第三十三話
「……え?」
そういうことだったのか。アランから発せられた予想外の第一声に、エリックは思わず困惑の声を上げた。この事実が知られてしまった以上エリックに差し向けられるのは、何故黙っていたのかというような責め立てる声だと思っていたのに。だがそんな予想に反して、アランは納得したかのような頷きと共にエリックを見つめている。衝撃的であろう事実を聞いても怒りに燃えることのないアランのその瞳が、エリックには異様なもののように思えた。
「エリック」
「は、い……」
「お前と私の間に、糸とやらは無いのだな?」
そうして告げられた、念を押すかのようなアランの一言。その問いかけにエリックは思わず息を詰まらせる。目の前ではティニア王家の象徴である緑の瞳が、嘘偽りは許さないと告げるようにエリックを見下ろしていて。しかし相変わらずそこに責めるような色はなく、自分を見つめる緑は穏やかな水面のように凪いでいた。
その瞬間、エリックの頭の中で様々な考えが逡巡する。このまま頷いていいのか、頷けば母はどうなるのか、アランは一体何を考えているのか。そうして考えて、散々躊躇って。けれど結局、エリックは頷くことを決めた。アランがその瞳に怒りを宿していないこと、それに一縷の望みを賭けて。
「……はい」
「エリック……」
震える声と共に頷いたエリックのその肩で、ルージュは顔を青褪めさせる愛し子を心配そうに見つめる。冷え込んでいくエリックの体温が心配で仕方なくて。けれど人間の問題に、人外であるルージュは深く首を突っ込むことはできない。過去の経験から人外である自分が口を挟めば挟むだけ、話が拗れていくということをルージュは知っているのだ。だからこそ口を噤んで、ルージュはエリックをただ見守る。
そうしてそんなルージュと同じく、リディアナもまた偽りの親子の会話を固唾を飲んで見守っていた。自分が国家に関わってくるような話を聞いて良いのかという戸惑いはあれど、一度エリック本人の口から話を聞いた以上最後まで見届けなければいけないと思ったから。口を挟まず、ただ空気に徹しながらもリディアナはアランを見つめる。涼しげな表情の裏側に隠した、彼の考えを探るかのように。
そんな各々の思惑が交差する中、長い沈黙は訪れた。青褪めながらもアランの言葉を待つエリックと、そんなエリックを心配そうに見つめるルージュ。そして王が何を言ったとしても、エリックの味方であり続けようという覚悟を決めたリディアナ。その場に居たレンを除く全員が、アランの言葉を固唾を飲んで待ち続ける。そうして長く重苦しい沈黙の後、やがてアランの口は開かれた。
「……ふむ、それはそうであろうな」
「……!?」
長い沈黙の末、アランから返って来たのは知っていたとそう告げるような肯定の言葉で。それを告げるアランの表情もまた、穏やかと言って良いほどのものであった。まるで長年の責務という荷物を降ろしたかのような晴れやかなアランの表情に、エリックは声にならない声を零しながら目を見開く。そんな反応は、予想だにしていなかったのだ。何故目の前の人物は妻の不貞を知って、それでも平静のままなのか。複雑な感情と混乱が、エリックの心をぐちゃぐちゃにかき乱していく。
「わ、」
「っ、それは、どういう意味ですか!?」
そうして混乱をそのままに肩に乗るルージュに気を使う余裕もなく、エリックはベッドから乱暴に立ち上がった。突然揺れたせいか、エリックの肩から柔らかいベッドへとルージュは振り落とされてしまって。しかしそれに気づけないほど、エリックは動揺していた。立ち上がって目線が揃ったアランをエリックは困惑の表情で見つめる。鋭い眼光を一心に向けるその表情は、いっそのこと睨みつけるという表現の方が近かったかもしれない。だがそれほどまでに、エリックにはアランの反応のその意味が理解できなかったのだ。
何故黙っていたと、そう怒鳴られるのなら理解出来る。乱暴に殴りつけられた方が、余程理解出来る。しかしそうせずに、アランはただ凪いだ瞳でエリックを見つめるばかりで。一人納得がいったと言うように頷くばかりで。エリックは何も、納得が出来ていないというのに。今も尚、焦燥は追い立てるかのようにこの胸の中にあるのに。
あの日気づいてしまったが故の絶望を、今日のこの日まで一度だって忘れたことがなかったのに。
「……エリック、私の名前がわかるか?」
「……名前?」
「ああ」
今のエリックの表情は内面をそのまま表すかのように、複雑な感情が入り混じった必死なもので。焦った瞳で自分を見つめるエリックに、何を思ったのだろう。アランは一度瞳を伏せると、静かな声でエリックに問いかけた。何を言っているのかと言わんばかりの声がエリックから返されても、何ら気にする事はなく。その涼し気なアランの表情に、エリックの眉はますます寄って行って。
「……アラン・フォン・ティニア、です」
アランが何を言いたいのかが、エリックには全く理解できなかった。その涼しい顔の下で、何を考えているのかさえも。ただそれでもエリックは大人しく、アランのその問いかけに答えた。それが今胸を埋め尽くす疑問を解決する何かしらの糸口になるのならと、そう考えて。困惑に揺れる声で、そうしてエリックは目の前の人物の名前を呼ぶ。その言葉に、アランは悲しげに微笑んだ。
「……それは、今は亡きお前の父親の名前だ」
「は……?」
しかしそんな微笑みと共に返ってきたのは、またしても予想外の返答で。密やかに落とされたアランの言葉に、エリックの頭は再び真っ白に染まっていく。緩やかに首を振って、アラン、いいやアランではないらしいその人物はその顔に小さな笑みを浮かべた。それは王の座に付いている者とは思えないほど、気弱な笑みで。王子として彼に守護されていたエリックが見た事もないような、そんな表情で。
今は亡き、それはどういう意味なのだ。呆然としたエリックの頭に浮かんだのは、そんな疑問であった。アラン・フォン・ティニアは、今まさしくここに居る。けれどその人物は自分はアランではないと、そうして首を振っているのだ。思考が全てひっくり返され、脳内がかき乱されていく中、そうしてその人物は更なる爆弾をエリックへと投げつけた。
「私の名前は、クロード・フォン・ティニア。十五年前に双子の兄であるアランと入れ替わった、お前の叔父だよ」
「……!」
その言葉に息を飲んだのは誰だったのだろう。エリックか、リディアナか、それともルージュか。一人興味無さげに瞳を細める少年を置いて、その場にいた全員に天地をひっくり返したかのような衝撃が走る。いいや、まさしく今前提が覆ったのだ。衝撃に目を剥く三人を、クロードと名乗った男はただ困ったように見つめていた。王らしからぬ、気弱な笑みを浮かべたまま。厳格であった口調を、本来のものなのであろう穏やかなそれに塗り替えながらも。
「……君と私の間には糸が繋がらない、けれど君は確かに王族の直系の血を引いている」
「…………」
「その理由はもう、分かっただろう?」
一同が衝撃を受け入れる暇もないまま、そうしてクロードは言葉を続けた。エリックにくるりと背を向けて、そうしてクロードは窓の方へと近づいていく。その背中を、エリックはただ呆然と見つめていた。寂しそうに見えるその背中になんと言葉を返せばいいのか、その答えを呆然とする頭では考えられそうになくて。
そんなエリックを、いやこの場にいた全員を置いて、クロードは窓の前に立った。窓から差し込む陽光に気持ちよさそうに瞳を細めるクロードは、先程とは別人のようにも見えて。それが彼が演じていた仮面を剥いだからか、こちら側に心境の変化が起きたが故なのかはわからなかったけれど。一拍の後、クロードは顔だけ振り返ってエリックの方に問いかける。日に照らされた緑色は、王として生きる普段の彼のものよりも柔らかく見えた。
「偽物なのは君じゃなくて、私の方なんだ」
「っ!」
柔らかく微笑むクロードから向けられたその言葉は、深い刃となってエリックの胸を抉る。エリックの方を見つめるクロードのその表情は、どこか悲しげでもあった。自分が偽物だと心から受け入れて、そうして諦めているかのような表情。そんな顔を浮かべながら、クロードは語り始める。王家に生まれし双子が入れ替わった、十五年前の真相を。
「十五年前、世間では王弟が病に倒れたとされている話があるだろう?……あの時、ザハトから始まった流行病に倒れたのは僕じゃなくて兄上だった」
前代の王族には、王子が二人居た。そっくりな双子の、揃いの緑の瞳をもつ王子たちが。豪胆で未来を見る目を持つと囁かれたアランと、病弱ながらも聡明で兄を支えていたと言われるクロード。そうして十五年前の流行病で亡くなったのは、クロードの方だと語られていた。しかしそれが逆だったのだと、当人であるクロードは語る。
「……当時のアラン陛下、ということですか」
「その通りだ、リディアナ嬢。何の因果かその時だけは、病弱がちな僕じゃなくて兄上の方を病魔は選んだんだ」
十五年前、エリックやリディアナがまだ年端も行かぬ子供であった頃。しかしその当時に流行った病のことは、その記憶がないリディアナでも知っている事だった。病に侵された者は高熱に侵され、割れるような頭痛と共に死に至る病。その病は母を襲った病よりも、犠牲者が多かったという。とはいえ犠牲は当時の王、アランの迅速な判断のおかげで最小限に済んだとも教えられたが。
いつか祖父から聞いた話を思い出して問いかけたリディアナに、クロードは静かに頷く。頭を襲った衝撃を飲み込みながらもエリックのためにか、少しでも情報を引き出そうとしているリディアナ。それに感謝を告げるように微笑みながら。
「未来を見る魔眼、噂には聞いたことがあるはずだ」
「……ええ」
「それは本当にあったんだ。兄上は未来を見る力を手にしていたんだよ」
吟遊詩人かのように歌うように語るクロードを、エリックはただ見つめていた。返事も返さずにその話を咀嚼しようと黙り込むエリックに変わって、リディアナは緊張に震える声で相槌を返す。それに困ったように微笑みながらも、クロードは口を止めることはなくて。アランには本当に未来を見る魔眼はあったのだと告げたクロードは、しかしそこで表情を曇らせた。
「……しかしだからこそ、兄上は自分に未来がないことを悟ってしまったんだ」
未来を見る魔眼。それはまるでお伽話の主人公かのような、夢のような力だ。けれど未来が見えるからといって、全てが上手くいくわけではないのだろう。悪い未来を良い未来に変える方法はあるかもしれない。しかしきっと、全ての未来が塗り替えられるわけではないのだ。クロードの表情にそれを悟ったリディアナは、生唾を飲み込む。当時すでに病に罹ってしまったアランの死の未来は、塗り替えられない未来だったのだ。
「兄上は自分に死が訪れることを知ってしまった、それが避けられないことを知ってしまった」
「…………」
「だが十五年前、ティニアは酷く混乱していてね。王が死ぬわけにも、玉座を空席にするわけにも行かなかったんだ」
こつと、硬い足音が窓辺から再びベッドの方へと近づいてくる。いいや正確にはエリックの方に、が正しかったのだろう。窓の陽光に瞳を細めていた王の偽物だった男は、再びエリックの前へと戻ってきた。呆然と自分を見つめるエリックを、クロードは苦笑とともに見つめる。
エリックを見つめるクロードのその緑の瞳には、確かな愛情があった。自分の片割れであり自慢であった兄が残していった甥は、クロードにとって宝物だったのだ。例え大きく変質しても、今の今まで切り捨てることが出来なかったほどに。自分の本当の息子であると、そう思えるくらいに。
伸ばされたその手が惑うように揺れながらも、甥の頭を撫でた。今までの苦労を労うかのように、少年だった頃の彼が背負ってしまった荷物を気づけずにいた事を詫びるように。自分は彼の父ではないし、意図しないところであったとしても彼の心に重荷を乗せてしまった元凶だ。しかし十五年前に兄と入れ替わったあの日から、クロードは一つ決めていたことがある。自分と同じ緑の瞳が揺らいだのを見て、クロードは静かに微笑んだ。
「……だから、僕達は入れ替わった」
誰よりも誇り高い王であった自分の片割れが拾うはずだったその全てを、自分が拾い上げる。きっと彼ならばこうして立派に育った息子を、自分よりも母と国を優先した息子を、褒めると思ったから。言葉とともに遠いあの日の残響がクロードの頭の中で響いた。クロードと自分の名前を快活に呼んでは、こんな未来を見たと楽しげに語る兄の姿を。育ったエリックは、そんなアランにそっくりであった。姿形も、そして自分を捨ててでも国を守ろうとするその覚悟も。