第九話
先程までの穏やかな空気はどこへやら、今病室内には妙な雰囲気が満ちていた。突如として現れた見知らぬ貴族に警戒心を向けるレンと、状況についていけずに混乱するメアリ。自信満々というような勝ち気な笑みを浮かべてリディアナだけを見つめるクレアと、気怠げに欠伸をしてみせるリディアナの知らない少女。
そんな混沌とした状況にリディアナも多少の動揺こそあったが、軽く息を吐くことでその動揺を収める。今恐らくクレアが用があるのはリディアナなのだろう。宿敵とそうリディアナを呼びながらこの部屋に入ってきたことであるし。
「……それでクレア様、私に何の御用でしょうか?」
そう考えたリディアナは柔らかい微笑みを浮かべてクレアを見返した。呼び方を考えるに変わらず敵視されているようだが、そんな彼女は一体どんな用があってリディアナの元を訪れたのだろうか。もしかして今回のメアリの件に関しての話をしに来たのかもしれない。柔らかい表情の下に、そんな警戒を隠しつつ。
「み、見舞いよ! ふん、そんなこともわからないなんてよっぽど悪いのね!」
「……この態度でお見舞いは、やっぱり無理があると思うよクレア様」
「う、うるさいわねエレン! 貴方はお黙り!」
しかしクレアのその答えはリディアナの想定外のものだった。リディアナの言葉に顔を赤らめたクレアは、途端にリディアナから視線を逸してつんと告げる。その言葉に目を丸めたリディアナを他所に、何が火種になったのか突然エレンとそう呼ばれた少女とクレアの言い合いが始まってしまった。
「クレア様がどうしてもって言うから付いてきたのに?」
「捏造するんじゃないわよ! どうしても付いてきたかったら同行を許すと言ったの!」
「……涙目だったくせに」
「うるっさいわね! あたくしに教えられる立場の癖に生意気よ貴方!」
息の合った喧嘩を見せ付けてくる二人に、リディアナは呆気に取られる。しかしそんなリディアナの身体に、ふと不自然な重みがかかった。二人の喧嘩に気を取られていたリディアナはその押し戻すような力に倒れ込み、ゆっくりとまた枕へと頭を預けることになる。その視界に、サラリと揺れる亜麻色が映りこんだ。
「あんたは寝てろ。俺が黙らせる」
「えっ……」
リディアナの体をそうして再び寝かせたレンは、困惑しているリディアナに天使のように微笑むとその表情に似つかわしくない低い声で小さくそう告げた。物騒にも聞こえるその言葉に、慌てて止めようと伸ばしたその手は少年の体を捉えられず、空を切る。
ならばと今度は起き上がって止めようとするも、そもそも起き上がることを傍に居たメアリに止められてしまう。不安そうにしながらも首を振るメアリを見ては何も出来ず、ただリディアナは未だ言い争う二人に近づいていくレンを見守ることしか出来なかった。
「……すみませんがお客様方。フォンテット様はお怪我をなさったのです。お見舞いに来たというのならお静かにお願い致します」
「……あ、あら。大変失礼いたしましたわ」
「ご、ごめんなさい……」
しかしリディアナの予想に反してレンは乱暴に二人を止めること無く、可愛らしく丁寧な少年のフリをして二人を止めにかかった。とは言えその背後には到底少年らしくない圧が掛かってはいたのだが。
天使のような笑みの裏に見える黙れという圧を感じ取ったのか、二人は途端に勢いを落としながら謝罪する。それに気にしないでくださいとそう微笑むレンの表情には、その柔らかい言葉に反してやはりどこか圧があった気がした。
「こ、こほん。失礼しましたわリディアナ・フォンテット。見舞いに来たというのにお恥ずかしい姿をお見せして」
「……いいえ。クレア様もお忙しい身でありながら、わざわざ見舞ってくださりありがたい限りです」
そうして少年の圧に負けた二人はレンの指示に従い、彼が用意した部屋の隅にあった椅子に腰を落ち着けた。メアリやレンと同じ距離感の位置よりも、少し離れたところに二つの椅子を置いたことにレンの警戒心が透けて見える気がする。リディアナはそう考えて苦笑しつつ、謝罪するクレアに小さく微笑んだ。
突然のことで頭がついていかず驚きはしたが、萎れたクレアの様子を見るにどうやら彼女は本当にお見舞いに来てくれたようである。リディアナが顔が見える程度の少し離れた位置で眉を下げてみせるクレアからは、それ以外の感情を伺えない。
リディアナがこうして倒れたことで神殿が大騒ぎになったとレンは言っていた。恐らくその騒ぎが彼女の耳にも届き、顔見知りだからという理由でお見舞いに来てくれたのだろう。高慢などと社交界で陰口を叩かれることが多い彼女が、実は義理堅い人物だということをリディアナは密かに知っている。
「そういえば先日も母の見舞いにと花を贈ってくださいましたよね。母も喜んでいました。本当にありがとうございます」
「! べ、別に貴方のためではなくてよ。アナスタシア様には母もお世話になったことがあったからであって、貴方への気遣いではないのだから!」
「? ええ、存じています」
「……そう」
顔を背けて否定を始めたクレアに内心首を傾げつつ、リディアナは穏やかに相槌を返した。アナスタシアの見舞いのために花を贈ってくれたというのは、当然アナスタシアのためだろう。当然リディアナも自分のためだという勘違いはしていないのに、どうしてそんなに激しく否定するのだろう。最後にはどこか落ち込んでしまったようだし。
クレアはリディアナにこういう不可思議な態度を取ることが多い。それは恐らく歳と家格が近い令嬢として、リディアナを敵視しているからだとリディアナは考えている。上昇志向の高い彼女から見れば、リディアナは目の上の瘤なのだろうと。
けれどクレアは節目節目に礼節を尽くした招待状をリディアナに送ってくれたり、母への見舞いの品を贈ってくれたりしている。恐らく嫌々なのであろうが、リディアナはそんな彼女の義理堅く真面目な性格を好ましく思っていた。上昇志向が強く口調や雰囲気が威圧感を与えることもあるが、根は真面目で善良な人なのだ。
「それにしても……クレア様は聖女候補様と仲がよろしいのですね」
「……リディアナ・フォンテット。貴方の目は節穴ですの? エレンは不真面目で困ったものですのよ」
「クレア様の教え方が悪いんだよ」
「そういう態度が不真面目だと言ってるのよ! 全くもう……」
だから彼女と共に現れた聖女候補がミランダではなかったことに、リディアナは内心苦い安堵を抱いていた。リディアナの言葉にクレアは顔を顰めて見せるが、エレンとそう呼ぶその声音には親しみがあった。そして名前も呼ばれたエレンもまた、気安い口調も合わせてクレアに良く懐いているように見える。二人はメアリとリディアナに比べれば全く違うあり方ではあるが、恐らく一つの形として上手くやって行けているのだ。
クレアがエレンの教育係ならば、ミランダの教育係ではない。つまりそれはミランダの教育係がもう一人の教育係のサラ・ギブソン伯爵令嬢ということに決定する。ミランダに呪術を教えた、黒幕であるということが。
付き合いのあったクレアよりも、付き合いのないサラが黒幕であったことに安堵してしまう自分。そんな自分にリディアナは嫌悪感を抱いた。知り合いよりもそうでない人が犯人であることに安堵する。当然の事でもあるけれど、やはり浅ましさはどこか拭いきれぬものだ。
「あたくしも貴方の聖女候補のような人が……あらでも、貴方は問題児と呼ばれていましたわね。到底そうは見えませんけれど」
「え、え……ええと、すみません」
そんな風にリディアナが考え込んでいる間に、クレアの興味はメアリの方へと向かったらしい。高位の令嬢の言葉に何を話せば良いのかと、混乱して謝罪をするメアリにリディアナは心配が募る。さすがにまだメアリが相対するのは難易度が高すぎる相手だ。とは言えエレンの態度を見るにクレアは平民には寛大な方だと捉えられるので、そう心配はいらないのかもしれないが。
「あら怒っていなくってよ。あの噂はサラ・ギブソンが元凶だから大して信じてもいなかったもの」
「え……?」
「っ、どういうことでしょうか。クレア様」
やはり平民には寛大らしい。軽く微笑んでメアリの態度を流したクレアは、その口でさらりととんでもないことを告げた。クレアが告げたその言葉に目を見開くメアリ。リディアナもまたその話を黙って聞いていられずに、不躾とはわかっていても口を挟む。あの噂はメアリが教育係を辞めさせたことから生まれた噂ではなかったのか。
「っ、何よ。突然話しかけないでくださる?」
「すみません。ですがどうしてもお聞きしたくて……メアリの噂を、何故ギブソン嬢が流すのですか?」
突然声を上げたリディアナにクレアは驚いたように目を見開いた。さすがに不躾な態度だったかとリディアナは謝罪しつつも、クレアを真剣な目で見つめる。何故メアリの悪い噂をサラ・ギブソンが流すのか。聖女候補と教育係。関係がない二人ではないが、それは限りなく薄いはずだ。直接的な繋がりもない。
なのに何故サラはメアリに目をつけたのか。他の聖女候補を潰したいというそういう魂胆であったら、エレンの噂だって流れてもおかしくない。なのにエレンの名前をリディアナが今聞いたのが初めてなように、メアリ以外の他の聖女候補の名前は噂として流れることは皆無だった。どこか不自然さを感じるくらいに、メアリが問題児だというその噂だけが神殿を満たしているのだ。
「し、私怨でしょう。急にそんな顔をされると心臓に悪いのよ……」
「私怨?」
何故か顔を赤らめたクレアは、真剣に見つめてくるリディアナに視線を逸しつつも、小さな声で私怨だとそう言った。私怨、それはメアリがサラの恨みを買ったということだろうか。
リディアナはメアリに視線を向ける。けれどメアリは何が何だかわからないという顔をして眉を下げていた。メアリにどうやら心当たりはなさそうだ。
「貴方の聖女候補さんの最初の教育係はレラ・ギブソン。サラ・ギブソンが貴方の聖女候補さんに粘着しているのは、姉が辞めさせられた復讐だとあたくしは踏んでるわ」
しかしクレアがレラと、そう告げた瞬間にメアリの表情は蒼白に染まる。そしてその隣に座り黙って話を聞いていたレンの表情もまた、厳しいものに変わった。
リディアナより前の教育係のことをリディアナは二人に尋ねたことがない。特別聞くようなことでもなかったし、傷をえぐってしまうかもしれないと考えたからだ。しかし聞いていたのならもっと早く正しい答えを導けたのかもしれない。小さな後悔が、リディアナの胸をついた。