第七話
暫く経って。想定外の驚きと嬉しさでその瞳から涙を零していたリディアナは、少年の手に最後の雫を払われたことで漸く泣き止んだ。そうして彼の登場を飲み込めば、聞きたいことは頭の中に溢れかえっていって。というかそもそも、ここはどこなのだろう。
「……ここは、どこなの?」
「当ててみろよ」
尋ねたリディアナに、しかし少年は愉しげに笑うだけで答えを返してはくれない。仕方ないとリディアナは辺りを窺うかのように視線を彷徨わせた。一面の紫の花畑と、それを囲む緑の深い森。自然豊かなここはどう考えても、北の大地へと向かっていたリディアナが行き着くような場所ではない。むしろ冬とは思えない程の暖かさは、北とは真逆の南の大地の方が近い気がする。北へと向かっていたリディアナが今こんな場所にいるその理由、それは少年の姿を見れば自ずと導き出すことが出来て。
答えを確かめようとリディアナは背後を振り返った。振り返ればそこには馬車がある。最もそれは、片割れである御者台を失った中途半端な形でだが。恐らく彼が魔法を使って御者台と馬車の箱を切り離し、リディアナをここまで連れてきた。残された御者は恐らく困惑しているだろうと、リディアナは眉を下げる。突然背後の馬車が消えてしまったのだ。馬車の破損にリディアナの失踪、重なったそれらに今頃青褪めているかもしれない。
「なんで、こんな……」
考えた結果、ここは恐らく南側の大地で彼がリディアナを魔法で連れてきたのだという答えは出たものの。しかしレンがこのような暴挙とも呼べる行動に出た理由がわからずに、リディアナは困惑の声を上げた。こんな誘拐のような手段を取らなくても、彼が話したいというのならリディアナはいくらでも時間を作ったのに。なぜ今の今まで沈黙を貫いていたレンが、今日になってこんな行動に出たのだろう。
「……覚えてないわけ?」
「え……?」
けれどリディアナのそんな困惑は、不機嫌そうな声によって弾けて行った。少し視線を下げれば、不満そうな紫はリディアナを真っ直ぐに捉えていて。それに息が詰まるような心地になりながらも、リディアナは首を傾げる。覚えていないとは、一体なんの事だろう。彼と話す約束なんて、していただろうか。
心当たりがないと言わんばかりに首を傾げるリディアナに、レンは瞳を眇めた。呆れたように、仕方がないと言わんばかりに。そんな視線にリディアナはなんだかバツが悪くなって俯く。けれどどれだけ思い返しても、本当に心当たりはないのだ。自分は一体彼と、どんな約束を結んだのか。
「約束しただろ、花畑」
「……!」
申し訳なくなって俯いたリディアナはしかし、溜息と共に零されたレンの言葉に弾かれたように顔を上げる。花畑の約束、それならば覚えている。リディアナが死んで周囲から冷たく見送られるようなことがあれば、彼が攫って美しい花畑の中で燃やしてくれる約束。死が近づき不安になっていたあの頃のリディアナに幸せを齎してくれた、小さな温かい約束。だが、それは。
「……私、生きてるわよ?」
リディアナは仏頂面で見上げてくる少年に、困ったように首を傾げた。確かにリディアナ・フォンテットは死んだことになっている。葬儀だって、今日上げられた。そろそろ葬儀も終わり、母と共に見送られ終えた頃だろう。しかし死んだことになったとは言え、リディアナは生きているのだ。今こうして話しているのだから、彼だってそれは承知の上だろう。
そう、リディアナは生きている。それに禁術のことを伏せてもらったおかげで、周囲にだって温かく見送ってもらった。前提条件がまるで違うのだから、わざわざあの約束を彼が果たす必要はないような。眉を下げたリディアナに、しかしレンは首を呆れたように振って。
「死んだだろ。葬式も見たぞ」
「えっ!?」
「変な事言うやつが居たら、燃やしてやろうかと思って」
葬儀を見たと、レンは言う。あの喪服の人々の中にレンが居たのだろうかと、リディアナは一瞬驚いて。しかしよく良く考えれば彼は姿を消すことが出来る魔法使いだ。恐らく姿を消したまま、空気と化して葬儀を見ていたのだろう。本人が言うように、周囲の人間を監視しながら。
さらりと物騒なことを告げるレンに、リディアナは顔を引き攣らせた。それがリディアナを思っての発言なのだとは理解できるが、些か仕返しの方法が過激すぎる。葬儀でいきなり参列者が燃えれば、収集のつかない大騒ぎになるだろう。大妖精様の怒りを買ってしまった、と言い出す者が現れるような事態にも陥りかねない。リディアナの脳内に、ルージュが冤罪だと憤慨する姿が過ぎった。
「……ま、居なかったけどな」
「……そう」
けれどレンが穏やかな瞳でそう告げるから、その瞬間にリディアナの想像は全て掻き消えていって。魔法使いである彼が言うのなら、それは本当のことなのだろう。リディアナはそっと瞳を伏せた。リディアナを悪く言う声も、アナスタシアを悪く言う声も、あの葬儀にはなかったのだ。それに僅かばかりの感謝を送る。こんな遠くの地では、届かないかもしれないけれど。
「……見たかったんだろ」
「え?」
「花畑。死んだ後の楽しみ、って言ってたから」
一人祈るかのように瞳を伏せたリディアナ。そんなリディアナに仏頂面のまま、レンは短く告げた。ぱちりと瞳を瞬くリディアナに、告げた後レンは視線をふいと逸して。リディアナの視線の先、レンはどこか拗ねたような表情を浮かべている。そこから悟れるのは、レンがリディアナを喜ばせるためにここへと連れてきたということで。例え約束と形は変わっても、彼はこの光景をリディアナに見せたかったのだろう。
死んだ後の楽しみ、その言葉にリディアナはあの日を思い浮かべる。あの日花畑に連れて行こうかと言った少年の言葉を、リディアナは死んだ後の楽しみに取っておきたいからと断った。今思えば、それは酷く残酷な行動である。リディアナを気に入ってくれているであろう彼に、リディアナが死んだ後の話をするなんて。でも約束とは違って、死なないままにリディアナはここへと来ることが出来た。それならば今リディアナが彼に告げる言葉は、困惑に満ちた問いかけなんかではないはずだ。
「……ありがとう、見せてくれて」
「……ん」
柔らかく綻んだ微笑みを、リディアナはレンへと向ける。蕾が花開くような、雪解けを迎えた春のような、しかしそれよりも美しい微笑みを。心を満たす好意と感謝を、少しでも多く自分を助けてくれた魔法使いへと送るように。その微笑みにレンは一度瞳を瞬いて、しかし嬉しそうに微笑み返した。死体の彼女では決して見れなかった、レンが守りたいと思った笑顔。あの日見たかった笑顔を、今日この場で迎えられた喜び。それを噛み締めて。
「……でも私、行かなくちゃいけないの」
「……知ってる」
けれどリディアナは、そこで首を振った。この幸せを享受し続けるわけにはいかない。リディアナには行くべき場所がある。そしてリディアナが聞いた話を考えるに、彼だっていつまでもここに居るわけには行かないだろう。時が止まればいいのに、リディアナはそう思った。どれだけ願ったところでそれが叶わないことは、知っていたけれど。
悲しげに微笑むリディアナに、レンは微笑みを消して眉を寄せた。悲しげな表情を浮かべても、リディアナはレンへと手を伸ばさない。それがどこか苛立たしくて、けれどもそれがリディアナなのだ。自分と同じ色に染まった彼女に優越感と小さな違和感を覚えつつ、レンは静かに言葉を続けた。何かに迷うように揺らぐ自分と同じ紫を、真っ直ぐに見つめる。
「でも、俺はあんたにいくつか話したいことがある」
「……話したいこと?」
「例えば、メアリのこととか」
「っ、メアリ……?」
レンの言葉に、リディアナは一瞬困ったように瞳を細めて。しかし続けられた名前に、その瞳は瞬かれる。先程まで困ったようにレンを見返していたリディアナは、今では食いつくような姿勢を向けていて。
メアリ、やはりその名前を聞けばリディアナは放っておくことが出来ないらしい。レンは一心に見つめてくるリディアナに気づかれないよう、僅かに瞳を細めた。利用してしまうことになる幼馴染に申し訳なくなりつつ、しかし彼女のことだ。それがリディアナを引き止める一手となったのなら、寧ろ喜ぶかもしれない。無邪気に笑う何よりも大切だった存在を思い返しながら、レンは話を続ける。
「メアリは無事、リティエの聖女になった」
「……そ、う」
紫の花畑に少年の小さな声が響いていく。その言葉にリディアナは息を呑んで、しかしその顔は直ぐ嬉しそうに緩んだ。自分が庇護していた、自分の後を可愛らしく着いて回っていた、可愛らしくけれどどこまでも強い少女。いよいよそんな彼女が、自分の手の届かない場所に行ってしまった。それが少し寂しくて、しかし栄誉を賜った彼女を誇らしく思って。
だがメアリを誇らしく思う反面、リディアナの心にはじわりと暗い感情が滲む。リディアナはあの後、メアリから話を聞いたのだ。リディアナの知らない間に結ばれた、とある約束を。何故メアリが突然リティエの聖女になることになったのか。ミランダとの約束を破ってまで、その選択を選んだのか。その理由を、今のリディアナは知っている。
メアリはリティエの王族と契約を交わした。自分が聖女になるかわりに、リディアナが禁術を使ったことを秘匿にしておく契約を。
「『これは私が選んだことだから、リディアナ様は気にしないでください』」
「!」
「あんたが負い目に思ってるかもしれないから、こう言っといてくれって」
しかし初めて話を聞かされた時のことを思い出して蘇った鬱屈とした感情は、誰かをなぞるようなレンの声音によって飛んでいって。目を丸くしてリディアナがレンを見つめれば、レンは呆れたように息を吐く。そんな伝言を彼に頼めるのは、一人だけだ。リディアナは丸めた目を細めて、苦い笑みを零す。どうやら教え子である彼女は、リディアナがどう思うかなんてお見通しらしい。
メアリがリティエの聖女になると決意するまでの経緯。それを全てが解決した後に聞かされたリディアナは、自分がメアリの足枷になってしまったことを酷く自己嫌悪した。リディアナが教育係でなければ、メアリはミランダと交わした約束通りにティニアの聖女になれたかもしれないのに。リディアナを守るために、メアリは夢を捨てたのだ。しかし顔を歪めて謝るリディアナに、メアリはただ笑って。
リディアナが教育係でなければ、自分はここに居ない。そう言ったのだ。
「……メアリは、楽しそうにやってる」
「……そう、なのね」
そうしてまた一人の聖女候補が、ティニアを去った。残った一人の聖女候補は呆れたように笑いながらも、居なくなった二人の分まで聖女を全うするとそう告げて。世界には二人の聖女が生まれた。ティニアを守護する大妖精を称える聖女と、リティエを滅びの運命から救う緑の手の聖女が。
もうそれ以上はリディアナが足を踏み込むような話ではないだろう。自分のせいでという負い目は確かに心にあるけれど、きっと気にすれば気にするだけメアリの負い目も大きくなってしまうから。レンから楽しそうにやっているのだと、そう聞けたのならそれで満足だ。
「それで、だけど……」
「? ええ」
メアリの話はこれで終わりだろうか。そう考えて肩の力を抜こうとしたリディアナは、しかし続けられた言葉に目を丸くする。メアリの伝言と、現在。それを聞ければリディアナは十分だったのだが、レンには他にまだ何か話があるらしい。真剣に自分を見上げる紫を、リディアナもまた真っ直ぐに見返した。躊躇うように息を吸う少年を珍しいと思いつつ、リディアナはただレンの言葉を待つ。
「……リティエは念願の聖女を手に入れた。とはいえ、聖女はまだまだ未熟で、王侯貴族と渡り合うには弱すぎる」
「……そうね」
「俺がクラウディオの部下としてメアリを護衛することになったけど、それでも別の類の味方が必要だ」
リティエの目線で語るレンに不思議な心地になりつつも、リディアナは相槌を返した。レンがクラウディオの部下として仕えることになったのはリディアナも知っている。元々はパーティーの日にクラウディオが場を収めるために使った嘘らしいが、リティエへと渡るメアリを守るためにこの少年はそれを受け入れたのだ。それは彼がクラウディオが気に入っていたことも大きいだろう。仮にミレーニアの部下という立場であれば、彼は梃子でも首を降らなかったはずだから。そう考えて苦笑しつつ、リディアナはレンの話からメアリの現在を考えた。
メアリの役目は緑の手を使って、特別な種を芽吹かせること。しかしリティエではその役目は公にされてはいない。百年後とは言え国が滅ぶという話は、国民の不安を煽ることになりかねないからだ。つまりメアリは種を芽吹かせる努力を重ねながら、豊穣の巫女としての役割を果たさなければいけないというわけで。それにはぽっと出の聖女を妬み寄ってくる、欲深い貴族達を交わし続けるという役目もあるのだろう。
「……そうね、貴方の武力だけではなく言葉で相手をやり込められる人材が必要だと思うわ」
確かにそれらをメアリがやり過ごすには、彼女にはまだ経験値が足りない。知識や礼儀作法という点に重視しての教育が多かったが故に、メアリには実践経験は少ないのである。別の類の味方。レンがそういったようにメアリの代わりに社交を交わし、それをメアリに教える人材は必要だろう。これは相談なのだろうか、そんなことを考えながらもリディアナはレンの言葉に頷いた。しかしそこで返ってきたのは、予想外の返事で。
「ああ、だから俺は探しに来た」
「……え?」
リディアナは動揺して困惑の声を零す。探しに来た、という表現はあまりふさわしくないはずだ。だってこんな場所にその役目を果たせる人間は居ない。それなのに見下ろした少年は、真っ直ぐにリディアナだけを見つめていて。聞きたくないと耳を塞ごうとして、けれど手は全く動くことがない。リディアナは逃避すらも許されずに、その言葉を聞いた。自分で決めた道を揺らがすような、彼の言葉を。
「聖女の教育係を務められる、人間を」