第十話
突然現れて様々な意味で状況をかき乱したクレアは、レラの話をした後にエレンを連れて去って行った。「長居は無用ですわ」とそういう言葉と共に去って行った彼女だが、どこか心配そうな表情を浮かべていたことから、レラという名前が出てから萎れてしまったメアリを気遣っての行動なのだろう。その思いやりに感謝しつつ、リディアナは先程から黙り込んだままのメアリの様子を窺った。
俯くメアリのその表情は可哀想なほどに青褪めていた。緑色の瞳は恐怖という感情に揺らぎ、拳は握りしめられ震えながら膝の上。それでもリディアナの視線に気づいたのか、メアリは顔を上げてぎこちない笑みを浮かべる。それは怪我人のリディアナを心配させまいというような、そんな健気な表情だった。
「リディアナ様、えっと……レ、ラ様は私の、私の最初の教育係の人で……」
「……メアリ、俺が話すから」
「だ、大丈夫! 自分で話せる、から……」
レラ、その名前にまたメアリの声が震える。それを心配してか、レンがメアリのその手を握って無理に話そうとする彼女を止めた。けれどそんなレンの言葉にメアリは頷かず、空元気か明るい声を上げる。けれどどれだけ明るい声だとしてもそんな表情では意味がない。恐らくそうだと自分で気づいていながら、それでも。
リディアナも思わずそんなメアリに眉を下げた。詳しい話は知らないが、恐らくメアリにとってレラという存在はトラウマになっている。震える声や頬を伝う冷や汗、その表情が何よりの証拠だ。
気にならないと言えば嘘になるが、そこまで嫌な記憶を思い起こしてしまうというのならば無理して自分に話そうとしなくていい。リディアナはそうメアリに告げようとした。しかし。
「……はぁ、『眠れ』」
「あ……?」
けれどそれよりも早く、レンが溜息混じりに聞き取れない不思議な言葉を唱える。すると次の瞬間、メアリの表情が恐怖に引きつったものからぼんやりとしたものに変わった。体から余計な力が抜け、だらりと脱力してメアリは背もたれの方へと重心を傾ける。
そうして椅子に寄りかかり、規則的な呼吸で突然眠り始めたメアリにリディアナは目を見開いた。眠るメアリのその表情は緊迫していたものが消え、とても安らかである。驚くリディアナに軽く視線をやって、そうしてレンはまた溜息を吐いた。その表情にはどこか罪悪感のようなものが見て取れる。話そうとしていたメアリを無理矢理眠らせてしまったからだろうか、リディアナはそう思った。
「……そういう、力もあるのね」
「……まぁ、これは最近重宝してる」
どこか呆然と呟いたリディアナに、レンは苦く笑って返事を返す。あの女のせいでメアリは一時期眠れなかったからな。そう一人ごちた少年は、握っていた手を離しながら安らかに眠るメアリを優しく見つめる。
その視線の優しさは慈愛を体現したかのようで、リディアナはどこか心臓が締め付けられるように感じた。それはレンがどれだけメアリを見守ってきたのか、それが伝わるような表情だったから。
あの女、そうレンが呼ぶ存在がレラなのだろうか。レンが言うにはどうやら眠れないほどまでにメアリはレラに追い込まれたらしい。メアリのあの恐慌する様子を見たことにより、それは本当なのだろうとリディアナは察した。
メアリはおどおどとしているように見えるが、存外前向きな性格で根は明るい子だ。そんなメアリがトラウマになるようなことを、レラがやったのだろうか。聖女の、メアリの教育係だったと言うのに。
「メアリより俺の方が詳しく話せる。だから後でメアリを誤魔化すのを手伝ってくれ」
難しい顔で考え始めたリディアナに、レンは静かな声でそう告げた。どうやらレラについてはレンが説明してくれるらしい。誤魔化すとは、急に眠ったことについてだろうか。そう言えばレンはメアリに魔法が使えることを話していないのだったと、そこでリディアナは思い出す。そうしてそれについて触れられるのを拒んでいたことも。
少年が浮かべた儚い表情を思い出す。二人のその事情も気にならないと言えば嘘になるが、きっとそれはリディアナが聞いて良いようなことではないのだろう。そう考えてリディアナはゆっくりと起き上がった。そろそろ頭の方の痛みは引いてきたところである。
「ええ。今日は色々とあったから、メアリも疲れてしまったのね」
「……ん、そうだな」
起き上がったリディアナにレンは渋い顔をしたが、けれど微笑んで続けられたその言葉に小さく笑った。きっと素直なメアリのことだ、二人で丸め込んでしまえばあっさりと信じてくれることだろう。リディアナはそう想像して笑みを深めつつ、けれど真剣な表情になったレンに釣られるようにして表情を引き締めた。少年の重いその口が開かれるのを、リディアナはじっと見つめる。
「……あの女は、嫌な奴だった。平民が想像する貴族の嫌な奴って感じで」
「……確かに社交界ではサラ様はともかく、レラ様はあまりいい噂を聞かないわ」
「ふーん。やっぱああいうのは貴族からしても嫌な奴に見えんだな」
吐き捨てるようにして語りだしたレンの言葉にリディアナは思い出す。現教育係であるサラのことばかりに目が行ってあまり深く考えなかったが、レラは社交界であまりいい噂を聞かない。
噂とは誇張や悪意で捻じ曲げられる事が多いためリディアナはそう噂を信じる方ではないが、けれどそんなリディアナが眉を顰めてしまうほど、レラの評判は良くなかった。その美しい容姿以外は。
やれ他の令嬢の婚約者を奪ったなど、やれどこかの商人の息子と一晩を明かしたなど。大概は色恋に関するよくある醜聞が多かった。ただよくあるとはいえ、問題はその数だ。そういう噂が数え切れないほどにあったため、レラは令息の評判はともかく令嬢からの評判が悪かったのだ。
「初日から最悪だったよ、あの女は。歴史の本とかマナーの本を適当に置いて、メアリに読ませようとしてた。まずメアリは文字すらわからなかったのにな」
「……それは」
「でメアリが文字を読めないって言ったら不機嫌そうな顔でじゃあ勉強しろって。……あんたを見てるに、まずその文字を教えんのが教育係の仕事なんだろ」
レンの問いかけにリディアナは眉を顰めて頷いた。この国の平民の識字率はそう高くない。商人の娘でもなければ文字を読めないと判断し、それに合わせた教育を聖女候補に施すのが教育係の仕事だ。それなのに初日から専門の本で勉強を開始しようとしていたのは、どういう考えがあってのことだったのだろうか。
「あの女は必死に本を見るメアリを見てるだけだった。怠そうに見て、それで一時間もすれば部屋から出てった。明日までにその内容を身に着けとけって言って」
「……そんなの、無理に決まってるわ」
「ああ、当然文字が読めないメアリにそれは無理だった。なのに出来なかったって言ったメアリを次の日、あの女は扇子で殴った。それで倒れこんだメアリにそれなら明日までに覚えろって、そう言ってすぐ帰った。何も教えずにな」
しかしレラに考えなどはなかったらしい。リディアナは淡々と告げられたレンのその言葉に思わず息を呑んだ。到底無理なことを要求しておきながら、それが出来なかったというだけで扇子で殴る。それは少しもリディアナには理解できない行動だった。
殴られたメアリはその時どんな気持ちだったのだろう。無理な要求をされ理不尽に殴られ。きっとリディアナでは想像ができないくらい恐ろしかったはずだ。レラの方が身分が高いことから逆らえもせず、ただ理不尽な要求に怯える日々なんて。
リディアナは無表情で語るレンから一度視線を外し、眠るメアリを見つめた。その安らかな表情に少し安堵して、再びレンを見る。その表情を見るに、まだ話が終わったわけではないのだろう。レンはリディアナの様子を確認すると、一度頷いて再び語りだした。
「そういうのが三日くらい続いた。痣や隈が増えて憔悴していくメアリに、俺は神殿側に報告しろってさすがにそう言った」
「そうね。さすがにそれはいくら教育係だとしても許されないわ……けれど」
「ああ、あんたの想像通りだよ。メアリは出来ない私が悪いって頷かなくて、だから俺はメアリが寝てる間にその傷を不自然じゃないくらいに癒やすことしか出来なかった」
想像通りの答えだ。そういう状況になった時、メアリはまず自分を責めるのだ。ミランダのことを説得する時もそうだったように。
傷が増えていくだけで聖女教育が何も進まないメアリと、それを見ていることしか出来なかったレン。そんな光景を想像するだけでリディアナの胸は重くなる。傷んで傷んで、苦しいくらいに。きっと何度もメアリは殴られたのだ。それを何度もレンは見ていたのだ。それはどれだけ苦しい日々だっただろう。
「でもある日、俺がメアリを治しているところがあの女に見られた」
けれどそこで無意識に俯いていた顔をリディアナは上げる。嘲るようにレンが声を低くしたからだ。目線を上げたリディアナの視界に入ったのは、声に連動したかのように侮蔑して嘲笑うレンの表情。その紫の瞳は憎しみと怒りに満ちていて、リディアナは初めて見るその顔に息を呑む。
レラはその日に何をしたというのか。不器用ながらも根が優しいこの少年がこんな表情を浮かべるようなことを、したというのか。
「連日読めない本を読もうとしてたメアリが疲れて寝てた時だったよ。俺が力を使ったのを見たあの女はなんて言ったと思う?」
「……いいえ、わからないわ」
ぞっとするくらい冷たい表情を浮かべるレンにリディアナは戸惑いつつ、正直に告げた。リディアナにはレラの行動は理解できない。故に皆目見当もつかず、想像すらも困難だった。
けれどわからないというリディアナのその答えはレンの心に響いたらしい。その答えに一度目を瞠ったレンは、ゆっくりと瞼を閉じる。そうして再び開いてリディアナを見たレンの瞳の色は、渦巻いていた感情たちが少し落ち着いて穏やかになっていたように見えた。先程よりも少し優しい声で、レンはリディアナに答えを告げる。
「……そうだな、あんたはわかんなくていい。あの女は俺を奴隷になれって。そうじゃなきゃメアリが酷い目に遭うって嗤ったんだよ」
「……奴隷、って」
聞き馴染みの薄いその言葉にリディアナは眉を顰めた。ティニア王国では奴隷制度は許可されていない。海を超えた先の遠い国ではそういう制度もあると聞いたことがあるが、それも犯罪を犯した上での身分剥奪によるものだという。なのにレラは、何も悪くないレンにそう告げたのか。メアリを脅しに使った上で、そんなことを言ったのか。
リディアナは本来怒りという感情が酷薄だ。それは怒っても憎んでも視界を狭めてしまうだけよ、という母親のアナスタシアの教えから来ている。故に悲しくても、苦しくても怒ることだけはしないようにしていた。
けれどそんなリディアナでも、レラに対しては腹の底でふつふつと湧き上がるものがある。彼女が行ったのはメアリやレンに傷を付けて付けて、挙句の果てに抉るような真似だ。今までにない感情が芽生えたリディアナは、その感情に戸惑いつつもレンを見つめた。すっかり静かになった紫色がリディアナを見返して、少し苦く笑う。
「さぁな。俺は気持ち悪くて腹が立って憎くて、あの女が一番恐れている幻覚を見せた。そうしたらあの女は錯乱して、気づいたら神殿に来なくなってたよ」
「……そう、だったのね」
レンがリディアナに使った幻覚の始まりはレラからだったのか。どこかすとんと納得したリディアナの相槌にレンもまた頷く。恐らくそこからこの少年の貴族嫌いは加速し、ああして過剰なほどにメアリを守るようなったのだ。
リディアナはレンと初めて相対した時、その守り方は間違っているとそう言った。今でもそのやり方が正しいとは思えない。けれどその時のその守り方だけは、正しいものだとそう思った。そうでなければ今レンはここに居ないかもしれないのだ。
「でも、それで終わりじゃなかった。あの女のことはまだ終わってなかった」
けれど納得したリディアナを他所に、そこで何かを悔いるようにレンは低く呟く。今こうしてその時に撒いた種が、別の形でメアリに襲いかかってきていると知ってしまったからだろう。姉のレラの復讐をしていると考えられるサラ。それはリディアナから見ればただの逆恨みでしか無い。
しかしレンから見れば自分のせいに見えてしまうのだろう。自分がレラを錯乱という形で神殿から追い出したから、サラはメアリを恨んだ。そこにメアリは何も関与していないというのに、図らずもメアリはレンの盾という位置になってしまった。本来は恨みを買うのはレンだったはずなのに。
「でも、貴方のせいじゃないわ。……絶対に」
リディアナはどこか後悔したように見えるそんなレンを真っ直ぐに見てそう告げた。ゆっくりと強く首を振って、断言する。断じてレンのせいではない。元凶はレラで、後はその巡り合いが悪かっただけだ。レンはただ、大事な人を守ろうとしただけなのだから。
「……馬鹿。あんたにそんな顔してもらわなくても、知ってる」
リディアナの言葉にレンは目を見開いて、そうしてくしゃりと笑った。馬鹿とそう言ったのは照れ隠しなのだろうか。時折見せる見た目相応なレンの少年らしい仕草は、リディアナにとって微笑ましいものに感じた。
人は時折、後悔しなくてもいいことに後悔を感じる時がある。どうしようもなかったことを後悔という形で抱えて生きていくことがある。きっと今レンが抱えることになったその重荷が、リディアナの言葉によって少しでも軽くなっていればいい。そう願ってリディアナは微笑んだ。