し汚れていた。未だ言葉が出てこないリディアナに、サラは笑って別れを告げる。
「さようなら、誰よりも美しい人」
「……さようなら」
背中を向けて去って行くサラ。彼女の罪は決して許されることはない。理不尽な復讐でリディアナの聖女候補と、その友人を傷つけたのだから。けれどそれでも、彼女への重罰は誰も望まなかった。一番の被害者であるミランダも、メアリも。怪我をしたリディアナも、それはまた同じだ。
裾が土で汚れた真っ白なドレス。けれど当然だがその背中に汚れはない。それ故にだろうか。リディアナの目には太陽の光がさすその背中に、もがれながらも確かに残る翼が見えた気がした。きっとそれは、ただの思い込みだけれど。