第三話
葬儀の準備で誰もが出払っている静かな廊下を、リディアナは一人で歩いていく。静まり返っているからか、それとも誰もいないからか、一人きりで歩く廊下はいつもと変わらない景色であると言うのに少しだけ違うもののように思えて。どこか複雑そうな色を紫の瞳に浮かべながら、リディアナはゆっくりと前へと進んで行った。自分が出ていく屋敷の裏口まで、もう直ぐだ。
そうしてリディアナはその場所へと辿り着く。使う人間が居ないからか少し寂れた、しかし清潔に保たれた裏口へと。この裏口の使い道など、賊に襲われた時に逃げる時ぐらいのもので。身内での揉め事がありながらも平和であったフォンテット家にとっては、必要のないものであったのだ。今日この日までは。
「……お待たせ致しました、公爵様」
「……いや」
そこに立っていた一人の人物に、リディアナはそっと声を掛ける。声に釣られてかこちらの方を振り返った金髪の美丈夫に、リディアナは淡く微笑みかけた。公爵様、そう呼ばれたことに彼の眉間が寄せられたこと。それに僅かな寂しさを抱きながらも。
「本日は私のために上等な馬車を用意していただき、ありがとうございます」
「……ああ」
複雑そうな視線に見下ろされながら、リディアナは父であった存在へと頭を下げた。これからリディアナはアナとして生きていく。そこにはリディアナにとってアーノルドはもう父ではなくなるという、そんな意味があって。
ようやく和解できたというのに、分かり合えたというのに。本来であればこれから故人の思い出を共有していくはずだった二人に、もう未来はない。かつては娘であった少女の、他人行儀な形式ばった挨拶に何を思ったのだろう。傷ついたように瞳を伏せながらも、アーノルドは静かに頷いた。その視線は、色彩を変えて別人のようになった自分の娘を寂しげに見つめる。微笑を湛えるその少女に愛する妻の面影こそはあれど、自分の面影はもうどこにも無かったから。
「……奥様とお嬢様の葬儀は、もうよろしいのですか?」
複雑に思いを描くアーノルドのその胸中には気づかず、リディアナはアナとしてアーノルドに問いかけた。その視線は自分を見つめている青から逃げるように、家の表門の方へと向けられる。それは喪主であるアーノルドが、葬儀もまだ終わっていない最中抜け出してきても構わないのかと問いかけるような視線であった。
父は恐らく自分を見送るために、態々葬儀を抜け出してくてくれたのだろう。しかしそれは、周囲から見れば冷たい行動のように取られないだろうか。何も知らない人々からすれば、アーノルドは妻と娘の葬儀を抜け出した薄情者だ。それがいつか父の足を引っ張る結果となったら、とリディアナは胸に不安を積もらせる。口さがない者によって、彼は更に傷を重ねることはないかと。
「構わない。アナスタシアとの別れなら、もう済ませている」
しかし不安に揺らぐリディアナの声に返ってきたのは、毅然としたそんな声であった。その声の裏に滲むのは、言わせたい者には言わせておけばいいというそんな意思で。だがリディアナは知っていた。最愛の妻であるアナスタシアが亡くなったことが、素っ気なくも聞こえる返答を返す父にとってどれだけの負担になったかを。リディアナの手前見せていないだけで、アーノルドはアナスタシアの死に深い傷を負ったはずだ。
「……そう、ですか」
その父に寄り添えたら、どれだけ良かっただろう。けれどどれだけそれを願ったところで、どう足掻いてもリディアナを知る者が多いこの屋敷にリディアナはもう居られない。エリックの提案のように王城に仕えることはできたし、ミレーニアやクラウディオの提案のようにリティエの王城に客人として招かれることは出来ただろう。しかしこの屋敷にだけは、リディアナはもう居られないのだ。
最愛であったアナスタシアを失った父に、追い討ちのようにリディアナを失わせた。その罪悪感が再び痛みとなってリディアナの心臓を襲う。それはアンリからとある話を聞いたからこそ、余計にリディアナの重荷となってしまっていて。
『お嬢様に、お話しておきたいことがあります』
リディアナが実は生きていることを知っているのは、この屋敷では三人。父であるアーノルドと、世話係であるミランダ、そうして長年リディアナ個人に仕えてくれていたアンリである。二日ほど前、アンリはリディアナにとある話を打ち明けてくれた。それはアンリが、ずっとリディアナが禁術を抱えて生きていることを知っていたという内容だったのである。
『さすがに侍女であれば、主の体調不良くらいは気づきますよ』
目を瞠って驚いたリディアナに苦笑を浮かべて告げたアンリは、リディアナに全てを語った。アンリにリディアナが禁術を使ったことを明かし、高額の給金の代わりに見ないふりをして世話をすることを求めたのがアーノルドであることを。
リディアナも長年疑問ではあったのだ。本来貴族令嬢というのは、数人の世話係を付けられる。それだというのにリディアナには長年アンリ一人という、最小限の人数しか付けられることがなかった。それはアーノルドがリディアナに対して無関心であったからだと思っていたのに、事実は全くもっての真逆で。リディアナの秘密を守るために、アーノルドは密かに尽力してくれていたのだ。
『旦那様は不器用なお方です。しかしお嬢様を、心から大切に思っていますよ』
更にアーノルドの尽力とはそれだけではない。リディアナの好きなあの紅茶だって、アーノルドの指示でアンリが出してくれていたものだったのだ。昔買った余りではない、新しく質のいい茶葉を態々用意してくれてまでも。
アンリは驚き声も出なくなったリディアナに、ただ語った。あの茶葉は少量であれば健康に良いが、多量に飲むと目眩や嘔吐などの副作用を起こしてしまう茶葉であること。だからこそ母との思い出に縋ってあの紅茶を常飲しようとしたリディアナを、アーノルドは止めたのだと。そしてその罪悪感の代わりに、アンリに深夜のお茶会を頼んだ。それなのに目の前の父はその気遣いの何一つだって、言葉にすることが無く。今この別れ際でも、尚。
「……なんだ」
アンリの話一つ一つを思い出せば思い出すほど、リディアナの胸の中は名前のつけられない温かい感情でいっぱいになっていった。祝い事の度にリディアナの好物である野菜スープが出されたのは、料理長の気遣いではなく父の指示で。エリックと揉め事を起こす度に眉を寄せていたのは、家のことを気にしてではなく単純にリディアナを心配していたからで。今リディアナを怪訝そうに見下ろすその人は酷く不器用で、けれど心からリディアナを愛してくれていたのだ。
「……お父様、これを」
「っ!」
だからこそリディアナは罪悪感から一度逸した視線を、今度は真っ直ぐへとアーノルドへと向けた。父とアーノルドをそう呼んで、リディアナは彼へと一つのネックレスを差し出す。影の深い室内でも変わること無く輝くその青は、アーノルドの瞳と同じ色彩をもって揺らめいていた。
「……それは、お前が持っていくものだ」
布に包まれる形でリディアナの手の中で輝くそれを見た瞬間、アーノルドは驚いたように目を見開いて。しかし見開いた瞳を直ぐに不機嫌そうに眇めると、アーノルドはゆっくりと首を振った。アナスタシアが居なくなった以上、その石に一番相応しいのはリディアナである。だから自分が受け取る訳には行かないと低く声を漏らし、アーノルドは石から逃げるかのようにその足を一歩引いた。
複雑な感情を秘めた瞳が、その瞳と同じ色で輝くタンザナイトを見つめる。何よりも愛した存在を守ってくれるようにと渡したタンザナイトは、彼女を守ることはなかった。けれどそれでもこの石は、娘のことは守ってくれたのだ。そう思うとこれから遠い旅路に出るリディアナを守ってくれるようにと、そう祈るのが最後の親心のようなもので。しかしアーノルドの低い呟きに臆すること無く、リディアナはアーノルドが引いた分の一歩の距離を踏み込んだ。今は紫の、されど変わること無く純真に輝く瞳がアーノルドを一心に見つめる。
「いいえ、これはお父様が持つべきものです」
「何……?」
そこには揺らぐことのない、確固たる意思が秘められているようにも思えて。それが正しいのだと言わんばかりに一歩二歩と距離を縮めて、リディアナはそのネックレスをアーノルドへと再び差し出した。困惑したように見下ろしてくるアーノルドに苦笑を浮かべて、そしてリディアナは語り始める。死の淵を彷徨ったあの時、自分が見ていた夢の話を。
「……あの日、倒れた時。眠る私は揺らめく波際という不思議な夢の中に居ました」
「…………」
「そこで私が、誰に出会ったと思いますか?」
「……!」
波際。水に攫われてリディアナが流れ着いたあの場所は今思えば、生と死の今際のような場所だったのだろう。母との間に隔てられた透明な壁を思い出し、リディアナはそっと瞳を伏せた。あれは夢だけど、夢だけではなかったのだ。きっとリディアナは向こう側へと渡ってしまった母と、あの時邂逅を果たしたのだろう。向こう側へと渡りそうになったリディアナを、母は向こう側から押し出してくれた。
問いかけたリディアナにアーノルドは一度瞳を瞬かせて、しかし次の瞬間ひゅっと息を呑んだ。誰になんて、強い意思を宿すリディアナを見下ろせばそんなのは最早考えるまでもなくて。見開かれた青に何を思ったのか、リディアナは綻ぶように笑ってみせた。そうしてリディアナは手の中のタンザナイトを、その存在を確かめるかのように握る。
「……お察しの通り、私はお母様にお会いしました。お母様は向こう側に行こうとした私を止めてくれたんです」
あの時リディアナは死の今際に居たせいか、多くのことを忘れてしまっていて。欲と波の赴くまま、最期の一線を超えてしまうところだった。しかしアナスタシアに引き止められたから、アナスタシアがリディアナの世界を彩る色合いを思い出させてくれたから、リディアナは生きて帰ってこれたのだ。それは魔法ではないけれど、まさしく奇跡のような出来事であった。
「そのタンザナイトにはきっと、お母様の意思が宿っている。何よりもお母様が大切にしていた宝石だからこそ」
「……アナスタシアの、意思」
「はい、なのでお父様が持っていらしてください」
きっとリディアナがあの瞬間母に会えたのは、母と強く繋がりを持つこの石があったからなのだろう。アーノルドとの思い出として、母は生前この石を大切にしていたから。だからこそリディアナはこの石を、アーノルドに持っていてほしかった。一度貰ったものを突き返すこと、それが失礼に当たることだとはわかっていても。
小さな声で呟いたアーノルドを、リディアナはじっと見つめた。リディアナにはこの胸の中にあの時の邂逅がある。母は自分を愛してくれていたのだと、誇りに思ってくれていたのだと、そんな輝きがこの胸の中にあるのだ。しかしアーノルドはどうだろうか。不器用な父のことだ。きっとその心に抱えた思いの半分だって母に伝えられないまま、そうして別れを迎えた。そうしてその後悔は、胸に降り積もったままのはずだ。
「……私はもう、十分に救ってもらいましたから」
そんな父が、どうか夢の中で愛する母に会えるように。今ではこのタンザナイトにはリディアナのそんな願いも宿っている。差し出したリディアナの手をアーノルドは迷うように見つめて、しかしようやっと彼はその宝石に手を伸ばした。それは何かに縋るかのような、そんな動きにも思えて。
包んでいた布ごとタンザナイトのネックレスを受け取ると、アーノルドはそっとその石を握りしめた。娘の願いと、愛した妻の意思が秘められた宝物のようなネックレスを。そんなアーノルドに、リディアナは微笑みかける。それがどうしようもなく愛した彼女に重なって見えて、アーノルドは唇を噛み締めた。
「……そう、か」
もうどこにも最愛の彼女は居ないけれど、それでも残されたものはある。それはこの手の中にある思い出の宝石と、そうして持つ色合いが変わっても何ら変わることの無い自分たちの娘であった。微笑むリディアナに、アーノルドもまた柔らかな笑みを浮かべる。その表情は確かに、二人が親子であるという証明であった。