第十六話
「……そうですか、ミランダさんが」
「ええ。だから彼女から妙な物を貰っていたりしないかしら?」
「……いいえ、あれから会ってもいないので」
神妙な顔で考え始めたメアリは、少しの沈黙の後首を振った。会いもしていないというのなら、何か物を貰うような機会は無かったということだろう。
それならば先程見えた気がした表情が削げ落ちたミランダは、リディアナの不安が生み出した幻覚だったということだろうか。しかし幻覚というにはあまりにも現実感のありすぎる類のものであった。
しかしそう思案に入る暇もなく、リディアナの服の裾が後ろから突如としてぐいと引っ張られる。思わず引っ張られた方向を振り返ると、不満そうな顔付きのレンがこちらを睨みつけていた。
「なんでその時言わない」
「……ええと、一瞬だったから気の所為かもしれないと思って」
明らかに不機嫌そうなレンはそんな言い訳では納得してくれなかったらしく、ふんと鼻を鳴らす。そんな少年の態度にリディアナはたじろいだ。何故こんなにも彼は怒っているのか。
メアリに何も変化が無い以上本当に幻覚であったのだろうし、リディアナとしては早とちりの情報をレンに告げなくてよかったと安堵していたのだが。
「次からは言え」
「でも……」
「言え」
圧の増した二度目のその言葉にはさすがに逆らうことが出来ず、リディアナはおずおずと頷いた。リディアナが頷いたことに、そこでようやくレンは表情を緩めて頷く。どうやら機嫌が治ったらしいと、リディアナはその表情にほっと息をついた。そんな二人の会話を聞きながら、何故かメアリは嬉しそうに微笑んでいる。
今メアリとこうして話しているように、急ぎ足で向かった先にいた彼女は何事もなく無事だった。リディアナを見て嬉しそうに駆けて来て、そうして転びかける平常運転っぷりも見せるくらいである。
もっとも、警戒していたリディアナはそれも新たな呪術の媒介のせいかと肝を冷やしたものだが。心臓に悪い聖女候補様である。
ミランダを見かけたかもしれないこと、新しい呪術を使ったかもしれないこと、それを伝えた時には顔を曇らせていたが、今では何故か知らないがリディアナとレンを見て少し楽しそうに微笑んでいる。
恐らくリディアナとレンの会話からいつもの日常を感じて安心したのだろう。それならばいいと、リディアナもまた微笑んだ。
「……ところで、あれから呪術の件の話はどうなったのかしら」
しかしいつまでも穏やかに日常を享受しているわけにはいかない。緩んだ顔を引き締めて尋ねたリディアナに、メアリもまた真剣な表情を浮かべて頷いた。その表情から察するに、リディアナが居ないうちに何やら進展があったらしい。
「はい。明後日、今の聖女候補と教育係の方々を集めて話し合いのようなものをすることになったそうです。それまでは聖女候補たちは自室を出ないようにと、そんな風に神殿長様から申し付けられました」
どうやらリディアナが居なかった昨日で随分と話は進んだようだ。明後日となると貴族間では非常識とも呼べるほどの急用になるが、聖女候補が呪術に手を染めたというその話は緊急事態にも等しい。その措置も仕方ないと言えるだろう。
それに自室待機。これもまた当然のことだ。メアリから以前に話を聞いた限り、食事の時間や祈りの時間などで聖女候補同士は顔を会わせることがあるらしい。
顔を合わせること、それは緊迫したこの状況では新たな問題を生むことにもなりかねない。それに無実の聖女候補たちの安全を守る上でもそれは重要なことだ。
「……そういえば、騎士様たちが増えていた気がしたのだけれど」
「警備のために明後日まで一時的に増員すると、そう神殿長様が」
そこでリディアナは道中を思い返して呟く。今日の道には神官騎士がいつもよりも多く駐在していたのだ。いつもならばメアリの住む区画内へなら顔パスであったリディアナも、一応入る際に名乗りを求められたりもした。
メアリはその呟きに頷くと、少し苦笑してそう答える。恐らく体の良い見張りだろう。聖女候補が部屋を抜け出して悪さをしないために、だからメアリも少し苦い表情を浮かべているのだ。
しかしそんな見張りも付いているとなると、リディアナが見たミランダはますます幻覚の可能性が高い。騎士でもないただの少女が多くの見張りがいる中、部屋を抜け出すなんて不可能だろう。
けれどそれでもリディアナの心には未だ不安があった。幻覚だとそう決めるには余りにもあの時のミランダは現実味がありすぎたのだ。状況的にはありえないことでも、今でもあの一瞬がリディアナの脳裏に焼き付いて離れない。
「……リディアナ様?」
「っ、あ、いえ……ごめんなさい。少し考え事をしていて」
「……ミランダさんの、ことですか?」
メアリの不安そうな声にリディアナはそこではっとした。まだ話の途中だというのに、思考に集中しすぎてしまうなんて。慌てて謝ったリディアナに、メアリは眉を下げて問いかけてくる。その問いに、リディアナはまたしても息を詰まらせた。
緑の瞳は不安そうに揺らいでいる。何かを案じるようにも瞳に浮かぶその感情から、メアリが未だミランダを恩人と見ていることが察せられた。例え傷つけられても、今こうして敵対とも言えるような状況になっても、メアリにとってのミランダは何も変わらないのだろう。自分に目的をくれた大切な人のままだ。
「……ええ。幻覚だったのかしらってそう思って」
だからきっと。リディアナが見たミランダは幻覚だったのだ。例えどれだけそこに現実味があったとしても、リディアナの本能があの記憶は確かだとそう告げていても、きっとあの時の彼女は幻覚。リディアナの不安が生み出したただの幻。
そう願った。メアリの恩人はこれ以上その心を呪術なんかに費やしていないと、まだ決して手遅れではないと。だってそうでなければ今でもミランダを思うメアリがあんまりにも悲しい。あまりにも報われない。
「……はい。そう信じます」
「ええ、信じて。それで、他にはあるかしら?」
少し安心したように強張っていた表情を緩めたメアリに、リディアナは頷いた。ミランダのことをまだ心から信じているメアリがこれ以上傷つかないようにと、そう願いつつ。無垢に信じる彼女の心がどうか裏切られないようにと。
「えっと……」
「注意事項」
「あ、そうだった!」
「一番重要だろ、阿呆」
リディアナの言葉にメアリはまた考え込み始めた。しかし彼女が思い出すよりも早く、少年の声が呆れたように教えてくれる。そこで慌てながらも思い出したという風な表情を浮かべたメアリに、レンはますます呆れ返ったように溜息を吐いた。
リディアナはそんな二人に首を傾げる。最低限の言葉でテンポ良く会話を繋げる二人のその仲の良さは微笑ましいが、生憎それではリディアナには伝わらない。首を傾げたリディアナに気づいたのか、レンを何か言いたげに見ていたメアリは慌てて説明を始めた。
「えっと、えっとですね! その会議に参加しなかったり、代理の方を連れてきた場合は犯人として扱いますよって注意事項があって。どうしても外せない用事がある場合は、明日までに詳細と一緒に教えて下さいっていうのが……」
「……大事ね?」
「ご、ごめんなさい……!」
レンの言葉通り本当に最重要事項だったらしい。苦笑を浮かべたリディアナに、メアリは眉を思い切り下げて謝った。
欠席した場合は犯人だと断定されるとは、中々に厳しい言葉である。だがそれをしてもいいだけの重大な事件なため、文句は言えないだろう。とはいえリディアナは多くの時間を聖女教育に当てる形で予定を立てているため問題はないが、社交も並行して行っている教育係には中々に困る話だ。
「まぁまとめられて手紙出してるからメアリが忘れてても大丈夫だろうけど」
「手紙?」
「あ、はい! 教育係の方々にはお集まり戴くためにお家の方にお手紙を出しているそうです」
成程、確かにこれだけのことを間に人を交わした口頭だけで伝えるようなことはしないだろう。他にメアリが話し忘れていても、その手紙とやらを見れば問題はない。恐らく家に帰った頃にはもうその手紙が着いているはずだ。帰った際にでも読み返さなければ。
「大体わかったわ。……メアリ?」
「! あ、えっと……その、少し不安で」
そう考えて頷いたリディアナは、そこで話し終えたのにも関わらず眉を下げているメアリが目に入った。その表情は失敗をしてしまったが故の表情とはまた違うものである。
自分を中心とした問題が、随分と大きくなってしまったことに不安を感じているのだろうか。それともミランダを心配しているのだろうか。声を掛けたリディアナに、メアリは困ったようにはにかむ。その表情からは未だ不安が拭えていない。
そんなメアリにリディアナは手を伸ばして、いつものようにその手を握った。初めて触れた時に安心するような顔をメアリが浮かべたからか、彼女が不安そうな表情を浮かべるとこうして握るのがいつのまにか癖になってしまっている。そんな自分にリディアナは苦笑して、それでもメアリを真っ直ぐに見つめて告げた。
「……大丈夫よ、私がついてるわ」
「……はい。リディアナ様と、それにレンも居てくれるから。私、頑張れます!」
けれどやはりメアリは握られた手を縋るように握り返して、リディアナの言葉に安心したように笑うのだ。そんな表情をされてはこの癖を直すことも出来ないだろう。メアリの言葉にリディアナは微笑んで頷くと、名前の上がった少年の方にもちらりと視線を向けた。
レンはリディアナが置いていった本を読んでいる。恐らくお気に入りの魔眼関連の本だろう。それは一見無関心な態度に見えるが、その表情は柔らかい。素直でない少年にますます笑みを深めつつ、リディアナはメアリの手をそっと離した。
「それじゃあ勉強始めましょうか。今日は歴史の授業を主軸にしようと思ってるけれど……」
「はい! 頑張ります!」
やる気十分なメアリのそんな姿にリディアナは苦笑交じりに頷いて、そうしていつも通りの椅子に座った。正面の椅子に座る二人に、いつもの日常が戻ってきたとそう安堵して。
やはり一人自室で過ごすより、ここに居たほうが気が安らぐ。新しい自分の居場所とも呼べるその場所が愛おしくて、リディアナはまた笑った。それは昨日一人で過ごしていた時には決して浮かべることのなかった、穏やかで優しい表情だった。