第三十一話
がちゃりとドアノブが回り開いた扉の先、そこに立っていたのは走ってきたせいか前髪を乱すエリックだった。荒い呼吸を落ち着けようと酸素を取り入れながら、エリックは部屋を見回す。やがてその視線は、ベッドの上で呆然としているリディアナの方へと向けられた。
瞬間エリックから向けられたその表情を、リディアナは何と表現すればいいのかわからなくて。ぐしゃりと顔を泣きそうに歪めて、唇を噛み締めて、エリックはそのまま近づいてきた。そうして伸ばされた腕が、言葉が出てこずに硬直していたリディアナを強く強く抱きしめる。
「……生きてて、良かった」
「……エリッ、ク」
「っ本当、に……!」
それは、噛み締めるような声だった。悔恨と苦渋に満ち溢れていながらも、その先に強い安堵を抱くような。あの頃とはまるで違う、自分よりも太い腕がリディアナを抱きしめている。けれどエリックに抱きしめられたリディアナがその時覚えたのは、異性に抱きしめられたことに対する胸の高鳴りではなかった。今リディアナの胸を満たすのは懐かしさと、あの頃の彼が帰ってきてくれたのだという安堵で。
震えながら自分を抱きしめるエリックのその背中に、リディアナはそっと手を伸ばした。嗚咽にも似た声を零す幼馴染であり親友を、宥めるかのように。懐かしい感覚だとリディアナは瞳を伏せる。嫌なことがあった時はこうしてお互い慰めあったものだ。その機会がもう一度巡ってくるだなんて、思ってもみなかったけれど。
「……もう、馬鹿なことはやめてね」
「っ!」
「せめて、何かあったなら話して欲しいの。あの時みたいに、勝手に自分の考えだけ話して逃げないで」
しかしそうして慰めながらも、文句を告げることをリディアナは忘れなかった。ミレーニアにエリックが呪術を使っていると言われた時、そうしてエリックがこの後聖酒を飲むということの気づいた時、リディアナは本当に驚いたのだ。それこそ、その瞬間に倒れてもおかしくはなかったほどに。
エリックが死んでしまうという焦燥と、あの時エリックを止められなかった自分への無力感。拒絶されることを恐れて踏み込まなかった弱い自分への苛立ちも。その時胸を襲った後悔たちを、リディアナは一生忘れられない。だからこそせめて、それを苦情という形で伝えておきたかった。二度とこんなことが、起きないために。
リディアナの言葉に、エリックは何かを考え込むかのように黙り込んだ。それは本当に話してもいいのかと、そう考えるような躊躇のように思えて。だからこそリディアナは何も言わずに、ただエリックの言葉を待った。そうして少しの間の後、リディアナを抱きしめている声の主は震えた声を落とす。それは、縋るかのような声音であった。
「……ごめん、今更だけど話してもいいかな」
やはり十年前、エリックの心を変えるだけの何かはあったのだ。罪悪感に満ちたその声に、リディアナは瞳を伏せる。十年前の決別も、夕日影の拒絶も、全て何か大きな理由があっての事だった。そう思うと気づけなかった自分に対する苛立ちがまた芽生えかけて、しかしリディアナはそれを蹴飛ばすかのようにその声に頷く。今はやっと手を伸ばしてくれた彼を受け入れる方が先決だと、そう考えて。
「ええ、いくらでも。今更なんて思わないから」
そう、今更後悔したところでどうにもならない。当時のリディアナは自分のことで手一杯で、エリックに手を伸ばすことが出来なかった。それは純然たる事実である。きっとエリックの方から伸ばされたところで、それを受け入れることも出来なかっただろう。そうするだけの余裕が、あの頃のリディアナにはなかったから。
だけど十年を経て今漸く機会が巡ってきたのなら、リディアナは今度こそエリックの話を聞きたい。彼が十年抱え込んだそれが何なのか、その話を聞きたいのだ。好奇心でもなく、巻き込まれた腹いせでもなく、かつての親友が抱えているその荷物を少しでも軽くしたいが故に。
「……おい、いつまでそうしてる」
「あ……申し訳、無い」
しかしそこで出鼻は挫かれた。突然自分を抱きしめている腕が消えたことに伏せていた目を開けば、そこには不機嫌そうなレンに腕を引かれているエリックが居て。困惑しながらも謝るエリックにレンは鼻を鳴らすと、リディアナから引き剥がすかのようにベッドの端までエリックを引きずっていく。そうして少年は、リディアナとエリックの間に割り込むように座った。不機嫌そうなその姿に、引き剥がされた二人の目が丸くなる。
「あー、レンレン焼きもちでしょ……っ! いったい!? 何するの!?」
「余計なこと言うからだろ」
そんなレンの姿をいつのまにか戻ってきていたルージュがからかおうとするも、すぐさまレンにその小さな額を弾かれて。衝撃にか軽く吹っ飛んだ後額を抑えて悶絶するルージュに、不機嫌そうに鼻を鳴らすレン。そんな二人の人外の戯れに、エリックとリディアナはそれぞれ苦笑を浮かべた。
「……話してもいいかな」
「ええ、どうぞ」
そうして結局今から深刻な話をする、という雰囲気は消えてしまったものの。しかしだからこそか、エリックの表情は気負いすぎない自然なものとなっていて。エリックが柔らかい色をその緑の瞳に浮かべていることに安堵しながら、リディアナはそっとその声を促した。
それと同時にぶつぶつとレンへの文句を告げていたルージュは、ぴたりとその口を止める。ふわりと宙を舞った小さな少女はその羽を羽ばたかせると、エリックの肩へと腰を掛けた。気遣うような視線を向けてくるルージュにエリックは柔らかく微笑んで、そうして瞳を閉じる。
「っ!」
「……つまり、こういうことなんだけど」
一瞬の間の後、かくして瞳は再び開かれて。穏やかな光を宿した緑の瞳が、リディアナを真っ直ぐに見つめた。その瞳が放つ光にリディアナは思わず息を呑む。苦笑を浮かべながら告げたエリックのその声が、妙に耳に響いて聞こえた。
「……魔、眼?」
「そう、だね」
その光をリディアナは知っている。ミレーニアやクラウディオがその瞳に宿すような、人外に近い魔力の光。しかし二人のものよりも、エリックのそれは光が弱い気がして。恐る恐ると零したリディアナの言葉に、エリックは小さく頷く。エリックが魔眼を宿しているなんて話を聞いたことはなくて、けれど本人が言うのなら間違いではないのだろう。現にその瞳は淡くも確かな輝きを放っているのだから。
「……十年前の魔力測定の儀式、そこから全ては始まったんだ」
驚くリディアナを置いて、エリックは語り始める。エリックの変異が見られた十年前、その時に何があったのかを。その表情は苦悩と躊躇いを宿していて、しかし一人の青年はもう逃げずに全てを語ることを決意していた。
予想外の事実にか瞳を驚きで見開きながらも、真っ直ぐに自分を見つめているリディアナ。誰が諦めても命を懸けてでも、最後までエリックを諦めてくれなかった彼女。エリック本人でさえも諦めた命に、手を伸ばしてくれた大切な親友。そんな彼女に全てを報いることは出来ないのだろうけれど、せめて何があったのかを話すのは最低限の責務だと思ったから。そうしてエリックは深い呼吸の後、冷や汗の滲む手を握りしめる。気遣うような赤い瞳に、見守られながら。
「……あの後、儀式が終わった瞬間僕の目は様々な糸を映すようになった」
「糸……?」
「そう、儀式の後に魔眼が発現したらしくて。最初は、それが何を意味している物なのかわからなかったよ。目が悪くなったのかとも思った」
エリックの語りだした話に、リディアナは頷きながら瞳を細めた。恐らく己で大きな魔力を自覚したことにより、エリックの魔眼は目覚めたのだろう。エリックの瞳は何かしらの糸を宿すようになり、それが後のエリックの変異に繋がった。誰からも嫌われるような、性格の悪い王子へと彼は変貌したのだ。
しかしそれだけの情報量では、何故エリックがああなったのかがわからない。そう考えたリディアナは、顔を青褪めさせながら懸命に話そうとする幼馴染を見つめた。降り積もった十年を吐き出すように、エリックはゆっくりと言葉を吐露していく。その表情を案じつつも、リディアナは口を出さない。今リディアナが聞かなければ、エリックはこの先誰にも抱え込んだ荷物を話せない気がしたから。
「でも段々と、その糸に共通点があることに気づいた」
「……それは?」
魔眼には必ず何かしらの力がある。ミレーニアが呪術を使っている人間を見抜けるように、クラウディオが人の顔を見えない代償としてその心を覗けるように。そうして当然、エリックの魔眼にも特別な力があった。唾を飲み込んで問いかけたリディアナに、エリックはその顔を青褪めさせながらも笑みを浮かべる。一瞬の躊躇をその緑の瞳に宿して、しかし口だけは躊躇うこと無く。
「……糸は、親子や兄弟といった近い血同士の二人を繋ぐものだったんだ」
一瞬リディアナは、エリックが告げたその言葉の意味がわからなかった。だからこそ呆気に取られて、そうして瞳を不可解そうに細める。それはそんなにも深刻そうに告げることなのか、リディアナにはエリックの抱えている感情がわからなかった。もっと重大な何か、例えば国を揺らがすような何かが見えたからこそエリックは変わったのではないか。そんな疑問が心に募っていった。
例えば現ティニアの王であるアランは、未来を見通す魔眼を持つという噂がある。だからこそリディアナはてっきりそういった類の魔眼をエリックが発現させて、そうして見えた最悪な未来を避けるために悪い王子を演じていたのではないかと思ったのだ。しかし血縁者同士の間に繋がっている糸が見えるという魔眼では、エリックが変わったその理由が理解できなくて。
「……血縁者の間に伸びているもの、ということ?」
「そうだね。僕の情報と一致する限りはその人を起点とした両親、兄弟、実の子供と言った限りなく近い血を持つ者だけに伸びているものらしい」
思わず聞き返したリディアナに、エリックは静かに頷く。どうやらエリックの持つ魔眼は、リディアナが理解した意味そのままで合っているらしい。意味を齟齬していなかったというのなら、一体どうして。リディアナのその疑問は、言葉になってその口から零れた。
「……でも、それでどうして」
何故、エリックは変わってしまったのか。いいや、変わったように演じていたのか。疑問はとめどなく膨らんで止まることを知らず、リディアナは無意識の内に眉を寄せた。その魔眼がエリックの何を変えたのか、どれだけ考えたところでその答えは出ない。そんなリディアナにエリックは青褪めた顔色のまま優しく微笑みかけると、視線を落とした。覚悟を決めるかのように息を吐いたその口から、衝撃の事実は落とされる。
「……その糸が僕と父上、いいやアラン陛下に繋がっていなかったんだ」
「……!?」
潜めたかのような声音で落とされたその言葉は、まさしく爆弾のような事実で。ひゅ、と声も紡げずに息を呑んだリディアナはエリックを凝視する。嘘だよと、冗談だよと、そんな言葉が彼の口から続けられるのを期待して。しかしどれだけ待っても、エリックがそれ以上の言葉を紡ぐことはなかった。重苦しい沈黙が室内へと落ちていく。
エリックとアランの間に糸の繋がりがない。それはつまり、エリックとアランの間に血の繋がりがないことを意味する。この国の唯一の王太子である彼が、王の子供ではない。それは衝撃的過ぎる事実で、そうして問題がある事実であった。この国の言い伝えを思い出して、リディアナは瞳を伏せる。他の国でも問題がある事実なのだろうが、大妖精の守護を受けているティニアというこの国ではそれは尚更で。
「『貴方の血と意思を引き継ぐ王様なら』」
「……エリック」
「君なら、その意味を知ってるだろう?」
リディアナが頭に描いていた言い伝えを、エリックは言葉にする。そう、その言い伝えは決してただの伝説なんかではない。遥か昔に大妖精様と初代国王が誓ったそれがお伽話でないことを、教育を受けてきた貴族なら皆知っている。大妖精様がこの国を守護してくれているのは事実で、だからこそ神殿という大きな組織を立ててまで皆大妖精様を崇めている。
大妖精様の守護があるからこそティニアは大災害に見舞われることもなければ、外の侵略に怯えることもなかった。豊かな大地だとはわかっていても、大妖精という人外の加護がある国に手を出すような愚か者なんてどの国にも居ないから。
そうして名実ともに大妖精様に守られていたティニア。しかし遥か昔の約束が、反故にされたのなら? 血の流れていない王子が玉座に着くことで、ティニアが変わってしまったのなら?
「……僕に、その血は流れていなかった」
重苦しく噛み締めるようなそんな声を、エリックは零す。リディアナはその言葉に何を言うことも出来なくて。何故ならばその声音は、十年間一人で抱え続けた積年をありありと表しているようにも思えから。