第二十六話
クレアの声によって、会場は静まり返る。誰もが壇上のクレアと、そうして彼女が視線を向けるカール・ギブソンを息を呑んで見つめていて。そうして息も詰まるような緊迫感の中、自分へと集まった視線に動じずにカールは柔らかな笑みを浮かべた。最もその笑顔は、暗く澱んだ金の瞳のせいで不気味さを際立たせるようなものにしか見えなかったが。
「私に何か御用ですか? 悪魔のご令嬢様」
「……随分なご挨拶ですこと」
笑顔を浮かべたまま口を開いたカールの口調は丁寧なものではあったが、それと同時に正面からクレアを侮辱するものでもあった。眉を顰めるクレアを他所にカールは、到底今しがた侮辱の言葉を告げたとは思えないような穏やかな表情で笑うばかりで。いっそのこと狂気的にも見えるその笑みは、今の状況全てがまるで見えていないかのようにも見えた。
「まぁいいですわ……貴方ですわよね? この女性に軽い毒物だと偽って、そして聖酒に天使の眠りを盛るように晒したのは」
「ええ、そうですよ」
いいや、本当に状況が見えていないのかもしれない。カールは詰問するかのような口調で問いかけたクレアに、変わらぬ笑顔を浮かべたままあっさりと頷く。その首肯に自分の周りに居た人々が、一斉に巻き込まれたくないと言わんばかりに遠ざかって行ったのを気にもとめずに。彼は温厚に笑いながら、再び金の瞳を濁らせた。笑みはそのままに憎悪にも近い色を瞳に浮かべ、そうしてカールはクレアを一心に見つめている。
そんなカールの不気味な視線を受けたクレアは、その不快さにぴくりと眉を動した。困惑するような視線を向けられることは多々あっても、こんな絡みつくような粘着質な憎悪を向けられるのは初めてである。背筋を冷たい手でなぞられるような嫌悪感に瞳を細めたクレアは、しかし次の瞬間に視界を遮った白い背中に細めた瞳を見開くこととなる。
「僕の教育係様に、変な目向けないでよ」
「……エレン」
カールの視線からクレアを守るように割り込んだエレンは、低い声を零しながら牽制するようにカールを睨みつけた。そこには先程儀式で見せたような可憐な乙女の姿はない。今のエレンは本人が持つ中性的な雰囲気も相まって、クレアを守る騎士のようにも見えた。
エレンは心底不快そうに壇上の下の金の瞳を見据える。浮かべた笑顔とはちぐはぐな憎悪をクレアへと差し向ける、不気味な存在へと。その形相は到底聖女とは呼べないものではあったが、それを取り繕う余裕すらも今のエレンにはなかった。背後で驚いたように目を瞠っているクレアを守らなければ、その一心でカールを睨みつけていたエレン。しかしふと背後から手を引かれたことで、エレンは眉を下げて振り返る。
「クレア様……」
「……あたくしは大丈夫ですわ。黙って見てらっしゃい」
「……でも」
振り返った先のクレアは、緩やかに首を振っていた。そんな守りは必要ないのだと、そう言わんばかりに。確かにカールの視線は少々不気味ではあるが、そんなのに怖気づいてるようでは永遠にあの日の背中を越えられるわけもない。まだ心配そうに言い募ろうとしたエレンの唇に人差し指を当てて、そうしてクレアは不敵に微笑む。いつのまにか随分と自分を慕うようになってくれた己の聖女候補を、心から安心させるために。
「あたくしは、貴方の教育係でしてよ」
「!……わかった」
形にした言葉はただそれだけ。けれどきっとそれだけで、エレンには十分だったのだろう。緑の瞳を見開いたエレンは、しかし仕方ないと言わんばかりにその瞳を細めるとクレアに前を譲る。そうして自分の後ろへと下がった聖女候補を見届けて、クレアは再び正面からカールに相対した。変わらず澱みを煮込んだかのような、憎悪に満ちた金の瞳と。
到底美しいとは言えない色だった。既視感を感じると思えば、それはあの日糾弾された後のサラの瞳にも似ている。さすが親子だと、いっそのこと感心してしまえそうな程。とはいえあの日のサラの方が、まだまともな瞳ではあったが。サラの瞳とは違いカールの瞳は、その奥すらも見通せないほど暗く澱んで光を失ってしまっている。濁った金の瞳を見てクレアの頭に過ぎったのは、手遅れというそんな三文字であった。
「……何故聖酒に毒を?」
「間違ってるからですよ、悪魔のご令嬢」
そんな狂気的とも言える雰囲気を持つカールに、クレアは真っ直ぐに問いかける。心の中で滲む怯えを、決して表面には出さないように努めながらも。どんな理由で毒を聖酒へと盛ったのか、端的な問いかけへの回答はすぐに返ってきて。とはいえその答えは、到底クレアには理解できないものであったが。カールの要領を得ない答えに、エレンのおかげで緩んでいたクレアの眉間に再び皺が刻まれる。
「神殿は私たちの天使を追放しました。それなのに貴方のような悪魔を飼ったまま」
しかしそんなクレアに気づいているのかいないのか、両手を広げた男はそうして悲哀の込められた声で歌うように告げる。状況が状況ならば同情心を誘える程悲しげな声は、しかし今の状況ではおぞましいものようにしか見えなくて。
その狂気的な姿は近くにいた貴族たちの恐怖心を煽ったらしい。まるで恐ろしい化け物から逃げるかのように、貴族たちはカールの傍を離れていく。やがてカールの周りにだけ、ぽっかりとした穴が空いた。クレアの立つ壇上からは一人孤独に立つカールの姿がよく見えて。ただそれを滑稽だと思えるほど、クレアの胸中は穏やかではなかった。
「……天使とは、サラ・ギブソンのことですの?」
神殿から追放された者、それもカールの関係者といえばサラのことだろうか。狂人めいた相手にどう探ればいいかわからずに告げたどこか懐かしくも感じるその名前は、しかし彼にとっての逆鱗であったらしい。澱みの中、狂気的な光がその金色の中で瞬く。その輝きにクレアが危険を感じ取ったところで、時は既に遅くて。
「貴様のような悪魔が天使の名前を語るな!!」
「っ、」
次の瞬間牙を剥くかのような剣幕で大声を上げたカールに、クレアは思わず肩を跳ねらせる。その肩を見てか、反射的にエレンがクレアを守るかのように前に躍り出た。けれど壇上の二人のそんな姿など目に入っていないのだろう。もはやサラと同じと呼ぶには烏滸がましい程に濁った金の瞳をぎらぎらと輝かせながら、カールは捲し立てるかのように怒涛に言葉を重ねた。
「ああ穢らわしい穢らわしい穢らわしい!! 下賎な黒の分際で天使の名を語るなど、なんて汚い!! そうしてそんな黒を受け入れる神殿もまた同じ! 白だけを愛し白だけを信望し白だけを尊ぶのが正しい世界だというのに……!」
別人かと思うほどの剣幕でカールは捲し立てる。捲し立て終えても彼は、ぶつぶつと黒は汚い、汚らわしいと繰り返すばかりで。そんなカールの姿をエレン越しに見つめたクレアは、まともな会話は出来ないらしいと認識を改めた。どうやらカールはクレアの想定よりも、頭が狂気的な思想に支配されているらしい。
しかしまともな会話が出来なくても、クレアにはわかることがあった。それは彼がシスターに毒を盛らせた動機だ。きっとカールの言葉を聞き取れた誰もが気づいたことだろう。彼はサラが追放されたことにより神殿を恨み、そうしてこのパーティーを失敗させようと目論んだのだ。黒髪のクレアが残っていたのもまた、彼の怒りの琴線に触れたのかもしれない。それは全くもって理不尽なものでしかなかったが。
「だから間違った神殿を、世界を正すのです! 犠牲にしてしまった彼女のことを考えると心苦しいですが……きっと神が愛する正しい世界の礎になれたことを、彼女は光栄に思うでしょう!」
導き出した正解の裏付けを語るかのように、カールは瞳を狂気的な色で満たしたまま叫ぶ。見るに耐えないと視線を逸らしたクレアの視界に、顔を顰めたアランが使用人に何か指示を出している姿が映った。恐らくもう間もなくすれば、衛兵が会場に駆けつけることだろう。ここまでのことをしでかしたのだ。カールは己が思想を叶えること無く、断頭台に立つことになるだろう。それはきっとコルトの足元で未だ態勢を崩したまま、青褪めているシスターも同じで。巻き込まれた彼女もまた、自分の意志で罪に手を染めたことに変わりは無いのだ。
間違った世界を正す。カールの語るそれが、クレアには酷くおぞましく身勝手なものように思えた。こんな男に育てられたのかと、かつては失望していたサラやレラに同情さえもしてしまう程。そうしてはきっと、そう思うクレアの方が多数派であったのだろう。辺りを軽く見渡せば誰もがおぞましいものを見るような、怪物を見るような目でカールを見つめている。
しかしそこで誰もが距離を取ったカールに一人、近づいていく影が居た。白いドレスを颯爽と揺らしながら、少女は誰もが離れていった男へと近づく。そうしてカールの前に立つと、少女はその華奢な手を思い切り振りかぶった。
「……っ勝手なこと、言わないで!」
ぱんと、高い音が静まり返った会場に響く。瞳に怒りに滾らせて、そうして荒い息を吐きながらカールを頬を打ったのはメアリであった。誰もが呆然と、平手を振るった少女を見つめる。当然呆然としたのは、突如として叩かれたカールもまた同じで。けれど口を止めて呆然と自分を見つめるカールのそんな表情を気にもとめずに、叫ぶようなその声と共にメアリはカールを強く睨みつけた。可憐な外見には到底似つかわしくない、強い意志を宿した青りんご色が澱んだ金の瞳に映り込む。
「リディアナ様は、貴方の道具じゃない!」
憤りを吐き出すかのように、メアリは叫ぶかのような怒鳴り声を上げる。カールが先程吐いた言葉は、リディアナへの憐憫の言葉であった。しかしそれと同時に、最悪とも呼べるようなリディアナへの侮辱でもあったのだ。リディアナは狂気的な思想を掲げた男の道具になったことを喜ぶような、そんな人物だと。そんなわけがないと会場の誰もが知っていても、カールの妄言であるとわかっていても、それでもメアリはその言葉を聞いて黙って見ているわけにはいかなかった。
きっとこれを聞いたらリディアナは悲しみながらも反論するだろう。過激なところがある自分の幼馴染なら、有無を言わさずにこの男を殴り飛ばしてしまうかもしれない。けれど二人は今ここに居ないから、こんな男にかまけている暇がないから。だからここに居るメアリが、そんなことはないと強く否定する。それが自分にできる精一杯だと、そう思ったからこそ。
「……それは、あの人だってそうだった」
そうして誰もが言葉を失った沈黙の中、二人を案じて泣きそうなりながらもメアリは止まることなく言葉を紡ぐ。メアリの瞼の裏にリディアナが描かれて、レンが描かれて、そうして最後にレラが描かれた。最後まで自分に笑みの一つだって見せなかった、メアリを酷く追い詰めた彼女の姿が。
しかし今ならわかる。彼女もまた、きっとこの男に歪められた被害者であったのだと。黒髪をまるで災厄のように嫌うこの男によって、レラはあんな形に歪められたのだろう。それでも散々メアリの柔らかい心に傷をつけた黒い髪の彼女のことを、心から許すことは出来ないけれど。
彼はレラのことは一切語らなかった。サラを天使と呼び、その名前を呼ぶことをしなかった。きっと彼にとっては血を分けた実の娘でさえ、信仰のための道具でしかないのだろう。悪魔の姿で生まれた娘は使い物にならない道具だからこそ手酷く扱い、天使の姿で生まれた娘は希少で大切な道具だからこそ真綿で包んで大切にして。そうしてその残酷過ぎる扱いが巡り巡って、結果的にメアリを傷つけることになった。だからこそ彼に一言告げるくらい、メアリは許されても良いはずだ。
「……貴方は、許されないことをしました」
「……何を、」
そう考えたメアリは息を吸って、吐いて。そうして静かに断じる。呆然と声を零したカールを、青りんごの瞳が真っ直ぐに見据えた。言葉を遮るかのような強い視線にカールは自然と口を閉じる。状況が理解できなくて、自分が何故この少女に怒鳴られているのかがわからなくて。それでもその視線にカールは気圧されたのだ。まだ年端も行かぬ、かつて自分の娘たちによって酷く追い詰められた少女に。
「貴方は、その罪を自分で償うことになります」
メアリは浮かんだ微笑みのまま、ただその一言だけを残して。そうして話は終わったと言わんばかりに、少女はくるりとカールに背を向ける。ぽっかりと空いた場所を自分だけの道のように歩き戻っていくその背中を、カールはただ呆然と見送ることしか出来なかった。それは衛兵が駆けつけて、王であるアランの声によって牢屋へと連れて行かれることになっても尚。狂気的な崇拝に支配された男は、一人の聖女候補から告げられた言葉をその頭の中で反芻し続けていた。
狂気を刺し殺すかのように頭の奥で煌めいたのは緑色か、それとも自分を恨めしく見つめた悪魔の金色だったか。カールにそれがわかることはなかった。