第十二話
「……やっぱり、メアリを一人にするのは」
「だから、あんたは自分の心配だけしてろって」
暮れる空の下、いつも通りの帰り道をリディアナはレンと二人歩く。顔を曇らせたリディアナの何度目かの言葉に、レンは呆れた顔で首を振るとリディアナの左手を軽く引いた。
頭が痛むだろうにリディアナはレンを早くメアリの元へ戻そうと、何度も早足で歩こうとするのである。そんな彼女を止めて、支えて歩くのが今のレンの役目だった。
あれから。レラに関しての重要な話を終わらせた三人が始めたのは、いつも通りの授業だった。短い時間ではあったがその授業は、呪術の媒介がメアリから遠ざかったせいか久々に三人に訪れた平和な時間で。メアリも不幸が起こらない自分にどこか安心したように笑っていた。
そうして平和に授業を終えた後、一人で馬車までの道を戻ろうとしたリディアナを止めたのは今隣にいるレンだ。彼はぶつけた頭が痛むせいか、時折ふらつくリディアナを送ると言ったのである。
けれどリディアナはいくら媒介が離れたとはいえ、メアリを部屋に一人にするのは不安だった。メアリを害そうとしたミランダはこの神殿に居るし、その黒幕であるサラが今日神殿に訪れている可能性だってあるのだ。
部屋で謹慎のような扱いになっているメアリが一緒に送るという事はできないし、それならばレンは傍でメアリを守って欲しいとリディアナは考えた。
しかし当の本人であるメアリもまたレンの言葉に賛同したのだ。そうしてそんなメアリに心配そうな目で懇願されてしまえば、リディアナはどうにも逆らえず。
リディアナはメアリにレン以外からは声をかけられても返事をしないように言い聞かせ、こうして少年の言葉に甘えて送って貰っているというわけである。
「なんで痛いのに無理するわけ?」
「……別に、そこまで傷まないわ」
リディアナの隣を歩くレンのその歩みは、今まで見たことがないくらいに緩慢だ。それが早くレンをメアリの元に戻したいリディアナには焦れったくて、少し素っ気ない口調になってしまう。
彼が自分を心配してくれているのも、気遣ってくれているのもわかっていた。けれどこんなのはリディアナにとっては慣れたものだから。
痛くても笑っているのも、平気なふりをするのも、気づかないふりをするのも。そうやって誰かの支えを借りずに痛む時間を過ごすことが多かったから、こうして気遣われるのはどうにも慣れない。レンの不器用な気遣いも、メアリの心配するような視線も。
けれどそれでも今の口調は冷たかったような。傷つけてしまったらと、そこでリディアナは逸していた視線をレンに戻す。
けれどそんなリディアナの心配を他所に、レンはリディアナではなく周りを見渡していた。そんな彼に釣られるようにしてリディアナも思わず辺りを見渡す。夕暮れ時は参拝客も帰り、シスター達も夕食の準備を始めるらしく、人の姿は確認出来なかった。
「よし、行くぞ」
「えっ?」
リディアナと同じようにそれを確認したのか、レンが突然リディアナの手を強く引いた。突然のことに目を丸くして声を上げたリディアナを気にせず、そのままレンは帰り道とは別の方へと歩いて行く。困惑したリディアナはそんなレンを止めようとしたが、急な方向転換に痛む頭がそれを邪魔した。
「座れ」
「……急にどうしたの?」
そうしてレンがリディアナを連れてきたのは、道の端に置かれた寂れたベンチだった。使われていないせいか積もっていた汚れを軽く払い、自分が着ていた上着を敷くとレンはリディアナにそう告げる。
リディアナはレンの行動が全く理解できずに顔を顰めて首を傾げるも、早くしろとと言わんばかりの顔でこちらを見つめる少年の顔に慌ててその言葉通りベンチに座った。
座らせて、それでどうしたいのだろう。そうレンに尋ねようとしたリディアナは、けれどそこで言葉を詰まらせた。真剣な表情でこちらを見つめるレンが、壊れ物に触れるような仕草でリディアナのその頭に触れたからだ。
少年の薄い唇が、リディアナには相変わらず理解できない不思議な響きの言葉を呟く。それは何度か聞いたその言葉たちよりも、長い言葉のようだった。そうして紡ぎ終えたのかレンがその口を閉じた瞬間、リディアナの頭を苛んでいた痛みは一気に薄れる。奇跡のようなそんな出来事に目を見開くリディアナを、レンは不敵に笑って見下ろした。
「……どうだ?」
「……痛く、ないわ」
「よし」
ぱちぱちと、リディアナは瞬きを何度も繰り返す。けれど何度繰り返してもその頭の痛みがぶり返すことはなかった。どうやらこれは夢ではなく、本当に現実で起こった出来事らしい。
半ば呆然とリディアナは満足そうにこちらを見下ろす少年のその顔を見上げた。紫色の瞳は夕焼けの色と混ざって、いつもよりも赤く輝いて見える。いや、本当に赤いのか。そう気づいてリディアナは立ち上がり、慌ててレンの頬へと手を伸ばした。それにぎょっとするレンに気づかずに。
「こ、これ大丈夫なの……!? すごく赤いけれど……」
「っ、べ、別に問題があるわけじゃない……!」
「ほ、本当に?」
「いいから、離れろ馬鹿!」
ぺたぺたと頬に触れられることが我慢ならなかったのか、そこでレンは立ち上がったリディアナを再びベンチへと座らせる形で引き剥がした。その頬は少し赤くなっていたが、瞳はゆっくりと元の紫色へと戻っていく。リディアナは乱暴に引き剥がされたことは気にせず、戻っていくレンの瞳の色に安心して息を吐いた。
「よかった……」
「……多めに力使うと、魔力が集中して色が変わるだけだ。別に支障はないからな」
「そうだったのね。無闇に触ってしまってごめんなさい」
どこか不機嫌そうに告げるレンに、リディアナは謝る。レンが本当に見た目通りの年齢かはわからないが、仮に見た目通りの年頃だったらベタベタと触れられるのはさぞ不愉快だったはずだ。素直に謝ったリディアナにレンは言葉を詰まらせると、ふいと視線を逸らす。その頬は夕焼けのせいか少し少し赤かった。
リディアナはそこで少し考える。レンは今多めに力を使ったと言った。つい先日リディアナは彼に手のひらの傷跡を治して貰ったばかりだ。その時に彼の瞳の色は特に変わらなかったことを考えるに、治りかけている傷跡などは少しの力で治すことが出来るということである。逆に負ったばかりの傷を治すのには力が多く必要ということだ。
きっと、レラの時はこうしてバレたのだろう。リディアナはそう直感した。メアリがレラによって負わされた新しい傷を彼女が眠っている間に治そうとして、瞳が赤くなる。そこをレラに見られて、レンは先程聞いたあの脅しを受けたのだ。
「……あの、ありがとう」
視線を未だ逸したままのレンにリディアナは微笑み、心からの礼を告げた。リディアナが聖女の教育係に任命された時期を考えるに、レラの件があってから恐らくそう時間は経っていない。メアリは勿論だが、レンにだって彼女から付けられた傷があるだろう。親しい人が傷つくのを見ていることしか出来ないのはとても辛いことだ。
けれどレンはリディアナのために、こんな誰が通るともわからない道端で力を使ってくれた。人目がないことは確認していたけれど、それでも外では誰が見ているかなどわからないものだ。きっともう誰かに力を使っているところを見られるのは嫌で仕方ないだろうに。
「……別に。元はと言えば俺のせいだからな」
「え?」
「何でも無い。ほら、帰るんだろ」
強い風に攫われ、何か呟いたレンのその言葉をリディアナが聞き取ることは出来なかった。聞き返したリディアナにレンは苦い顔で首を振り、そっと手を差し出す。リディアナは当然のように差し出されたその手に思わず目を丸くした。
「? 急いでたのあんただろ」
「……ええ、そうね。早く行かなくちゃ」
「ん」
戸惑うリディアナに眉を上げたレンは、不思議そうに問いかける。リディアナはその言葉に慌ててレンの手を取って立ち上がった。レンはリディアナの手をしっかりと握ると、敷いていた自分の上着を回収して再び歩き出す。彼の手が握ったリディアナの手を離すことはない。
当たり前のように自分の手を握って歩く少年の背中を、リディアナは戸惑いながらも見つめた。二人が手を繋いでいたのはふらつくリディアナを支えたり止めたりするのが目的だったはずで、今頭の痛みが消えたリディアナの手を握る理由はレンにはないはずだ。それなのに握るのが当たり前のようにレンに手を差し出されたから、リディアナは思わずその手を握ってしまった。
自分の前を行くレンのその背中は、少年なだけあって自分よりも当然小さい。けれどリディアナはその背中にある日の面影を重ねていた。まだ元気だった頃の母に手を引かれ、そうして庭を歩いた幼いあの日の記憶を。思い出すと愛おしくも切なくなる、濁りがない幸せだった頃の日々を。
振り返る母はいつも優しそうに笑っていて、リディアナもそんな母に笑顔を向けた。代わり映えはしない日々だったが、それでもリディアナにとっては何よりも大切な日々だった。
懐かしい記憶を思い出して切なくなったリディアナ。しかしそこで何を思ったかレンは突然振り返る。当然その顔は母のものではなかったが、やはりその紫の瞳はリディアナが母であるアナスタシアを連想するには十分な色だった。
けれど母に似た色を持つ少年は告げる。ぶっきらぼうに、投げ捨てるように。けれど思いやるように、優しく。そうしてレンは無意識の内に、リディアナが見ていた幻想を壊したのだ。
「……少しは頼れば?」
「……え」
「痛いくらいなら俺がどうにかしてやる。あんたには借りがあるから」
そのレンの言葉にリディアナは何故か声が出せずに、ただ頷いた。それに頷き返してまた前を向き直したレンに気付かれないように、リディアナはそっと俯く。僅かに見えるその背中は、もう母に被ってなどは見えなかった。
頼れなんて、そう言われたのはいつぶりだったか。俯いたリディアナはそう思う。リディアナは別に誰に頼らずとも、大抵のことは自分でどうにかできる。
完璧だから、完璧でなくてはいけなかったから。そうして完璧になったリディアナに頼れなんて言う人は居ない。手を出す方が申し訳ないと、アンリではない侍女にそう言われたこともあった。
「……ありが、とう」
「もう聞いた」
でも目の前を歩いて素っ気なく返事を返す少年は、リディアナを助けることが出来るのだ。まるで絵本の中の魔法使いのように奇跡の力を使う少年は、リディアナに頼れなんて言う。それが新鮮で、少しむず痒くて、リディアナは少しだけその頬を赤く染めた。夕焼けのせいだと、そう思えるくらいの色に。