第十一話
「……っ、あれ、私……?」
「……メアリ、おはよう」
レラの話をレンから聞いて一時間程経った頃だろうか。椅子で眠っていたメアリがそこで目を覚ます。そんなメアリにリディアナは即席の背もたれに寄りかかり、座ったままの態勢で微笑みかけた。
レンに渋い顔をされはしたものの、どうにも夜でもないのに寝転んだままというのは落ち着かない。メアリの部屋からいつものバスケットをレンに頼んで持ってきてもらい、リディアナは彼が本を読むのを見守っていた。いつもどおり二人用の簡単な問題集を作り、メアリが起きるのを待ちながらも。
「え、私、寝てました……?」
「ええ。最近は色々とあったし、きっと疲れていたのね」
「で、でも……! さすがにあの話をする時に寝るなんて……」
怪訝そうに眉を下げるメアリに、レンの表情が僅かに強張る。本を読むフリをしながらも意識が完全にメアリに集中している少年を見てリディアナは苦笑を浮かべつつ、困惑しているメアリに優しく告げた。
「……彼から前教育係の人の話は聞いたわ」
「っ……!」
「人というのは恐ろしい記憶を思い起こそうとすると、ショックで意識を失うことがあるの。きっとそれに似た症状で貴方は眠ってしまったのよ」
「そう、なんですか……」
話は聞いたと言ったリディアナに、メアリの顔は一気に凍りつく。けれど自分が話さずに済んだことにだろうか、無意識の内かその口からは安堵にも似た溜息が零れた。
強がってはいたものの、やはりあのような過去は自分で話したいものではないのだろう。あの時のレンの判断は正しかったと内心頷きつつ、優しい笑顔を浮かべてリディアナはメアリを丸め込んだ。
基本的にリディアナに全幅の信頼を寄せているメアリは、その言葉をあっさりと信じて頷く。決して間違えた情報を伝えたわけではないが、事実とは異なることを教えてしまったことにリディアナは若干の罪悪感を抱いた。勿論そんな感情を表に出すことはないのだけれど。
「……なんか、申し訳ないです。教育係になってもらってから、リディアナ様には迷惑を掛けっぱなしで」
そんなリディアナの内心を知らずに、メアリは萎れた声で呟く。迷惑とはレラのことだろうか。リディアナはそう考えて眉を下げた。
メアリが迷惑だと言ったそれらはどれも彼女に原因があるわけではない。それでもメアリの視点から見てしまえばそれらはどれも自分のせいになってしまうのだろう。
ただそれが本当にメアリのせいであったとしても、別にリディアナのやることは変わらない。時に優しく時に厳しく、そうして聖女候補を導くのが教育係の仕事だ。だから真実がどうあれ伝える言葉だって変わらないと、リディアナは真っ直ぐにメアリを見つめる。
「……いいえ、聖女候補を支えるのが教育係の第一の務めだもの。……それにメアリ」
「? はい」
「私はその、貴方を友人だと思ってるわ。友人の助けになれるのは、私にとっても嬉しいもの」
少し気恥ずかしいものだと、リディアナははにかみながらもそう告げた。後半はリディアナ個人の言葉にはなってしまったが、どちらも心から思っている事実だ。
過ごした時間はまだ少なくとも、リディアナは素直で可愛らしいメアリを友人だと思っている。そんな彼女が困っていたら手を貸すのは当然で、彼女が言う迷惑なんてものにはならない。
「ゆう、じん……? え、ええ!? ゆ、友人ですか!?」
「っ、ふふ。ええ、友人ね」
「わたわた、私が!? リディアナ様の!?」
「ええ、そうよ。貴方が」
リディアナの言葉に理解が追いつかなくなったようで、メアリはそこで目を丸くした。そうして一拍の間の後、悪かった顔色を脱ぎ捨てその表情を真っ赤に染める。動揺からか大声を上げながら吃るメアリに、リディアナは思わず吹き出した。
慌てながら何度も確認をするメアリに、リディアナもまた何度も頷いて言葉を返した。その反応や上擦った声を聞くに嫌というわけではないらしい。内心安堵しつつ、リディアナは未だ慌てているメアリを微笑んで見つめた。
「嫌、かしら?」
聞かずともその反応で十分なくらいにわかってはいるが、リディアナは思わず尋ねてしまった。想像通り激しく首を振って否定を始めたメアリに、その笑みを深める。
素直で可愛らしい反応を返してくれるからか、メアリは時折こうやってからかいたくなる。性格が悪いだろうか、少し反省しつつリディアナは良かったと、そう返した。リディアナがそう言わなければ、メアリは永遠に首を振ってしまいそうだったので。
「あの、あの……! 私なんかが、本当にリディアナ様のと、もだちで良いんでしょうか……?」
「? どうして?」
「だ、だって……私ずっと迷惑かけっぱなしだし、特に良いところもないですもん」
リディアナの言葉に首を振るのをようやく止めたメアリは、そこでおずおずと尋ねてきた。相変わらず上手く自己肯定が出来ずにいるメアリにリディアナは苦笑して、首を横に振る。
相手に友情を感じてさえいるのなら、友人関係においてそれ以外は対して大きな問題ではない。リディアナはそう考えている。
立場や能力で友人を決めるわけではなく、ただ自分が好ましいと感じる人間とそういう関係になりたい、友人関係なんてただそれだけのことである。ただそれでもメアリが不安だというのならば。
「……そうね。私には実は一人、大事な友人がいるのだけれど」
「え? は、はい……」
突然語りだしたリディアナに、メアリは不思議そうに目を瞬かせた。よく見てみれば、メアリのその瞳の色は昔日の友人の色に似ている。今になってすっかり深い色に染まった彼の昔のその瞳の色は、メアリと同じ青りんごのような色だった。
太陽の光の元、輝く彼のその色が少し羨ましかったとリディアナは懐かしくなる。そう告げたリディアナに彼は、リディアナの瞳のほうが深みのある格好いい色だとそう笑っていた。その笑顔も今では少しぼやけた記憶になってしまっているけれど。
「その人からは今蛇蝎の如く嫌われているの。でも、私にとっては今も大事な友人よ」
「……嫌われてても、ですか?」
「ええ。だから私は、自分が友人だと思う分には自分の勝手だと思っているわ」
限度はあるけれど、そう言ってリディアナは笑う。勿論友人だと思い込み、それでその人本人に迷惑をかけるのは友情でも何でも無いだろう。けれどただこちらが過ごした日々を宝物のように思い、友人だとそう思うだけならば別に誰に咎められるものでもない。
これはリディアナの考えで、この考えを滑稽だとか気持ち悪いだとかそう言う人もいるだろう。ただそうやって強い言葉で誰かの考えや思想を、自分の思う方向に無理矢理捻じ曲げようとするその人の方がリディアナにはよっぽどおかしく映る。けれど言葉に出さず、内心でそう思うだけならばその人の考えだって自由だ。
「だから別にメアリに友人と思われなくても、私は貴方を友人だからと言って助けるわ。そのことを貴方が負い目に思わなくてもいいの。私がしたくてしているのだから」
「…………」
「ああ、でも……そうね、一つだけ気をつけてほしいことがあるの」
淡々と語るリディアナに眉を下げ、そうして何かを考えるように黙り込んだメアリは、けれど気をつけてほしいことという言葉に顔を上げてリディアナを見つめた。どこか緊張して見えるその瞳に優しく笑い、リディアナは告げる。
「メアリはとっても素敵な人よ。だから自分の言葉だったとしても、その言葉で自分を貶めないで。言葉にすればきっともっとそういう風に思ってしまうから」
「!……は、い」
その言葉にメアリは戸惑うように息を呑んで、そうしてまた視線を落とす。けれどそうして吃りながらも、何かに押し動かされたように頷いた。
これで少しでもメアリが自分のせいだとか、自分が悪いとか、そんな風に思わなければいい。リディアナはそう思った。メアリがそう思ってしまう根本の原因の解決は今はできそうにない。それに必要なレンがそれを拒んでいるのだから。
けれどメアリの傷を埋めようとしてレンの傷を抉っては意味がない。きっと2人はお互いの傷に痛みを感じるのだから、意味が無い。だから少しでも彼女の傷を慰める何かを、リディアナは作ってあげたかった。
メアリが自分に憧れていることをリディアナは知っている。その視線や仕草から、痛いほどにそれは伝わってくるから。故にそんな存在が自分を認めてくれているというのは、彼女が自分を肯定できる一つの材料になるはずだ。母が認めてくれることがリディアナにとっては何よりも心強いように。
「……あの、リディアナ様」
「? ええ」
アナスタシアの笑顔を思い返して心臓が鈍く傷んだリディアナに、メアリは自信がなさそうに声を掛けた。けれどリディアナが見上げたメアリのその表情には声とは裏腹に強い覚悟が宿っている。震える口で、少しだけ自信がなさそうに、それでもメアリは笑って告げた。
「いつか私が、その……リディアナ様を助けられるくらいに強くすごくなったら! そうしたらリディアナ様のことをお友達だってそう呼ばせてください!」
それは希望に満ち溢れた未来の約束だった。やはり今ではメアリは自分をリディアナの友人だと認められないらしい。だからメアリはきっと未来に賭けることにしたのだろう。努力を重ねて、そうして心からそう思える日々を描こうとした。
しかしリディアナはその言葉に息を詰まらせる。それまでに自分はここに居るだろうか、そんな考えがリディアナの頭を一瞬過ぎった。
けれど笑顔で自分を見つめるメアリにそれは出来ないなんて告げられず、リディアナはいつもよりも少しだけ不器用に見える笑みを浮かべて頷く。そうして頷くことが一番残酷だと、そうは知っていても。
「……素敵な約束ね。ええ、約束よ、メアリ」
「っはい! 約束です」
嬉しそうに笑うメアリは、罪悪感に押し潰されそうなリディアナに気づいた様子はなかった。けれど二人のやり取りを静かに見守っていたレンは、いつもよりもぎこちなく笑うリディアナに気づく。紫の瞳はそんなリディアナを見て、何かを思案するような色を浮かべた。