第二十一話
「……それの何が悪いの?」
狂気的に歪んだ口から言葉が溢れる。無邪気で無垢で、善も悪もまだ知りえぬ幼子のように。そうしてサラは首を傾げた。仕草も声も全てが幼くなった彼女のその視線は、再びメアリだけに注がれる。
その表情は形容しづらくも恐ろしく、自分が見られている訳では無いのに、リディアナは思わず息を呑んだ。
金色の瞳がぎらぎらと煌めく。憎悪を煮詰めたように、憎くてたまらないと言うように、サラはメアリを睨みつけた。狂気的に歪んだ唇、睨みつける瞳、青褪めた肌。そこに居るのはもう儚く美しい令嬢などではなく、復讐に取り憑かれた亡霊のような姿の女だった。
「その女はお姉様を傷つけた。ただでさえボロボロだったお姉様は、その女の教育係になってからもっとおかしくなった。お姉様を傷つける奴は全部サラが消さなくちゃ、そうでしょ?」
「……レラ様が先にメアリを傷つけたのだとしても? 教育係の責務を放棄して虐めのような行動を繰り返していたとしても?」
眼孔を開かせてそう笑うサラ。私ではなくサラと自分をそう呼び出したことが、彼女の狂気をより強烈なものに見せた。そんなサラに表情を硬くしながらも、リディアナはそう問いかける。
サラが行っていた復讐は理不尽なものなのだ。元はと言えばレラがメアリの教育係としての責務を放棄し、その上虐めにも近い行動を行った。最後にレンに目を付けレンを脅した彼女は、彼に幻覚を見せられるという形でその報いを受け、錯乱したと聞いている。
その後のレラをリディアナは知らない、そうしてその前のレラも。けれどこうしてサラが復讐を行おうとするくらい、彼女は狂ってしまったのかもしれない。しかしそれでもこの復讐は筋違いなもので、全てはレラから始まった因果なのだ。それなのに。
「ええ! だってお姉様は可哀想だもの! 可哀想なお姉様は、何をしても許されるわ。私が全部を許すわ」
「……どうやらお花畑はお花畑でも、相当狂ってるみたいですこと」
けれどレラはリディアナの問いかけにうっそりと笑ってそう答える。その答えにクレアが吐き捨てるようにそう言った。少々毒が効きすぎた言葉のような気もするが、その言葉のとおりだとリディアナは内心頷く。
可哀想と、何度も繰り返すサラからは姉であるレラへの強い執着心が見て取れた。その執着心はどこから来ているのか、善悪の判断がおかしくなるほどに何故彼女は狂ってしまったのか。
「……サラ様」
リディアナがそうして様子のおかしくなったサラに掛ける言葉を迷ってる内に、リディアナよりも早くミランダがサラへと声をかけた。
心配するようなその声は労りに満ちたもので、狂ってしまったサラにもミランダのその声ならば届くのではと、リディアナはそう考える。
「……なによ。なによなによなによ! 裏切り者のミランダ! 一緒にお姉様を助けると約束したくせに、こうして貴方は裏切った! 道具としても三流の裏切り者がサラの名前を呼ばないで!」
「っ……!」
けれどそんな予想は外れ、自分の名前を呼んだミランダを裏切り者と呼んでサラは激昂する。眉を釣り上げ、そうして怒り狂うように言葉を撒き散らすサラ。そんなサラにミランダはただ口を閉じて、眉を下げた。
約束が何かは知らないが、ミランダをこうして道具として扱っている時点で先に裏切ったのはサラだ。だというのにいっそ理不尽とも呼べる扱いを受けても、ミランダは怒ることなくその言葉を受け入れる。まるで妹の駄々を受け入れる、優しい姉のように。
「このままじゃ駄目なんです。きっとこの場で私が罪を被っても、貴方は救われない。きっとレラ様も……!」
「……裏切り者が、サラの名前だけじゃなくてお姉様の名前まで呼ぶのね。お姉様の名前を汚さないでよ!」
「っ、」
拒絶されてもミランダはただひたすらにサラに言葉をかけ続けた。心底サラの身を案じるように、守ろうとするように。到底感情を失ったとは思えないそんなミランダの必死な言葉は、けれどサラには届かなかった。
姉の名前を呼ばれた怒りからか、サラはその衝動のまま椅子に座っていたミランダを突き飛ばす。椅子ごと床に倒れこんだサラは、その痛みからか僅かに表情を歪めた。
「っミランダさん!」
「待って、メアリ……!」
激しい音と共に倒れ込んだミランダを見たメアリは、そこで黙って見ていられなくなったのかリディアナの手を解いて駆け寄る。今メアリがサラに近づくのは危険だと、止めようとしたリディアナの手は空を切った。制止の声が虚しくその背中に届かず消える。
そうしてミランダとサラの間に入ったメアリは、ミランダを庇うように手を広げてサラを睨みつけた。そんなメアリの姿に、危険信号がリディアナの脳内で激しく鳴り始める。
「……お前が全ての元凶。お前さえ消えればまたお姉様は笑ってくれる。可哀想なお姉様を、私が私だけが助けてあげられる」
想像通り、サラはメアリを見て狂気的に微笑んだ。その手がメアリのその首へと伸ばされるのを見て、リディアナは立ち上がる。サラはその狂気のまま、メアリを殺そうとしている。手遅れになる前に止めなければ。そんな焦りがリディアナの心を満たした。
それと同時に、それまで黙っていたレンもその手に魔力を集め始める。人の目の多いこの場で力を使うことに躊躇いはあるが、メアリの安全には変えられない。そう考えたレンは、幻覚の力を使おうとその手の魔力を変質させた。
けれどリディアナが割って入るよりも、レンがその力をサラに振るうよりも、その場で誰よりも早く動いたのはメアリだった。その手が思い切り振り上げられて、そうして下ろされる。正確に、サラの頬へと。
「っ!」
「……撤回してもらうことが、増えました」
頬を打つ高い音に、その場に居た全員が目を見開く。立ち上がっていたリディアナも、メアリの突然の平手に叩かれたわけでもないのに呆気に取られた。レンもその手に集まり始めていた力を霧散させ、呆然とメアリを見る。
そうしてそれは叩かれたサラもまた、同じだったらしい。痛みからか息を呑んだサラは、その瞳から狂気を消してメアリをぽかんと見つめる。サラを見据えたメアリのその瞳は、怒りに満ちていた。
「貴方は、すごく勝手な人です。ミランダさんに散々助けてもらって、それなのにミランダさんが言うことを聞かなくなったら裏切り者って言って」
それは奇妙な声だった。決して不快だとかそう言う意味ではない。怒りに震えているのに冷静に聞こえるメアリのその声は、その場にいた全員の耳にするりと入っていく。
勝手。それは軽い言葉のようで、けれども真理のように聞こえた。そう、サラは勝手なのだ。自分の思い通りにならないと駄々をこねる子供のように、勝手で我儘だ。そんな子供のような彼女は、メアリの言葉に怒りを再燃させたらしい。金色の瞳に怒りを滾らせ、再び口を開く。
「……裏切り者よ! だってミランダが黙っていれば私はまだお前を、」
「黙ってください! ……私に何しようが、貴方の勝手です。好きにすればいい」
けれどまた喚き散らそうとしたサラの言葉を遮って、メアリは叫ぶ。言葉を遮られたことにサラは呆然と口を開けて、けれどもう余計な邪魔を入れようとはしなかった。そんな思考すらもなかったのかもしれない。余計な邪魔の入らないメアリのその叫びは、決して広くはない室内に良く響く。今この場は、誰もが口を挟むことが許されないメアリの独壇場であった。
「でも、貴方はそれに他の人を巻き込んで傷つけて、まだ貴方を心配してるミランダさんまでも傷つけようとしました。ミランダさんの大切な人達を、盾にして!」
緑の瞳は怒りに燃えている。なのに絞り出すようにして叫んだその声は、今にも泣き出しそうなくらいに震えていた。その声に、リディアナは眉を下げる。ああきっと、メアリにとってはそれが一番嫌な事だったのだと。自分が害されるよりも、ずっと。
サラの復讐にミランダが利用されたこと、メアリを助けようとしてリディアナが怪我をしたこと。自分が呪われたことではなく、メアリが嘆き悲しんでいる点はそこなのだ。今サラに怒りを向けているその理由もまた、同じなのだろう。
誰かを傷つけるくらいならば自分が傷ついた方が良いと、メアリはそういう子だ。けれどそんな考えを持つメアリはそれでも今、サラに手を上げた。メアリにとっての大切な友人を守るために、震えながらもその手を振るった。
強い子だと、リディアナは目を伏せる。暴力は褒められたことではないが、きっと平手の一発や二つは許されて然るべきだろう。それだけのことを、メアリはされたのだから。
「……メアリ」
「……ミランダさん、私にとってミランダさんはまだ友達です。友達だからちょっと嫌なこと言われても、呪われても、気にしません」
「……馬鹿ね」
切なげに名前を呼ぶミランダを振り返ると僅かに微笑んで、メアリは再びサラの方へと視線を向けた。その背中に何を思ったのか、ミランダは泣きそうな声でぽつりと呟く。もうミランダはメアリからその視線をそらさない。友人を見つめるように温かい視線を、その背中に注ぐ。
それに後押しされたのか、メアリは大きく息を吸った。言葉を遮られたことに混乱していたサラが、そんなメアリを恐れるように見る。リディアナの目には憎悪も未だ入り混じったサラのその瞳に、今では怯えのようなものが混じっている気がした。
「撤回してください! おかしいのは貴方で、ミランダさんはおかしくないです。そして先に裏切ったのも、ミランダさんを道具扱いした貴方だ!」
「…………」
そうしてメアリの言葉は再び言葉は振り下ろされる。真っ直ぐにサラを見据えたメアリのその緑色の瞳は、怒りの色で満ちながらも真っ直ぐで美しいままだった。
その真っ直ぐな視線に、サラはたじろぐようにしてその瞳を彷徨わせた。何か言い返そうとしたのかその唇は一瞬開かれるも、けれどすぐに閉じられる。返す言葉が見つからなかったことにサラは悔しげに目を伏せ、そうしてその視線は最終的には下げられた。
リディアナはそれでも警戒するように視線をサラから外さない。先程までのサラは狂気に満ち溢れていた。普段は平静を取り繕えるだけ完全には狂っていないようだが、狂気に取り憑かれた人間は何をしでかしてもおかしくない。
いつでもサラを止めれるように未だ椅子から立ち上がったまま、リディアナはサラを見つめる。もし何かをしようとしたのなら、メアリを守らなければ。
けれどそんなリディアナの警戒を他所に、サラはぴくりとも動かなかった。メアリがミランダを助け起こすためにサラに背中を向けても、何の反応もしない。二人が目を合わせてぎこちなくもようやく笑い合っても、それに水を刺すようなことをしない。ただ黙って俯くサラは、けれど一瞬だけ口を開く。
「……じゃあ、どうすればサラはお姉様を守れたの?」
迷子の幼子のようにそうして呟いたサラは、一度だけメアリの方を見た。それにリディアナは警戒を強めるも、サラは何か行動を起こしたりはせず、ただ笑い合う二人を見つめる。
その視線に渇望のような色が見えて、リディアナはそこで漸く警戒を解いた。メアリの平手や言葉で、サラの狂気に濁ったその瞳が少しは洗われたのかもしれない。そう思いつつ。
小さく呟いたその言葉どおり、サラは本当にレラをただ守りたかっただけなのかもしれない。そう思うと少し切なく感じる自分が居た。二人の事情こそは知らないが、サラがレラを思う気持ちだけは本物のようだったから。ただそのやり方はあまりにも理不尽で、悪辣だった。故に彼女は裁かれる。
その守り方がもう少し誰かを思いやれる、優しいものだったのなら。けれどそうすれば今リディアナがここに居ることも無いかもしれないと、そうリディアナは少し苦く微笑む。
今ここに居ること、メアリやレンと過ごす日々、それらはサラの復讐心やそれに利用された人々、そうして長く苦しんだであろうミランダの葛藤を土台に出来ている物なのだと、そう噛み締めて。