第六話
「……ふぅ」
小さな馬車の中、一人の少女の吐息が零れる。その声はどこか気疲れしているようにも聞こえて。少女、リディアナはやっと辿り着いた馬車の背もたれに思い切り寄りかかって上を見上げた。狭い室内に一人きりであること、それに無性に安心しながらも。
ミランダと話して、アーノルドに見送られ、クレアの決意表明を聞いて。そのどれもがどれも、短期間で起こっていいような内容ではなかった。どっと疲れたような気がするのは気の所為ではないだろう。今日をまだ半分も満たしていないというのに、もう何日も掛かってここまで来た気がする。そんなことを考えながらも、リディアナは手の中の手紙へと視線を落とした。
「……エリック」
馬車の中にはリディアナが一人、ただそれだけ。これから聖エドリック教会へと向かうリディアナに、特別な荷物は必要ない。厳しい気候の中神に仕えるあの場所では、どんなドレスも宝石も意味をなさないのだから。全ての思い出を心の中に仕舞い込んで、着の身着のままリディアナは教会へと向かわなければならない。けれど手紙の一通くらいは許されるだろうか。窓から差し込む僅かな光に、リディアナは手紙を透かす。
「出発致します」
「……はい、お願いします」
けれどそうして手紙の枚数を確認するよりも早く、リディアナは馬車の御者に声をかけられて。声の主は教育係として神殿へと通っていた時の馴染みの御者ではない、今日限りとしてアーノルドが雇った年配の男性である。情報が漏洩しないように手を回してくれた父に改めて感謝しつつ、リディアナはその声に返答を返した。
もう、ここには帰って来れない。リディアナが生まれた日から今日まで、その全てを過ごした思い出深いこの屋敷にリディアナはもう帰って来られないのだ。良い思い出も悪い思い出も、リディアナの喜怒哀楽の全てが詰め込まれたこの屋敷には。そう思えば胸の内には自然と影が掛かっていって。けれど今更引き返すことは出来ない。誰に泣いて縋ったところで、その涙はもう何の意味も持たないのだから。
「行って、来ます」
馬の嘶きと、馬車が動き出した心地よくはない雑音。そんな音たちと共にリディアナはついにフォンテット家の屋敷を出発した。出発の瞬間に零した小さな呟きは、当然に誰に聞かれるまでもなく雑音に飲まれていって。聞かれては困るのだからこれでいいのだと、リディアナは強がるような笑みを浮かべる。結局こうして家を出るまで、その頬を涙が濡らすことは無かった。
「……あ、手紙」
そうして屋敷を出発して、十数分程経った頃。心を埋めていく感傷に目を伏せていたリディアナは、そこで手紙のことを思い出した。馬車の中ではあるが、きっと聖エドリック教会に到着してからではゆっくりと読む時間もないだろう。今のうちに読んでおいた方がいいはずだ。
そう考えたリディアナは、ずっと握りしめていた手紙を目前へと持ち上げた。封蝋された手紙をどこか緊張したような面持ちでじっと見つめる。けれど時間は有限であると、リディアナは生唾を飲み込んでその手紙を開けた。生憎と愛用していたレターナイフはないので、手で破くことにはなってしまったが。王家の紋様で封された封筒の中には、三枚の便箋。折りたたまれたそれの一番上の便箋に、リディアナは恐る恐ると目を向ける。
「…………」
手紙は親愛なる親友へと、そんなありきたりな文面から始まっていた。白い便箋をびっしりと埋め尽くす文字たちを見れば、この手紙が時間をかけて書かれたことは一目でわかって。到着までに読み切れるだろうか、一瞬そう考えたリディアナは瞳を細めて。けれど今は後のことよりも今のことだと、とりあえず一枚目の手紙に目を通していった。
『君がこの手紙を読むのは、馬車に乗った頃だろうか。存外効率を重視する君のことだから、きっと馬車の中でこの手紙を読んでいると思っている。この予想は当たっているかな』
「……ふふ、正解ね」
手紙の中のエリックはリディアナの現状を正確に当てる。リディアナのすることなんてエリックからすればお見通しなのだと思えば、少しおかしくも思えて。小さく笑みを零しつつ、リディアナは一文一文に丁寧に目を通していく。
白い便箋にバランスよく綴られた美しい文字は、エリックの性格を如実に表していた。この手紙は彼本来の誠実で心優しい性格が、ありありと伝わってくるようでもあって。子供の頃よりも大人びた文字を書くようになったと、リディアナは柔らかい微笑みを浮かべる。当たり前のことだというのに、その当然が無性に嬉しくて仕方がなかったのだ。こうして再び、手紙を貰えるような関係に戻れたことも。
『さて、この手紙を読んでくれている心優しい友人へ。この手紙は三枚ある。だがどうか道中で読み進めるのは、二枚目までにしてほしい。三枚目を読む時は、君が目的地へと辿り着いてからだ』
しかし懐かしい心地に心を癒やしていたリディアナは、続いたその文に首を傾げる。よくわからない指示であるとそう考えて、リディアナは折りたたまれた三枚目へと視線を向けた。どうやら今、この三枚目を読んではいけないらしい。
けれどエリックが態々書いておくということは、何かしらの意味があるからなのだろう。納得したリディアナは一番後ろの三枚目だけを見ないように抜き取って、そうして封筒へとその一通だけを仕舞い込む。気になりはするが、到着すれば読むことが出来るのだ。それならば後の楽しみとして取っておいても損はないだろう。そう自分を納得させると、リディアナは次の文へと目を向けた。
『こうして君に手紙を送るのは十年ぶりになるのか。そう考えると少し気恥ずかしくもあるけれど、きっとこれが最後の手紙になるのだとも思うから。だから君に正直な僕の思いを伝えようと思う』
十年ぶり、書かれていた言葉にリディアナは瞳を伏せて。そんな時期もあったと、遠いあの日の残響を瞼の裏に浮かべる。楽しかったこと、相手と一緒にやりたいこと、おすすめの本。子供らしい手紙を送りあったあの日は遠く、もう手は届かない。これがエリックからの正真正銘最後の手紙なのだとそう思えば、知らずの内に便箋を握る手に力が篭もって。けれど皺にしてはいけないと、リディアナは冷静になるように努めて次の文へと目を落とす。
『まず、心からの感謝を。君が最後まで僕を見捨てなかったこと。あの時はそれが辛くて、君に強く当たったこともあった。けれど今になって思えば、君には感謝しか無い』
「…………」
『僕は悲劇のヒーローになったつもりで、しかし破滅への一歩を辿ろうとしていた。守りたかったティニアを道連れに。君が命懸けで止めてくれなければ、この国は滅んでいただろう。君が大袈裟だというかもしれないけれど、君は国を救ってくれた英雄なんだ』
けれど理性で一度緩めた力は、ひたすらに感謝を綴られたその文面で再び蘇って。リディアナの瞳は複雑そうな感情を秘めて、そうして伏せられる。自分は英雄なんて、そう語られるような存在なんかでは決して無い。たまたま周りに恵まれていただけで、リディアナ自身は何もせず波に流されただけ。それなのに手紙の中のエリックは大袈裟にリディアナを褒め称えるから。それは小さな棘となって、リディアナの心に突き刺さる。
『だからこそ君は、幸せになるべき人だと僕は今でも思っている』
そうして刺さった棘の痛みは一枚目の最後に綴られていた文で、更に大きくなっていった。そんなことはないのに、そんなのはただの過大評価なのに、リディアナは罪を償うべき人間なのに。そう思う自分と周りの願いが矛盾していては、どちらが正しいのかが段々とわからなくなって。心を埋める罪悪感と今日までに重ねられた周囲の言葉を考えて、一瞬リディアナの心の中に迷いが生じる。しかしその迷いを振り払って、リディアナは読み終えた手紙を捲った。考えるのは全てを読み終えてからに、そうしようと決めたから。
『正直君の選択を、僕は未だに素直に喜べない。君は誰よりも気高く、心優しい人だ。だからこそ誰よりも幸せになるべきだと思うし、なって欲しいと心から願っている。それは今でも、そうしてこれからも変わることは無い。君を長年傷つけていた僕が言うのは、失笑を買うことではあると思うけれど』
手紙の中のエリックは語る。リディアナは幸せになるべきだと、少なくとも自分はそれを心から願っていると。その文を読んでリディアナは眉を下げた。自虐を含めながらもそれでもエリックは、リディアナの幸せを願ってくれている。そんな彼に答えられないことに、リディアナの胸はまた僅かに痛んで。
本当にこれで良かったのか、親しい人を悲しませてでも自分は罪を償うべきだったのか。振り払ったはずの思考がまたリディアナの頭を過ぎっていく。しかしそれでも自分は選び、もう後戻りができないところまで来てしまったのだ。痛みを押し殺して、リディアナは更に文面を読み進めていく。
『だが君がそれを望むのなら、僕に止める権利がないことは重々承知している。きっと僕がこんなことを書くことが、君の心を蝕んでしまうことも。我儘ばかりを一方的に告げて、本当にごめん。けれどそれでも僕は、』
「っ!?」
しかし心の中の矛盾と痛みに耐えながら続きを読もうとした時。がたんと、突然馬車が大きく揺れた。石に躓いたとか、溝に嵌ってしまっただとか、その程度ではない。何か大きな物にぶつかったかのように大きく揺れて、そうして馬車はそのまま動きを止める。御者の声も馬の声も聞こえてこずに、リディアナは手紙を握りしめたまま静寂の中に置き去りにされた。不安と焦燥が心に滲み始めても、変わらず誰の声も聞こえることがなくて。
予想外の事態にリディアナは動くことが出来ず、ただ硬直した。まだ手紙は二枚目の途中ではあるが、さすがに呑気に読み進めている場合ではない。どうすればいいか、それを必死に考えて。そうしてリディアナは恐る恐ると窓に目を向けた。外の様子を窺って、出方を考えようと思ったからである。盗賊にでも出会ってしまったか、それとも御者が犯罪者であったのか。しかし警戒に満ちた思考は、窓の外の景色を見た瞬間に吹き飛んでいってしまった。
「え……?」
呆けたような声が思わず零れていく。リディアナの視界に広がったのは、先程までの青空や牧歌的な小道ではない。窓の外を埋めるのは、一面と広がった鮮やかな紫だ。今目の前に広がる光景が理解できなくて、けれどリディアナはその世界を見た瞬間に思わず立ち上がった。馬車の扉を開けて、そうしてリディアナは外の世界へと飛び出していく。
「……!」
景色は、降りても尚変わることはなかった。幻覚なんかではない鮮やかな紫が一面に広がり、リディアナの視界を既視感のあるその色が埋め尽くしていく。圧巻とも呼べる光景に思わず声もなく驚いたリディアナは、しかしその中に一つの影を見つけて限界まで目を見開く。
深い森の中、一面に広がる紫一色の花畑。そこに佇む一つの影は、徐々にリディアナの方へと近づいてきて。その姿をリディアナが見紛うはずがない。動く度に揺れるさらりとした亜麻色も、強い意志を湛えた紫の瞳も。その姿が徐々に鮮明になるに連れて、同じ紫に染められたリディアナの瞳から今までずっと耐えていた涙が一粒と零れていく。それは朝露のようにリディアナの足元にあった紫のアネモネを、柔らかく揺らした。
「……泣くなよ」
彼は、その少年は、レンは。涙を零したリディアナに呆れたように笑って、そうしてその頬へと手を伸ばした。ひんやりとした心地良い温度の手が、リディアナの涙を拭ってくれる。けれどその手があまりにも懐かしいから、呆れたようなその瞳があんまりにも優しいから。慰めるようなその手を持ってしても、暫くリディアナの涙が止まることはなかった。