第五話
レンに告げた説明よりもなるべく柔らかく、リディアナはメアリに語る。呪術と呼ばれるものがあること、恐らくこのポプリがその媒介であること、そうして呪術をこの部屋に仕掛たのは恐らくミランダであること。話を進めるごとに表情を暗くしていくメアリに心が痛みつつ、リディアナは説明を終えたところでメアリに問いかけた。
悲しげに染まっていく表情が見ていられなくなって説明の途中からその手を握っていたが、それは正解だったかもしれない。リディアナはそう思った。説明を終えた今では、握っているメアリの手は可哀想な程に震えてしまっている。
「私はこのポプリを神殿長様にお見せして、経緯を話すべきだと思うわ。けれど今回の被害者はメアリ、貴方だから……」
「……私、」
メアリはどうしたいのか、暗にそう尋ねたリディアナにメアリは表情を硬くした。その強張る表情には、普段の可愛らしい笑顔の欠片すらない。ただ彼女は信じられないというようにその大きな瞳を揺らして、唇を震わせていた。
リディアナは少し眉を顰める。握っていたメアリの手が、こちらを縋るかのように強く握り返されたからだ。少し痛いとも思える力だったが、それが今恐ろしい思いをしている彼女の拠り所になっているのなら拒否はできない。一瞬だけ浮かべてしまったその表情を直ぐに消し去り、リディアナはメアリの言葉を待った。ベッドの近くでレンもまた、そんなメアリの選択を待つように黙り込んでいる。
「……私、言いたくありません」
どれくらいの時間が流れただろう。ふと握られている手が離されたかと思えば、メアリは一歩後ずさる。そうしてリディアナを真っ直ぐに見つめたメアリが告げたのは、そんな拒絶の言葉だった。リディアナは努めて冷静にメアリの瞳を見つめ返す。恐怖、戸惑い、申し訳無さ。そんな感情が渦巻いて見える中、その瞳に宿っていたのは確かな決意だった。
「だって、呪術は良くないことなんですよね? それならこのお話を私が神殿長様にしたら、ミランダさんはどうなるんですか?」
「……良くて聖女候補の名を剥奪、悪ければ牢屋に入ることになるわ」
呪術は禁術と違って使っても重罪にはならない。ただそれが人に危害を加えた場合に限り、それは罪として認められる。さすがに犯罪行為に手を出してしまったのであれば、ミランダは聖女候補としての身分を剥奪されるだろう。そうしてただの平民に戻った彼女に待ち受けているのは、投獄の結末だ。
「っ、私は確かに怪我をしたし危ない目にも遭ったけど、でも……そんなの普段のドジと変わりません! ただいつものだったんです! ミランダさんは、関係ないです!」
「メアリ……」
リディアナの言葉にメアリはぐしゃりと顔を歪めると、悲痛な声でそう叫んだ。尋常とは言えない程に起きた出来事を自分のせいにしようとするメアリに、リディアナは眉を下げる。今にも泣き出しそうな程に緑の瞳を潤ませながらも、メアリは涙を流しはしなかった。
その選択は正しくない。どうにもならないのだ。きっと今メアリが選ぼうとしているその選択は、彼女の想像を超える最悪の結末を迎える。説得しなければと、リディアナは言葉を幾つも頭の中に浮かべる。けれどその言葉達は、メアリを更に追い詰めるものにしかならない気がして、黙り込んだ。
何がそこまでメアリを奮い立たせるのだろう。ここ数日の不幸はメアリにとって恐ろしいものであったはずだ。なのに何故彼女はミランダを庇おうとするのだろう。二人の仲が良いようには、決して見えなかったのに。
「……お前、死ぬところだったんだぞ」
「っ!」
悲痛にも見えるメアリの覚悟に何も言えなくなったリディアナ。そんなリディアナを見てか、レンは溜息交じりの静かな声でメアリに告げる。その言葉に目を見開いたせいか、ついにメアリのその瞳から一滴の涙が零れた。
レンはその涙に顔を顰めながら、それでも見せびらかすように二つのポプリを揺らす。可愛らしい見た目をしているのに、そこに呪術が籠もっていると思って見るだけで、その姿は途端に邪悪な物に見える気がした。
「お前だけじゃない。お前を助けようとしたこの人だって怪我しそうになっただろ」
「あ……」
「っ、それは、」
一滴でも流れ出せば、それはもう止まらないものになる。レンの言葉にリディアナを見て更に目を見開かせたメアリは、一気に顔を歪めて俯いた。それは言わなくていいことだと、リディアナもまた咄嗟にレンを止めようとして、けれど彼に睨まれてその口を閉じる。わかっている。それを告げてでも今はメアリの考えを変えるべきだと。それでもリディアナの心は葛藤に揺れていた。
メアリが不幸に見舞われれば、当然その近くにいるリディアナはメアリを助けようとする。植木鉢の時も、それ以外の時も。とは言え確かにリディアナはそれで怪我をしそうになりはしたが、実際怪我はしていないのだ。
それなのにそうやって告げてしまってはメアリを追い詰めることになる。なのにどうして今レンはそれを告げたのだろう。彼としては多少メアリを傷つけることになっても、危険の元凶を取り除きたいのだろうか。
「これを燃やしたりして、それで見なかったフリをすれば表面的には終わるけどな。でもそうしたら今度はどんな方法をあっちは取ってくる? それでお前だけじゃない、お前を助けようとする誰かが死んだりしたらどうすんだよ」
「…………」
お前は更に痛い思いをするんじゃねぇの。そんなレンの冷たくも正しい言葉に、ついにメアリは返す言葉を失くした。力なく項垂れて、涙を流しながら黙り込む。そんなメアリを、レンは眉を下げて見つめていた。悲しそうな顔をする二人に、リディアナは胸が苦しくなる。
本来はどれだけ罪悪感が芽生えても、リディアナがレンが今告げたような言葉を言うべきだったのだ。リディアナがメアリに話すと決めた本人なのだから、残酷な真実だってリディアナが告げるべきだった。それなのにメアリの必死さに押されて、本当に言わなくてはいけないことをレンに言わせてしまった。逃げた自分の狡さに、胸が苦しくなる。
「……それにメアリ、呪術には代償があるわ」
「……だい、しょう」
だからここから先はリディアナが最後まで全うしなければ。レンに視線を送ると、彼は呆れたような表情を浮かべながらも頷いてベッドに腰を掛けた。後は関与しないという彼のサインだろう。ぶっきらぼうに見えて本当に聡くて優しい少年だ。彼には後で礼を告げるとして、今はメアリの説得をしなければ。
リディアナの言葉を力なく反復したメアリに、リディアナは頷く。恐る恐る、という風にこちらを見上げたメアリの瞳は先程の決意が涙と共に流れたようで、迷子の子供のように揺らいでいた。
「この呪術を完成させるのに既にミランダさんは代償を二つも払っている。もし気づかないふりをしたら、また彼女はこうやって呪いを送るかもしれないわ。代償を再び払って」
「!……代償って、ミランダさんは何を払ったんですか!?」
メアリの瞳に再び光が宿る。必死な顔をしてリディアナを見つめてきたメアリに、リディアナは言葉を迷わせた。呪術の代償の幾つかの代表例、そして昨日の彼女の様子、それらを照らし合わせれば自然と正解は浮かび上がってくる。ただそれをメアリに告げるべきか。
いいや、告げなければ。もう迷って彼に責任を押し付けてはいけないのだと、心を確かに定めてリディアナは小さく息を吸った。必死な顔をしてこちらを見つめてくるメアリにリディアナは告げる。ミランダ、彼女が払ったと思われるその代償を。
「……恐らく、心。彼女は精神を呪術の代償にしたわ」
「心……?」
首を傾げるメアリにリディアナは頷いてみせる。確かにこの代償は他の代表的な例と比べれば抽象的で、いまいちピンとこないだろう。だがリディアナにとっては最も恐ろしいのではないかと思うような代償だ。
昨日本で再び学んだ記憶を思い返す。そうして小難しく書かれていた内容を、出来るだけわかりやすく噛み砕いて整理すると、その内容をメアリへと告げた。
「人が呪術を行使する際に払う代償は大きく分けて三つ。命と記憶と、そして心。命はその人の寿命で、記憶はその人の大切な記憶。心は……感情や理性。嬉しいと思う気持ちや、やってはいけないと自分を戒める理性。きっと彼女はそれらを少しずつ払ってる」
このまま放っておけばミランダは真っ当に生きられなくなるどころか、感情や本能、理性を失ったただの人形と成り果てるだろう。昨日の正気を欠いた行動や、出会った時よりも薄く見えた表情を思い返してリディアナは表情を硬くする。だからこそメアリには、今迎えられるミランダの最善の結末を受け入れてもらわなければならない。最悪の結末になる、その前に。
メアリはリディアナの言葉に息を呑むと、そのまま黙り込んだ。それが恐ろしいことだと理解できたのだろう。顔を青褪めたメアリは、再びその顔を俯かせた。静まり返った部屋の中に、震えた少女の声の問いかけが妙に響く。
「……それは、もう治らないんですか?」
「一度払った代償は、この媒介を消し去っても戻らない。呪いは消えても、代償は戻らない。それが呪術なのだから」
メアリはそう聞いた瞬間、崩れ落ちた。慌ててリディアナが慌てて駆け寄るも間に合わず、メアリは力なく床に座り込んで呆然と呟く。その声は二人のやり取りを顔を顰めて見守っていたレンにも届くほど、小さい声ながらも悲痛な色を秘めていた。
「それじゃあ、ミランダさんの夢はもう叶わないんですか……!」