番外編 忘れた記憶 下
ベッドに座り込んで二人きり。言葉にすればロマンチックかもしれない状況には、しかし重い空気が立ち込んでいて。もう謝らなくていいと、そう拒絶を口にしたきりレンはもう口を開かない。そんな彼に釣られてか、メアリもまた口を閉ざしていた。未だぽろぽろと零れる涙と嗚咽だけは、どうしても隠せるものではなかったけれど。
悲しくて、苦しくて仕方がなかった。その時のレンがどう思ったのかなんて、その全てがメアリにわかるわけではない。ただそれでもきっと、あの時レンは深く傷ついたはずなのだ。唯一の友達であったメアリに裏切られたこと、それはどれだけの絶望になってレンを突き刺したことだろう。しかしレンはその後も、メアリの傍に居てくれた。そうしてきっと、守ってくれていたのだ。約束を破ったメアリを、まだ友達だと思ってくれていたからこそ。化け物と呼んだ、メアリのことを。
「……あの時俺は、自分の存在を呪った」
「っ……!」
そんなメアリの思考に追い打ちを掛けるかのように、レンはぽつりと呟く。寄る辺のない声だった。深い深海を漂い、どこにもいけないままに諦めてしまったかのような。それに弾かれたようにメアリが顔を上げれば、隣の少年は瞳を伏せて肩を落としている。しかしその紫の奥、魔法を使ったせいで未だ残痕のように残る赤は輝いていて。
「人外じゃなければ、魔法を使えなければ、俺が人間なら」
「……レン」
「そうだったら何も守れてないのに、それでもそれを望んでた」
それは人じゃない彼の切実な願いであった。環境は変えられるし、限界こそあれど人は努力を重ねれば変わることが出来るだろう。しかし生まれ持った環境だけは、種族だけは、才能だけは、変えることが出来ない。きっと誰もが自由に魔力を操り、その気になれば最強の兵器にだってなることができるレンのことを恐れの裏羨むだろう。だがそれでもあの頃の少年は、それがなければと望んでいた。
それがなければ周りに化け物なんて拒絶されることはなかった。それがなければ大切な唯一の友人に化け物なんて呼ばれることも、なかった。そんな痛みを味わうくらいならば、こんな力なんてなければいいのに。けれどどれだけ祈っても、魔力も魔法もレンは捨てられないまま。それが苦痛で仕方なくて、いっそのこと死んでしまいたくて。それでも一人理不尽に耐えるメアリを守りたくて。
しかし、それはあくまで昔の話だ。
「……でも、あの人に会って俺は変わった」
「……!」
伏せていた目を開く。赤い残痕はその紫から跡形もなく消え、寄る辺のなかった声は確かな芯を持って紡がれる。そうしてレンは息を呑んだ幼馴染の方に、視線を向けた。まんまるに見開かれた青りんごは、子供の時とは何も変わらない。例え自分だけが置いていかれるように彼女が大人になっても、その色だけは永遠に変わることがないのだろう。それにふっと優しく微笑んだレンの脳裏に浮かんだのは、今は自分よりも背の高い彼女の姿だ。
「変わることが、出来た」
噛み締めるように言葉を紡げば紡ぐほど、レンの頭の中で何よりも美しい青色は確かな形となっていく。振り返り揺れる薄金色、その眩いカーテンの先で微笑む美しい少女。出会った最初の頃、レンに魔法を使われ怖い思いをしても尚、それでも彼女は迷うこと無くレンの手を取った。その守り方は間違っていると、あの歪んだ世界で唯一自分を正してくれた存在は一等星の如く眩しくて。
あの頃のレンにとっては力だけが全てだった。自分がメアリを守る度にメアリはどんどん悪者となっていって、しかし忌むべき力を使わなければレンはメアリを守れなくて。それでもそんなジレンマの中、レンは戦い続けたのだ。例え化け物と呼ばれても、それでもレンにとってメアリは唯一の存在だったからこそ。
「……あの人が居たから、俺は自分を受け入れられた」
そんな中、凍りついた二人の世界に現れたリディアナはレンにとってまさしく救いを体現したかのような存在だった。自分の代わりに言葉でメアリを守り、自分に言葉という力を教えてくれて、知識と共にこの力の行く道を導いてくれる。きっと本人は無自覚なのだろう。自分がそんな大層なことをしたなんて自覚もなく、自分のやれることをやっただけだと首を傾げるはずだ。そのだけ、がレンにとってどれだけの救いになったか。それを彼女は永遠に気づかないまま。それが彼女らしいなんて、そう思うあたり毒されてしまっているのかもしれない。
魔法を使って、彼女にありがとうと言われた瞬間。レンはそれを今でも覚えている。レンが人を傷つけるような恐ろしい魔法を使う化け物だと知っているのに、それでも一切の忌避を見せること無くリディアナは笑った。ただ笑って、レンにありがとうと告げたのだ。そのむず痒くなるような言葉は、彼女と日々を重ねる度に重なっていって。
「変な人なんだ。お前も知ってるだろ」
「……うん」
大切な思い出の断片を、ぽろぽろとメアリへと落としていくレン。今まで見たこともないくらいの穏やかな表情でそれを語るレンに、メアリは呆気に取られてしまっていた。けれど柔らかな微笑みを浮かべながらレンがそう問いかけるから、自然と苦しさで強張っていた表情は緩んでいって。小さく頷き、握りしめていた拳を解く。メアリの脳内に浮かぶのは、いつだってこちらへと手を伸ばしてくれる変わり者でとびきり優しい彼女の姿だ。
メアリの世界に突如と現れた、世界の誰よりも美しい人。見た目もそうだけれど、何よりも心が。リディアナは何もわからないメアリを一切責めること無く、一から十のその全てを優しく教えてくれた。今までの落差もあっただろうが、その優しさにメアリはどれだけ心を守ってもらったことだろう。メアリの大事なものを何一つ否定すること無く、メアリをその身を懸けても守ってくれた人。
そうしてそんな彼女を架け橋として、二人には今がある。
「……あの人の魔法使いになら、なりたいと思った」
リディアナが居たから、レンは自分をもう化け物だなんて思わなくなった。リディアナが自分の存在に化け物ではなく、魔法使いという名前を付けてくれたから。リディアナが居たから、メアリは自分を愚図の役立たずと思わなくなった。リディアナがそんなメアリを、根本から変えてくれたからこそ。ぽつりと優しく告げたレンに、痛みを振り切ったメアリは笑った。悔いても傷は残るまま、レンを苦しめるまま。それならば笑って、過去ではなく今をレンと共有したいと思ったのだ。
「……だよね、私もなりたいもん」
「お前は無理だろ」
「う、そうだけど……!」
冗談めかした言葉には、呆れたような言葉が返ってくる。それに唇を尖らせて不満そうに見つめれば、呆れたような顔のままレンは笑って。しかしそこには確かな満足感があった。昔に失った対等であったはずの二人の関係が、今ここに戻ってきたのである。一方的に守られるのではない、対等な友人同士で幼馴染という関係が。
「お前は、居場所になるんだろ」
「……あ、そっか」
メアリの隣、ベッドに座り込んでいたレンは立ち上がる。そうしてメアリを見下ろす形で告げてきたレンの言葉に、メアリは思い出したというように目を瞬かせて。頬に滲んだ涙を払って、メアリは深く呼吸をする。再び目を開ければ、そこには幼馴染と閑散とした部屋だけが残っていた。荷物はあらかた送ってしまったから、もうこの部屋に残るのはベッドだけだ。数ヶ月を過ごしたこの部屋との別れは少し寂しくて、しかしそれがメアリの選んだ選択なのだ。
目を瞑ればいつでも視界にここで過ごした日々は蘇る。悪夢のような日々も、神様のような存在と出会った温かい日々も。その清濁を飲み込んで、今のメアリが居るのだ。生憎と三つ並んだ椅子も片付けられてしまったけれど、けれどメアリの記憶の中には確かにそれがある。それが三者三様の傷と過去を隠して綴られた日々であったとしても、温かい記憶は決して偽物なんかではなかったから。
「……レン、今までありがとう」
「……おう」
レンに習うように、メアリも座り込んでいたベッドから立ち上がる。そうして自分よりも低い位置にある頭を見つめて告げれば、レンは短く頷く形で返事を返して。ありがとうと言われればむず痒いような顔をする、そんなところは昔から変わっていない。一瞬昔日の記憶に明かりが灯って、けれどメアリはその記憶を塗り替えた。もう彼は、メアリのヒーローではない。
「私はもう一人で立てるよ。レンが守って、リディアナ様が育ててくれたから」
レンを置いて一人、メアリは扉の方へと近づいていく。言葉を紡ぎながらも扉に耳を寄せれば、喧嘩をしているのか二人の男女の跳ねるような声が聞こえてきた。それに小さな笑みを零しながらも、メアリはくるりと扉を背にレンの方へと振り返る。
レンは変わらずにメアリを見つめていた。紫の瞳を、凛と輝かせながら。これからもこの幼馴染はメアリの傍には居てくれるらしい。ただ一番近いところには、もう居られないというだけ。だがそれでもメアリは良かった。恋をしているわけでもあるまいし、メアリにとってはレンともう一人が近くに居てくれる方が余程幸せだ。幸せそうな大好きな二人の傍に居られるのなら、メアリにとってそれ以上の幸せがあるだろうか。
「だからちゃんと、リディアナ様を連れてきてね」
だからその幸せを実現させるために、メアリは最後に自分のヒーローであった彼に最後のお願いをした。メアリにとって何よりも大切で大好きな二人が、幸せになるためのお願いを。これからも先、幸せそうな二人を二番手の距離で眺めていられるためのお願いを託したのだ。
綻ぶような微笑みを浮かべて告げたメアリに、レンは一瞬目を見開いて。しかし直ぐに少年は子供らしくない呆れ顔を浮かべて、首を振る。扉の後ろから二人分の喧騒は徐々に近づいていた。彼らが扉を開ければ、メアリはここからお別れをする。だからこそ三人で過ごした思い出深いこの部屋で、その願いだけは託したくて。急かすように自分を見つめるメアリにレンは笑う。そうして不敵な笑顔を浮かべた少年は、確かに頷いた。
「……誰に言ってんだ」
確かにと、言葉にはせずにメアリもまた笑う。爪の甘い自分ならともかく、この幼馴染が大切な物を取りこぼすはずはないのだ。だからこそレンにならば、任せられる。とびきり美しく、驚くほど優しく、しかし頑固なところを持ち合わせたあの人を攫う大きな役目を。
安心したように笑ったメアリは、一歩と扉の前から歩みを進めた。数秒後、扉は二人分の喧騒と共に開いて。ここからが自分の道だと、振り返った扉の先に見えた特徴的な赤毛にメアリは覚悟を決める。レンがリディアナを守る形で恩を返すのなら、自分はリディアナの居場所を作る形で恩を返すのだ。それが緑の手とやらを持った自分の、あの人の聖女候補としての役目だ。
「……行ってきます!」
その日、一人の聖女候補は神殿から去っていった。深緑の瞳の、最後の聖女に眩しく手を振って。去っていく最後の同士を、中性的な容姿の少女は呆れたような笑顔で見送ったと言う。