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聖女の教育係  作者: 楪 逢月
最終章
122/158

第十九話

騒がしい会場から離れ、リディアナはアーノルドに導かれるまま窓の向こうのバルコニーまで足を進めた。ここに来るまでアーノルドは無言で、何も話さないまま。そうしてリディアナもそんな父に合わせるように口を噤んで、ただ付いていった。閉じられていた大窓を開けその先の足場へと踏み出せば、リディアナの体は冷たい風に吹かれて僅かに震える。


「……寒いか」

「……いいえ、大丈夫です」


僅かなリディアナの身動ぎに気づいたのだろう。気遣わしげに声をかけてきたアーノルドに、しかしリディアナは首を振った。元より冷えた体であるのだから、この程度の冷たさは慣れてしまえば気にならない。それよりもと、リディアナは手すりの先に広がる外の世界へと目を向けた。晴天の夜空には星々が眩く散っている。しかしリディアナの瞳は、そんな美しい冬の夜空を眺めることはなく。

夜の空気の中何かを探すように彷徨ったその視線はいずれ、フォンテット家の屋敷の方へと向けられた。このパーティー会場に訪れてから様々な出来事が重なり過ぎて薄れてはいたが、こうして父と二人きりになったことでリディアナは思い出してしまったのだ。あの屋敷では今も母が苦しんでいるのだと。そう思うとただでさえ重い胸の内に、更に枷が重ねられるような気がして。


「……アナスタシアの容態は、かなり悪化したらしい」

「!」


そんなリディアナの心の曇りを見抜いたのか、あるいは視線から何かを察したのか。言い辛そうに眉を寄せた後、アーノルドは深刻そうな声で告げる。はっとして視線を向ければ、隣には同じように屋敷の方に視線を向けるアーノルドの姿があって。その表情からは父もまた、断腸の思いで屋敷を離れたのだろうということが伝わってきた。どれだけ母を愛していても、父の立場では私情を優先させることができない。仮にも公爵である彼が、重要な式典とも呼べるこのパーティーに参加しないわけにはいかないのだから。


「元よりこれだけ持った方が奇跡だと」

「……お母様は、本当にお強い方です」


星空の下零れていく父の言葉には、どこか哀愁が込められている気がして。恐らく主治医から言われたのであろうその言葉に瞳を伏せながらも、リディアナは小さく頷く。アナスタシアは元より体が弱く、その上流行病を拗らせた結果心臓を弱らせてしまった。そんな中九年も生き長らえたのは、ひとえにその心の強さが支えになったからなのだろう。リディアナは母のそんな強さを、心から尊敬している。

ただだからこそ、願う気持ちはとめどなく溢れていくのだ。まだ生きていてほしいと、死なないでほしいと。それが今も苦しんでいるであろう母に掛けるには、残酷過ぎる言葉だとはわかっていても。こんな感情はどうしようもないほどに、リディアナの我儘に過ぎない。


「……話とは、お母様のことだったのですか?」


しかしそんな感傷を振り切り、リディアナは静かな声で問いかけた。それと同時に自分の口から零れた白い吐息が、空に溶けていくのをぼんやりと見送りながらも。父がリディアナをここまで連れてきた理由は、母のことを伝えるためだったのだろうか。それならばあの急を要すると言わんばかりの態度も、一応は納得できる。リディアナが知る父とは、母の存在を中心として生きている人であったから。

とはいえ若干の疑問も残る。アナスタシアのことは社交界に広く知れ渡っている。確かにあまり人が多い場所で話すような内容ではないが、誰も居ないこのバルコニーにまで連れてくる必要はあったのか。この話ならば人気の少ない会場の端で事足りるような。今の一箇所に人が集中している状況ならば、尚更。


「いや……」


アーノルドの言動を奇妙に感じて眉を寄せ俯いたリディアナは、しかし躊躇うように降ってきたその言葉に顔を上げる。一瞬聞き間違いかと思ったその否定の言葉は、見上げた先の表情を見た瞬間に聞き間違いではないと判断できた。何故ならば苦汁を舐めたかのような表情を浮かべ、アーノルドがこちらを見下ろしているのだから。


「……お父様?」


初めて見る父の表情に、リディアナの口からは戸惑うような声が零れる。何故そんなにも父が苦しげな表情を浮かべているのか、リディアナにはそれがわからなくて。しかしリディアナが呼ぶ声にも、アーノルドは答えずに黙したまま。

重苦しい雰囲気がバルコニーに落ちる。言葉を発することが許されないようなそんな息苦しさに、リディアナは息が詰まりそうだった。呼吸にすらも影響を及ぼしてしまいそうなほど、この沈黙は重苦しい。空の上で輝く星々も月も相変わらず眩しいと言うのに、まるでこの空間の空にだけ曇りがかかっているように思えるほどだ。故にリディアナはそれ以上言葉を発すること無く、ただアーノルドの瞳を見てその声を待った。


見つめたアーノルドの瞳には複雑な色が浮かんでいる。同じ色だと言うのに到底リディアナでは浮かべられないような、重ねてきた歳月の差をまざまざと見せつけられるようなそんな色が。その色は巧妙に折り重なりながら、しかしその色を変えることなくリディアナを見つめていた。躊躇うようにその唇が一瞬開かれて、そうして閉じられて。しかし長く苦しい沈黙の末、リディアナに見つめられる中漸くアーノルドは口を開く。


「そのコインを、渡せ」

「え……」


そうしてようやっと零されたその言葉は、ひどく端的な物であった。その言葉の意味を理解出来ずに呆然と声を零したリディアナを、アーノルドは複雑な色を秘めた瞳を細めて見下ろす。その瞳を焦がす焦燥をもう隠すこと無くさらけ出す父の姿に、リディアナもまた困惑を隠すことが出来なくなって。


「リディアナ、渡しなさい」

「何を、言ってらっしゃるのですか……?」


しかしそんなリディアナを窘めるかのような声で、アーノルドは急かす。ますますその瞳が焦燥感に駆られるのを見つめながら、リディアナは戸惑うように首を振った。リディアナには父が何を言っているのか、それはわかって。けれど父が何を望んでいるのかがさっぱり分からなかったからだ。

コインとは、間違いなく今リディアナが持つ大妖精様が描かれたコインのことを指しているのだろう。だが何故アーノルドがそれを欲するのか。これはエリックの聖酒交換の儀式の相手役を示すために使われているコインだ。エリックをよく思っていないアーノルドが、これを欲しがる理由は無いはずである。それなのに何故今父は、このコインを欲しているのか。


「……リディアナ、頼む」

「……お父、様」


父はこのコインの意味を知らずに求めているのか。一瞬そんな思考を過ぎらせて、しかしリディアナは直ぐその考えに首を振る。アーノルドの知識は到底リディアナのような小娘が適うはずもないほど、手広く拡がっている。つまりこのコインの意味だって彼はわかっているはずだ。それに父がコインに特別興味があるという話を聞いたこともない。十中八九アーノルドはリディアナが持つコインの意味を知って、そして欲している。

しかしだからこそリディアナには余計訳ががわからなかった。父はエリックを嫌っているはずだ。つまり、エリックと友誼を結びたいなんて思っているはずがない。なのに何故そんなにも必死になって、顔を泣きそうに歪めながら、リディアナが持つコインを欲するのか。見たことも無い父の表情にリディアナはとうとう声音にも困惑を隠せなくなって。しかし袖の下で握ったコインを渡そうとは、到底思えなかった。


「……ごめんなさいお父様、これは渡せません」

「……何故」


握りしめたコインから勇気を貰うかのように、リディアナはたどたどしく言葉を紡ぐ。ゆっくりと首を振って、困ったように眉を下げて、しかしアーノルドの言葉に頷くことはなく。それに苦渋と言わんばかりの声がアーノルドから零れても、その決意を変えないまま。

このコインは渡せない。誰にだろうと、渡すことが出来ない。だってこのコインがなければリディアナはエリックを助けることが出来ないのだ。その先に待っているのが耐えうることすらも叶わない苦痛であっても、それでもリディアナはそれを受け止める。受け止めて、生きて、そうして今度こそエリックのその胸の内を聞きたいのだ。


「友達を、守りたいからです」

「……!」


リディアナは真っ直ぐにアーノルドを見つめた。何故と問われるのなら何度でも何人にでも、嘘偽りがないこの答えを返してみせよう。妄執のようだと蔑まれても、一方通行だと馬鹿にされても、しかしもう揺らぐこと無く。だってリディアナはどうあがいたところで結局、エリックを見捨てることが出来ないのだから。捨てることが出来ないことを、痛いほどに自分でわかっているから。


場に再び沈黙が落ちる。しかしそれは先程のように重苦しいわけではない、どこか呆気に取られた沈黙のようにも感じて。リディアナの言葉にアーノルドは息を呑んで、そうして再び黙り込んでしまった。リディアナも言葉を発することなく、黙り込む。リディアナにだってこれ以上言葉を重ねることは出来ない。これ以上告げることなんて、ない。

数秒だっただろうか、十数秒だっただろうか。訪れたその沈黙は、時間の感覚すらも曖昧にさせてしまうほどで。やがて小さな溜息が、アーノルドのその口から零れる。そうしてその瞬間父が見せた表情に、リディアナは思わず息を呑んだ。表情を無にしたアーノルドがリディアナを見下ろす。しかしリディアナが驚いたのはその無表情にではない。無表情の上から、アーノルドが一筋の涙を零していたからであった。


「……お前は知っていて、それでも飲むのか」

「え……?」


父が泣いている。そのことがあまりにも衝撃的すぎて、リディアナはアーノルドが涙と共に零したその言葉を上手く飲み込むことが出来なかった。混乱そのままといった表情を浮かべたリディアナを見て、アーノルドは溜息と共に涙を拭う。拭い終えればそこにはもう表情が抜け落ちたアーノルドが立っているだけだった。まるで先程の涙が幻覚や白昼夢だったと、そう思えるほどに。


「聖酒は毒だ。お前にとっては」

「っ……!」


しかしその衝撃を超える衝撃が、リディアナを襲う。全ての思考が無に帰されるようなその言葉に、リディアナは限界まで瞳を見開いた。そんな娘の姿を沈痛な面持ちで見つめるアーノルドは、けれど言葉を撤回することはなくて。ただリディアナの返答を待つように、そのまま口を閉ざしてしまう。

聖酒は毒になる、リディアナにとって。それはリディアナが禁術に手を染めたからで、しかしアーノルドはそれを知らないはずで。ぐるぐると巡る思考が、恐怖が、リディアナのその脳内を冷静じゃなくさせていく。はくはくと浅い呼吸を漏らして、言葉が上手く形にできなくて。しかしどうしてもこれだけは問いかけなければと、リディアナは懸命に言葉を吐き出した。


「……どう、して」


知っているのか。続く言葉は形にできないまま口の中で溶けていった。けれどリディアナが何を言いたかったのかくらいは、その表情から検討がついたのだろう。瞳を伏せたアーノルドはそっとリディアナから視線を逸した。その視線は再び、屋敷の方へと向けられる。息を吸って、吐いて。そんな躊躇うような呼吸の後、アーノルドはぽつりと言葉を零す。深い悔恨に満ちた、苦しげな声を。


「……ずっと、知っていた」

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