第五話
そうしてアーノルドに見送られたリディアナは、裏庭を密やかな足取りで歩いていった。振り返れば泣いてしまいそうだったからこそ振り返らず、しかし最後に父の顔を焼き付けておけば良かっただろうかと後悔を抱えながら。悲しげに視線を落とし、その手に手紙だけを握りしめながらもリディアナは一人静かに歩いていく。
黙り込んで耳を澄ませば、この裏庭の方まで鎮魂歌は聞こえてきて。冬の冷たい空気に溶けていくその歌は、心にいっそう物悲しく響くように思えた。一歩足を進める度に、この屋敷とはもうお別れなのだという侘しさが胸に込み上げてくる。けれどどれだけ寂しくても、リディアナが足を止めることはなかった。一度足を止めれば、もうその足が動かなくなってしまいそうだったから。
「……あら、ようやくお出ましですのね」
「っ!?」
しかしそこで聞こえてきた聞き覚えのある声と特徴的な口調に、リディアナはその足を止めてしまった。思わず俯いていた顔を上げて視線を前の方に向ければ、そこには一人の少女が立っている。いつもの華やかな色合いのドレスではなく、黒一色のドレスに身を包んだ少女が。冷たい風にその黒髪を揺らしながらその少女は、ただリディアナだけを見つめていた。
「……クレア、様」
「ええ。御機嫌よう、リディアナ・フォンテット」
呆然と自分の名前を呼んだリディアナに、薔薇色の瞳は挑戦的に笑って見せる。手に持っていた扇子を優雅な動きでぴしゃりと閉じて、そうしてクレアはリディアナへと早足で歩み寄って来た。目前へと迫った自分よりも背が低いその少女は、威圧感を持ってリディアナを見上げる。変わらない強い、こちらを焦がすかのような視線と共に。
「棺から蘇ったようで何よりでしてよ」
「……ええ、と」
「あら、珍しい。貴方が言葉も出ない程驚くなんて」
ずいとその顔を近づけて、そしてクレアはにやりと笑う。一歩間違えれば鼻同士が触れ合ってしまうのではないかと危惧してしまうほど、その距離は近くて。それはクレアの薔薇色の瞳に紫の鮮やかな花が映り込むのが、ありありと分かってしまう程に。
クレアの突然の登場にか、それとも距離感にか、リディアナは最初上手く言葉を紡ぐことが出来なかった。それを見て更に得意げに笑うのだから、今日のクレアは中々にタチが悪い。いいや、ある意味いつも通りでもあるのか。いつだって突然に登場してみせたクレアとの思い出を振り返り、リディアナは苦笑を浮かべた。今までの彼女との邂逅を思えばこの程度、今更驚くことでもないのかもしれない。いつだってリディアナの予想を超えていく、彼女ならば。
「……誰から、お聞きに?」
「我が婚約者殿、からですわ」
そう自分を納得させたリディアナは一度瞳を伏せて、そうして静かな声でクレアへと問いかけた。冷静さを取り戻したリディアナにか、クレアはつまらなそうに唇を尖らせて。しかし体を引くと、さらりとした口調でクレアはリディアナの質問に答えてくれた。最もその声音は、どこか不満そうではあったのだけれど。
「婚約者……ああ、そういうことなのですね」
「ええ。貴方が居なくなったからこその、消去法でしてよ」
婚約者、その言葉に一度リディアナは瞳を瞠って。けれど数秒の逡巡の後に辿り着いた答えはあんまりにも単純であった。恨み言のように呟くクレアに、リディアナは困ったような笑顔を浮かべてみせる。今回のリディアナのことを知っている人物はあまりにも少ない。そこから更にクレアの婚約者となれる人物とすれば、その答えは一択に絞られる。
心底不服そうに溜息を吐くクレア。それは彼女が婚約者となった彼のことを気に入ってないことを明白に示していて。そんなクレアを宥めるように、リディアナは柔らかい笑みを浮かべた。そうしてリディアナは心からの祝福を、不満そうな少女へと捧ぐ。
「エリック王太子殿下とのご婚約、おめでとうございます」
「……ふん、ありがとうございますわ」
その表情は到底喜んでいるもののようには思えなかったけれど、それでもクレアは一応はリディアナの祝福を受け取ってはくれた。きっと彼女も分かってはいるのだろう。リディアナ・フォンテットという存在が死んだ今、時期国王であるエリックの婚約者を務められるのが自分しかいないことを。
「こんなことなら、早く婚約者を決めておけばよかったと思っていたところでしてよ」
心底嫌そうに眉を寄せながら、クレアは溜息を吐く。何故ここまで王配を嫌がるクレアがエリックの婚約者になったかと言えば、理由は単純明快で。単純に婚約者の居ない年頃の高位貴族の令嬢が、クレアしか居なかったからである。高位貴族であれば大概十を迎えると婚約者が決まるこの世界、婚約をしていない年頃の令嬢なんて変わり者のクレアと事情があったリディアナくらいのもので。
だからこそ彼女は今後悔しているのだろう。早い内に婚約者を決めておけば、今回貧乏くじを引かされる羽目にならなかったと。とはいえそうなった場合、エリックの婚約者は相当年の離れた令嬢になってしまうのだが。
「ふふ、クレア様なら王妃という立場も問題なくお務めになられるでしょう?」
「……まぁ、貴方にそう言われれば悪い気はしませんわね」
しかしリディアナはクレアがエリックの婚約者になってくれて良かったと、そう思っていた。昔のエリックならいざ知らず、今のエリックは前のように最悪の王子を無理に演じる必要が無い。そんな彼ならばクレアを大切にするだろうし、それにエリックにとってもクレアは頼りがいのある人物になるはずだ。リディアナは単純に、親友の婚約者が頼りがいのあるクレアだったことが喜ばしかったのである。
綻ぶような笑みと共にそう告げたリディアナにクレアは一瞬呆気に取られたように瞳を瞬かせて、けれど次の瞬間満足そうな笑みを浮かべて見せた。目標であるリディアナに認められるのは、素直に嬉しかったのである。それに、一応王配候補になったことで、クレアにも利点はあったのだ。
「……貴方のお話も、全て聞きましたわ」
「……そう、なのですね」
利点とは、リディアナの過去と現状を正しい形で知れたことである。エリックに話を聞いたからこそアーノルドに頼み込み、クレアはここでリディアナが訪れるのを待っていた。恐らく最後となるこの機会、リディアナに伝えたいことが出来たから。
浮かべていた笑みを消して、クレアは真っ直ぐにリディアナを見つめる。そんなクレアの言葉にリディアナは、動揺することはなくて。ここに彼女が居る時点で、自分のことは全て知られているとリディアナはそう理解していたから。だからこそ凪いだ紫の瞳で、リディアナはクレアを見返す。その紫にか、クレアの瞳が複雑そうな色を浮かべた。
「話を聞いて、改めてわかったことがありますの」
クレアの知っているリディアナは薄金の髪と見事なロイヤルブルーの瞳を持つ、どんな令嬢よりも美しい令嬢だ。その美貌は変わらないというのに、色が変わっただけで目の前に立つ人物は別人のようにも見えて。空を桃色に塗ったような、草木を赤で彩るかのような、そんな違和感が目から離れてくれない。
けれどそんな違和感を、どうしてと吠えたくなるような激情を、その全てを押し殺して。クレアは真っ直ぐに自分を穏やかに見つめるリディアナを見据えた。全てを受け入れると言わんばかりの表情の彼女は、きっとクレアの口から零れ出るのが罵倒や文句に似た言葉だと思っているのだろう。美しいくせに、完璧なくせに、存外クレアの目標であった彼女は自己評価が低い。だからこそクレアは意趣返しとして、リディアナのその予想を裏切ってやることにした。
「……人間に魔力なんて無駄ですわね」
「……え?」
間抜けた声が、その口から零れる。丸くなった紫の瞳にクレアは満足げに笑って、手に持った扇子を再び開いた。全てを諦めたような下らない表情よりも、困惑に揺れるその表情のほうが余程マシだ。まぁどんな表情もあの日自分が見た、優雅な美を体現した微笑みには敵わないけれど。
「だって使えない物を持ったところで、何の意味もないでしょう?」
「そ、れは……」
「意味のない物が、重ねた千の努力に負けるなんて馬鹿馬鹿しい」
困惑するリディアナに、クレアは怒涛のように言葉を重ねていく。クレアはこの国の価値観には前々から疑問があった。どうせどう足掻いたところで人間に魔法は使えないのに、何故魔力が高いことを高徳とするのかと。魔眼でも持っているのならば別だが、そうでないのなら魔力が高いことになんて何の意味もない。意味のない物に価値を見出して、それで努力が切り捨てられるというのなら論外だ。今目の前に居る彼女もまた、その悪習の被害者なのだろう。
歴史は重要だ。先人の目の先に現在を生きる人が立つことで、新たな世界を見ることが出来るから。礼儀作法は重要だ。その指先や手振りで、目の前の人物がどういう人間なのかを理解できるから。語学は重要だ。自国だけではなく他国のことを知ることで、自分という人間を更に鮮やかな色で飾れるから。
それらに比べれば、魔力というものには一体何の意味があるというのだろう。使えもせずただそこにあるだけの物に、この国の人々は何の価値を見出しているのだろう。前々から理解できなかった思想は、リディアナの件を聞いたことでクレアの中で更に浮き彫りとなって。重ねた努力を踏み躙るだけの意味の無い物なんて必要ないと、クレアはそう考えた。それならばクレアがやることは唯一つだ。
「……貴方がどこに行くかは存じませんけれど、見ていなさいな」
呆然とこちらを見つめている紫色を見つめて、クレアは凛と声を張った。リディアナの行く先にクレアは興味がない。例えどこに行ったとしてもリディアナという人間は、その場所で鮮やかに咲き誇れる人間だから。ただその花を魔力という下らない風習が茨となって蝕むことがあるのなら、そんな物は焼き払ってみせよう。リディアナのためではなく、クレアが気に入らないからこそ。自分が追う背中を無意味な物で汚されるのは、我慢がならないのだ。だからこそ。
「あたくしとあの子で、この国の古い価値観を叩き割って差し上げますわ!」
「……!」
折角王妃となるのだから、その権力は思う存分に振るわなければ。聖女になることが自然と決まった自分の教え子と共に、クレアはこの国を蝕む茨を焼き払うことを宣言した。他の誰でもない、自分が唯一憧れたリディアナに向けて。
その宣戦布告にリディアナは目を見開いて、何かに迷うように瞳を伏せて。そうして再び瞳を開いた彼女は、困ったように微笑んだ。言葉こそはなくても、その笑顔には確かな信頼と感謝が滲んでいる気がして。そう、言葉なんて要らないのだ。諦めたような表情をその笑顔に変えられたのなら、それだけでクレアにとっては価値がある。その色が亜麻色と紫なのには、やはり納得が行かなかったけれど。
「……それだけ、でしてよ」
「……クレア様」
「……ふん。早くお行きになったら? 話はもうありませんわ」
そして宣戦布告が済んだのなら、もうクレアの用件は済んだ。自分の名前を呼ぶリディアナに唇を噛み締めながら、クレアはリディアナに背を向ける。らしくないとそう思いながら、クレアはそっと俯いた。別れを惜しむ必要なんて無い。王妃となる以上、クレアは自分の名前をこの大陸に刻みつけるつもりだ。リディアナがどこに居ても、届くように。だからこそ寂しくなんて、悲しくなんて、思わなくていいのに。
「……いつかまた、お会いできる日があることを」
そんなクレアの耳に、囁くような優しい声が響いた。重く聞こえる足音が自分の背後から隣へ、そうして前へと進んでいく。その声に返事ができずに、クレアはただ俯いていた。顔を上げてしまえば、決定的な何かが叩きつけられるとわかっていたから。
しかしそれでも足音が遠くなった瞬間、クレアは顔を上げてしまう。その薔薇色の瞳に、リディアナの背中が映った。地味なワンピースに、揺れる亜麻色の髪。薄金の髪に豪華なドレス、それに身を包んでいたあの日の彼女とは全てが違って。今の地味な背中とは、到底被るはずのない情景なのに。そうだというのに、クレアの視界にはあの日の背中が重なった。超えられないことを叩きつけられた、憎らしくも愛おしいあの背中が。
ふ、と力が抜けた。いつの間にか強張っていた全身を緩めて、そうしてクレアは振り返らない彼女の背中を見つめる。声を掛けることも、手を伸ばすことも叶わない。だがそれでいいと、そう思わせるほどに眩い彼女。禁術に手を出した人間とは思えないほどに、純粋で心優しく何よりも美しい人。クレアが言えないことを、あっさりと形にする人。クレアはリディアナのそういうところが、彼女を構築するその全てが。
「……貴方のそういうところが、大嫌いですの」
苦笑にも似た声が零れていく。きっとこの声もまた、リディアナには届かない。そういうとことも全部含めて、クレアはリディアナが大嫌いであった。他の誰もが目に入らないくらいに、その背中に魅せられてしまったから。