第三話
朝にそんなちょっとしたトラブルが起きながらも、今日も一日は無事に過ぎていった。いや無事に、というのは違うだろうか。リディアナは暮れた日に背を向けながら、一人考え込み神殿の入口へと戻っていく。
この一週間見送ってくれていたレンは、今日はその隣に居ない。いや、正確には見送ることが出来なかった、と言うのが正しいのかもしれないが。
レンが居ない理由、それはメアリにある。朝から不幸に見舞われていたメアリだったが、今日はそんな状態が一日続いたのだ。勉強中は懸命に書き取りを行う中誤って羽ペンを指に突き刺し、マナーの確認を始めたら勢い余って椅子ごと後ろにひっくり返り、昼食には何故か一人だけ虫の死骸が混入していたりもした。
勿論今語ったそれらだけではない、もっと多くの不幸が今日はメアリに訪れたのだ。特に多かったのは何かに躓いて転んだりする類のものだろうか。おかげで今日一日でリディアナは、咄嗟に人を支えるのが上手くなった気がする。
けれどそんな不幸の中で一番ゾッとしたのは、祈りの時間を終えて三人で部屋へと戻ろうとした際に彼女の頭の上から植木鉢が降ってきた時だ。注意してメアリを見ていたからかリディアナは咄嗟にその腕を引くことが出来たが、あれが当たっていたらと思うと想像したくもない。良くて大怪我、悪ければその笑顔が一生見られなくなるところだったのだ。
リディアナは眉を寄せて考える。そんなメアリの明らかにおかしい状態に気づいたのは、レンもまた同じだった。当の本人であるメアリは今日の「失敗」が多いことを気にしてはいたようだが、その原因は自分にあると考えていたようだから。
だからリディアナはいつの間にか日常になっていたレンの見送りを断り、メアリの傍に居てくれるよう頼んだ。本人が危険に気づいていなければ、植木鉢の時のように大怪我をする可能性も否めないからだ。そしてレンもまた、リディアナの提案にその眉を顰めながらも頷いた。
「……少し寂しい気もするけれど」
一人の帰り道は久しぶりだと、そこでリディアナは小さく苦笑する。大概は見送りに来てくれるレンと談笑を交わしたり、復習が不必要な学習の時はメアリも含め三人でこの道を歩いていたから。けれど明らかな異常事態が起きている最中にメアリを一人にするわけにも行かないし、メアリに不必要に外を歩かせるわけにも行かない。本人が異常を自覚していないのなら尚更だ。
リディアナはそこで浮かべていた苦笑を消して再び考える。異常なのだ。メアリは確かに一般的に考えればそそっかしい方である。けれどそれだけであんなに不幸に見舞われるだろうか。起きたことの一部にはメアリのそそっかしさが関係ないことだってあったのだ。きっと何かが起きている。
それに、とそこでリディアナは一人の顔を思い浮かべた。植木鉢の件の時、リディアナはレンと共に先に礼拝堂の外に出ていた。そうして最後にメアリが出てきたタイミングで、植木鉢が降ってきたのだ。
慌ててメアリの手を引いた瞬間、リディアナの視界にはとある人物が映った。その人物は、妙に強張った顔でこっちを見ていたのだ。その、緑の瞳を持つ赤毛の少女は。
「あの、」
「……あら、またお会いしましたね」
そこで背後から掛けられた声にリディアナは振り返る。そこに立っていたのは今丁度思い浮かべていた人物だった。夕日に燃える赤い髪をおさげにした気の強そうな少女は、神殿に来た初日に出会ったメアリと話していた少女である。少女はその緑の瞳に敵対心を顕にしてこちらをじっと見据えていた。
リディアナはそんな少女に柔らかく微笑んだ。おっとりと、緩慢に。その笑顔に少女がどこか戸惑ったように瞳を揺らすのを、浮かべた表情の柔らかさとは裏腹に冷静に観察する。水面下の戦いはもう始まっていた。
「そういえば、前回お名前を聞きそびれていました。私の名前は覚えていらっしゃいますか?」
「……ええ、知っています。貴方は有名なので、フォンテット様」
「あら、聖女候補の方に覚えていただけるなんて光栄です。ですが私は浅学で……お名前をお聞きしても?」
少女はそこで警戒するように黙り込んだ。こちらを探ろうとするその瞳は猜疑心と敵対心に満ちている。確かにリディアナは彼女のライバルとなるメアリを育てる教育係だが、そのような目を向けられるほどリディアナと彼女の関わりは色濃くない。強いて言うなら初日に彼女側が少し気まずい思いをしたくらいだろう。
けれど彼女の方にはあるのかもしれない。こちらが預かり知らない、リディアナにその目を向けるだけの理由が。
「……ミランダ、です」
「はい、ではミランダ様。私に何の御用でしょうか?」
ミランダ、赤毛の少女は躊躇うような間を置いてそう名乗った。そこで改めてリディアナは少女を観察する。小麦色の肌にそばかすが散った、健康的な印象を受ける容姿だ。顔立ちはメアリのように可愛らしい雰囲気ではなく、どちらかと言えば美人という表現の方が近いだろう。気の強い印象を受けるのはその雰囲気のせいもあるのかもしれない
リディアナは完璧に浮かべた笑みを崩さずに、ミランダを見つめた。メアリやレン、二人と話す時のような口調ではなく、貴族を相手にするような丁寧な言葉遣いでミランダに尋ねる。
聖女候補に選ばれるのは平民であるが、聖女になればそれは特殊な身分であるとされ、一貴族としての身分に近いものとなる。その候補者なのだから、貴族を相手にするような対応を取るのは当然なことだ。メアリの場合は初対面から萎縮していたため、少しでも緊張を緩められたらとこちらも口調を緩めたのである。そうしたらそれが今では妙に馴染んでしまったというわけだ。そういう意味では二人は、友人の距離感に近いのかもしれない。
「貴方は、あの子の教育係を辞めないんですか?」
「……辞める? 何故でしょうか?」
それは、静かな声だった。揺らいでいた緑の瞳を定めて、ミランダはリディアナに問いかけた。しかしその質問に思わずリディアナは首を傾げる。突拍子のない質問だ。その質問の意図が掴めない程には。
けれどリディアナの言葉にミランダは一気に顔を強張らせる。無意識の内かその唇を噛み締めた少女は、その表情のままリディアナを睨みつけた。もう後には戻れないと、そう思っているような必死な表情にリディアナは目を見開く。その表情には、覚えがあった。
「……それなら、貴方も敵です」
いや貴方が、貴方の方が、そんな風に突然ぶつぶつと一人呟き出したミランダにリディアナは思わず後ずさる。目に光を浮かべずにひたすら呟くミランダの姿からは、不気味という一言では言い表せないような狂気を感じた。浮かべているその表情も、先程よりどこか薄くなったようにも感じる。
けれど恐慌状態にも近く見える年若い少女を、リディアナはそのまま放っておく事ができなかった。感じたことのない恐怖を押し殺して、リディアナはミランダに近づくとその手を握る。瞬間はっとしたように俯いていた顔を上げたミランダは、リディアナを困惑したように見つめた。その瞳には先程はなかった光が宿っている。
「……確かに貴方が聖女になりたいのなら、私はその敵に近い存在なのかもしれませんね」
「…………」
落ち着いたように見えるミランダにリディアナは内心安堵した。その瞳はリディアナの言葉にゆらゆらと揺らいでいたが、もう狂気の色は浮かんでいない。ただ少女は戸惑うように、リディアナとリディアナに握られた手を見つめる。迷子になったかのような、そんな表情で。
「でも私としては、貴方を敵ではなく競争相手の一人のように感じています。メアリと共に己を高め合い、この国が誇る聖女になるための一人として」
「っ……!」
「あ、」
しかしリディアナが穏やかに告げたその言葉に、ミランダは目を見開くとその手を振り払って走り去ってしまった。置いていかれたリディアナは彼女の背中を見送りながら眉を下げる。けれど、直ぐにその表情を真剣なものへと戻した。
ミランダのあの様子は、メアリと同じで明らかにおかしい。きっと彼女も何かしらの形でメアリの異常事態に関わっているはずだ。同じ被害者なのか、それとも今危害を加えている加害者なのかはまだ判定がつかないが、リディアナの推測が正しいのならこの件は思っていたよりも大きな事件になりそうだ。
リディアナは思考を切り替える。今回の聖女候補はメアリを含めて三人。そうしてその教育係もリディアナを含めて三人。メアリの件で何人か去っていった人物は居るが、現状ではそうだ。聖女候補の名前は知らされていないが、自分以外の教育係の二人のことはリディアナも頭に入れていた。奇妙なことに自分を含めたその三人は、一人も夫人や婦人を含まない令嬢なのだ。
一人はクレア・ロビンソン侯爵令嬢。身分も近いことから何度か話したことがある令嬢だ。とは言え彼女は上昇志向の強い令嬢であり、何故かリディアナは敵視されているため友人と言えるような仲ではない。その気の強い振る舞いから敬遠されることも多いと、そんな噂を聞いたこともある。
とは言えロビンソン家は神殿と繋がりが強い家であり、彼女自身も優秀だと言われる女性だ。リディアナには難しい振る舞いで社交界を生き抜く彼女を、リディアナは内心尊敬している。
そしてもう一人はサラ・ギブソン伯爵令嬢。神殿と今最も関係が深いと言われるギブソン伯爵家の姉妹の片割れだ。サラは妹の方でありギブソン家の姉妹は二人合わせて、社交界では百合に喩えられるほどの美しさを持った令嬢たちであったはずだ。
話したことはないがその容貌の美しさはリディアナも知っている。妖しくも魅惑的な黒百合と喩えられるレラと、儚くどこか守りたくなるような美しさを持つ白百合のサラ。二人は姉妹仲が良いらしく、二人並ぶ姿を何度か見かけたことがあった。とは言え二人そうして並ぶ姿は近寄りがたく、話しかけたことはないのだが。
クレアか、サラか。今回の件にはその二人のどちらかが関わっているはずだとリディアナは考えた。メアリに起きた数々の不幸に、ミランダの異常な様子。時には人ができる限界を超えているように感じたそれらには、平民には知られていないはずの呪術か禁術が関わっている可能性が高いと判断したのだ。呪術や禁術を行使できるのは、様々な事情で貴族だけなのだから。
そこまで考えて、リディアナは自分の心臓が傷んだ気がした。自分の体を見下ろし、けれどゆっくりと首を振る。今はそんなことに気を取られている場合ではない。もし本当に呪術が禁術に二人が手を出したのなら、メアリに危険が及ぶ可能性は高い。リディアナは教育係だ、自分の聖女候補を守らなければ。
それに、邪魔をされたくはない。懸命に頑張ろうとするメアリの努力や、それが報われてきている現状。それらを悪意から邪魔するのをリディアナは許せなかった。相当入れ込んでしまってると、そう自覚して苦笑しつつ、リディアナはもう来ているであろう家の馬車に向かって再び歩き出す。立ち止まっている場合ではない。調べなければいけないことは、たくさんあるのだ。