第三十二話
「……って、そう思ってたんだ」
「……え?」
部屋に訪れた重苦しい沈黙。しかしそれは、続けられたエリックの言葉によって徐々に払拭されていった。ぽかんとするリディアナを、困ったような苦笑を浮かべたエリックが見つめる。その肩では、頬を膨らませたルージュが足をじたばたと動かしていて。
「エリックはアレックスの子孫だもん! 強い血がその身に流れてるもん!」
「……大妖精様、」
「ルージュ! 貴方なら、そう呼んでいいの!」
腰に手を当てて、ルージュは今しがたエリックの語ったその全てを否定する。余所余所しく自分を呼ぶエリックを窘めるかのように、小さく細い人差し指をその唇に当てながらも。不満そうなそのルビーの瞳は語る。エリックは紛れもなく、自分が愛した初代国王アレックスの子孫であると。
「……ええと、つまりどういうことなの?」
「……それが、僕にもわからなくて」
リディアナは体いっぱいに不満を表す大妖精の姿を見て、よく分からなくなっていた。病み上がりの起き抜けに聞かされるには複雑過ぎる話を、頭の中で整理する。もうこの身を苛む禁術は消えて頭痛は無いはずなのに、何故だか頭が痛む気がしてリディアナは眉を寄せた。
エリックは自分は王家の血を引いていない紛い物の王子だと語る。しかしそれならば、ルージュの主張はなんなのか。ルージュは間違いなく本物のこの国を守護する大妖精様である。そんな彼女が言うのなら、エリックの主張が間違っているのでは。けれどそれならばエリックの言う糸とは、魔眼とは何だったのか。考え込めば考え込むほど、何が正しいのかがわからなくなっていって。
「僕と国王陛下の間に血の繋がりはない。けれど大妖精、」
「ルージュ!」
「……ルージュ様は、僕が紛れもなく初代国王アレックス様の血を引いた子孫だと言うんだ」
困ったようなエリックの言葉に、リディアナも同じく困り果てた。エリックはアレックスの血を引いている。しかしエリックとアランとの間に繋がりはない。ルージュが言った言葉から察するに遠縁の血、というわけでもないのだろう。アランの血を継がないエリックがアレックスの直系の血を引いている、どれだけ考えたところでその矛盾の出口は見つかりそうになくて。
「……ひとまずそれは置いておくとして、聞きたいことがあるの」
「何、かな」
一頻り考えたところで答えは出ず、リディアナは一旦その問題の解答を置いておくことにした。気になる問題ではあるし、それと同時に答えを見つけなければいけない問題でもあるだろう。答えが見つからなければ、いずれは国をも巻き込む騒動になる恐れがある問題だ。しかしそれでも、今のリディアナには他にエリックに聞きたいことがあった。
「貴方があの時……死のうと、したのは」
「……うん」
不安げなリディアナの表情で、一度は緩んだ部屋の空気は再び張りつめていく。言葉に詰まりかけて、けれどリディアナは何とか声を絞り出した。不安に揺らぐリディアナに、傍に控える少年がちらりと視線を向ける。その案じるかのような紫に背中を押される形で、リディアナは息を吐いた。震えそうになる指を懸命に握り締める。
あの瞬間を思い出す度に苦痛や恐怖はぶり返して。それでもリディアナは確証を得るために、エリックを真っ直ぐに見つめた。エリックが今まで性格の悪い王子を演じていたのは、呪術に手を染めたのは、国中の貴族が集まる中盛大に死のうとしたその目的は。何かを察してか伏せられた緑の瞳のその裏側を探るように、リディアナは問いかけた。
「……カトリーヌ王妃様のため?」
問いかけとともに、リディアナの頭の中であの時の記憶が鮮明に蘇る。聖酒交換の儀式の少し前、横断幕の裏でリディアナはエリックと会話を交わした。母を置いてパーティーに参加したリディアナを責めるエリックに、リディアナはこう言い返したのだ。母親を不幸にする形に成長したのは、エリックも同じだと。皮肉めいた探り合いをしていたその時のエリックは、その言葉に確かに動揺した。
そして、結局エリックは変わっていなかったのだ。彼は性格の悪い王子を演じていただけで、その内面は昔と変わらず心優しいまま。それでは彼は何のために性格の悪い王子を演じたのか。十年間彼が被っていた仮面は、誰のためのものだったのか。自分が王の子ではないと、そう言えばよかっただけのことをエリックは何故拒んだのか。
父親であるはずのアランとの間に血の繋がりはなかったと、エリックはそう言った。しかしエリックは、母親であり王妃であるカトリーヌとの間の糸に対しては言及していなくて。つまるところ、それが意味するのは。
「……もっと、上手く出来たらよかった」
「エリック……」
リディアナの問いかけにエリックは黙り込む。けれど重い沈黙の後、溜息と共にエリックは言葉を返した。その言葉の意味するところとは、とどのつまり肯定で。自嘲するかのような笑みがエリックの顔に浮かぶ。薄い唇を血が滲みそうな程に強く噛み締めて、エリックは低く告げた。赤が滲んだ唇から、そうして重い雨粒のような言葉は零れていく。
「馬鹿みたいだろう。母上を守ろうとして、でも傷つけて」
「……そんなこと、」
「これなら最初から全部話した方が良かったんじゃないかって、そう思った。でも、止まれなかった」
零れていくその声は決して大きいものでも激しいものでもないのに、リディアナにはそれがエリックの慟哭のようにも思えた。リディアナの否定の声も首を振る姿も、今のエリックの視界には映らないようで。堰を切ったように瞳から涙を零すエリックを、リディアナは眉を下げて見つめていた。その緑は確かに王家の物のように見えるのに、それでもエリックは国王であるアランの血を引いてはいないのだ。
エリックとアランとの間に血の繋がりがないのなら、それはつまるところカトリーヌが不貞を行ったことを意味する。王妃であるカトリーヌが王ではない男と子を作りエリックを王太子として騙ったのなら、それは大罪になる。そんなのは生まれが貴族であるのなら、子供でもわかることだ。王子として育てられたエリックならば、それは余計に重荷としてその肩にのしかかった事だろう。自分が告げた言葉のせいで愛する母の首が飛ぶかもしれないという、その事実は。
「……不貞だとそう判断されたら、母上がどうなるかがわからなかったんだ」
涙と共に押し殺すような呟きが零れていく。だからこそエリックは、黙することを選んだ。自分が悪役になって評判を落とし、いずれ廃嫡される道を選んだのだ。そうすれば罪を犯したかもしれない母の首が落とされることはないし、偽りの王子が王位を継いだことで起きる大妖精の怒りも起こらないと思ったから。父と母が自分を諦めて新たな子供を作り、そうして生まれた本物の王子に王位を継いでもらう。その後の自分なんてどうでもいい、国と家族を守れるのならエリックはそれで良かった。
優秀だと、そう語られていた王子は国と母を守るためにその身を落とした。それはきっと彼が、王としては相応しくないくらい優しかったから。アナスタシアを愛していたリディアナと同じように、母であるカトリーヌを心から愛していたから。緑の瞳から零れた涙からは、痛いほどにその感情が伝わってきて。
「でも、その優柔不断が君までも巻き込むことになった」
「……それは」
「もう直、僕は王位を継ぐ手筈になっていてね。それは避けなければいけないと、僕は最終手段に出た」
けれどどれだけ身を落としたところで自分が廃嫡されることはなく。それに焦ったエリックは最終手段、つまり公然の場での死を選んだのだろう。呪術に手を染めて聖酒を飲めば、死ねると彼は知っていた。そうしてそれが愚かな王子の最期の結末として、貴族達の目に映るとそう考えたのだ。死がどれだけ恐ろしくても、迫る期限に焦ったエリックはそれ以外の道を見い出せなかった。エリックには一緒に問題に立ち向かってくれるような、そんな味方が一人も居なかったのだ。だから彼は全て一人で背負って死のうとして、そして。
「……後はもう、知っての通りだよ」
しかし結局、エリックが死ぬことはなかった。リディアナが身を挺してでも、エリックを守ろうとしたから。そうして自分の命を懸けてでも友人を守ろうとした一人の少女を、魔法使いと妖精が救ったから。だからこそ二人は今ここに揃って座って、こうして話が出来ている。運命とは数奇なものだと、エリックは自分を泣きそうな表情で見つめるかつての親友を見つめた。
なにか一つでも違えれば、自分は抱え込んだこの苦悩を誰にも話さずに終わっていたのかもしれない。それで良かったはずなのに、話し終えてしまえばこの形で終わったことが酷く望ましいもののように思えて。そこで初めてエリックは、自分がずっと誰かにこの荷物を一緒に背負ってほしかったのだと気づいた。一人で抱えるには重く苦しすぎたこの話を、自分はずっと誰かに話したかったのだ。
「……聞いてくれて、ありがとう」
「……いいえ。話してくれて、ありがとう」
そう考えて胸を満たした久しぶりの安堵に、エリックは表情を綻ばせる。その表情にリディアナが泣きそうにしながらも微笑んだのを見れば、その心は更に満たされていって。十年経っても、変わらないものがある。いつかの夕日影の離別すらも超えて今日があるのだと思えば、それは愛おしさとなって二人の胸を柔らかく満たした。
「……それで? 全部?」
「え……? う、うん」
しかしそんな感傷は端的な冷たいその言葉であっさりと切り裂かれる。瞳を眇めて自分を見つめるレンに、エリックは戸惑いながらも頷いた。頷いたエリックに、レンは短く鼻を鳴らす。その表情はどこか不機嫌そうで、エリックは自分は彼に何かしてしまったのだろうかと困惑した。リディアナも、ルージュも、エリックと同じようにレンの態度に少し戸惑っていて。
「だってよ。いい加減盗み聞きはやめろ」
だが、その言葉で三人の表情は凍りつく。レンがくるりと指を回せば、誰も触れていない部屋の扉はあっさりと開いていって。そこに立っていた人物に、エリックは顔を青褪めさせた。この話を一番聞かれたくなかった人物が、そこに立っている。眉を寄せながらもその人物はエリックだけを真っ直ぐ見つめて、そうしてゆっくりと近づいてきた。緑の瞳が、ベッドに座り顔を青褪めさせるエリックを見下ろす。
「……国王、陛下」
そう、部屋に入ってきたのはアランであったのだ。震える声で自分を呼んだエリックに、アランは眉をぴくりと動かすと溜息を吐いた。それが失望の溜息のように思えて、エリックは拳を握り締める。何故気づかなかったのか、自分の血のことを話すのなら警戒を引き締めなければいけなかったのに。もう遅い後悔が、エリックの頭の中を満たしていった。
必死に隠し続けてきた十年が無駄になる感覚に、エリックは視線を落とす。自分はどうなったところで構わない。しかしカトリーヌはどうなってしまうのか。例え一度間違いを犯したのだとしても、カトリーヌは王妃としても母としても素晴らしい女性だ。自分の首を差し出してでも、せめて母だけは守らなければ。そう決意したエリックは、しかし視線を上げたところで呆然とした。何故ならば顔を上げた先に見えたアランの表情は、複雑であってこそ怒りが滲んだものではなかったから。
「……そういう、ことであったか」
小さな声が緊張感が滲む部屋に溶けて、消えていく。王であるアランが零したその声は、怒りというよりも安堵に近いそんな声であった。