第十三話
「っ、駄目よリディ!」
二人の王族はリディアナの言葉に呆然として、息を呑んで。しかしそうして先に正気に戻ったのはミレーニアの方だった。ミレーニアは一度強く首を振ると、手袋に包まれたその手をそっとリディアナの手に被せる。相も変わらず生きているかどうかも疑問になるような、そんなリディアナの手の温度に眉を寄せつつも。
「噂で聞いたわよ。リディ、あいつに酷く当られてたんでしょ?」
「……まぁ、事実ではありますね」
手を握られたリディアナは、その温度に戸惑いつつもミレーニアの言葉に頷いた。それと同時に他国の人間であるミレーニアに伝わるほどに、自分とエリックの仲は悪く語られているのかと眉を寄せる。恐らく大概はエリックのことを悪く言うものばかりなのだろうと、そう考えながら。
とはいえ今は自国の噂事情を気にしていられるほど、悠長にはできない。眉を寄せつつもリディアナは静かにミレーニアの言葉を待った。一拍の後、必死な声音を募らせるようにしてミレーニアはリディアナの手を握る。
「そんな酷いことをしてきた奴のために、リディが死ぬ必要はないでしょ!?」
「……ミレーニア様、その、声が大きいです」
「っ、ごめん、なさい……」
ミレーニアはリディアナに言い聞かせるように、そうして怒鳴った。しかしその声の大きさに、リディアナは思わず眉を下げる。いくら人混みから離れたとは言え、あまり大きな声を出しては周りに気づかれるだろうと。現に何人かの貴族は、一度ちらりとこちらに視線を向けてきたわけであるし。
リディアナの静かな注意にミレーニアは目を見開くと、密やかな謝罪と共に口を閉じる。とはいえその瞳は、まだ言い足りないと告げるようにぎらぎらと輝いていて。しかし口を開いては昂る感情のあまり、大声になってしまうと悟ったのだろう。一度落ち着くためか、ミレーニアは深呼吸を始めた。
「……レニーに同意する訳では無いが、俺も貴方の提案を受け入れる気はない」
「クラウディオ殿下……」
そうして頭を冷静にするため黙り込んだ妹の言葉を引き継ぐようにして、そこでクラウディオが口を挟んでくる。性格の違いのせいか、クラウディオの口調はミレーニアより冷静で。しかし紡ぐ言葉はミレーニアと同じく、リディアナの案を否定するものだ。端正な顔立ちを辛そうに歪めて、クラウディオはゆっくりと首を振る。
「エリックには助かって欲しいが……そのために貴方の身を犠牲にすることは出来ない」
「……ですが、」
「まだ時間はある。他の方法を考えるべきだ」
その言葉はどこまでもリディアナの身を慮るような、真摯な言葉だった。辛そうなその表情からは、告げた決断が苦悩の果てだということが感じ取れて。きっとクラウディオだってリディアナと同じようにエリックを助けたい。しかしその為にリディアナを犠牲にすることを、クラウディオは許容できないのだろう。誠実で優しい人だと、リディアナは思考の片隅でそう思う。
ゆるゆると首を振るクラウディオの姿からは、リディアナの案を許可できないというその意思が痛いほどに伝わってきて。ミレーニアならともかくクラウディオならこの案に頷いてくれるだろうと、そう思っていたリディアナは困り果てた。何故ならば彼の許可がなければ、聖酒交換の相手として成り代わることが出来ないからだ。
「……っていうか、その案ならお兄様がわざと演じればいいじゃない。リディがわざわざ本当に毒杯になるアレを飲む必要はないでしょ」
どう納得させればと、そうして困り果てたリディアナ。しかしそんなリディアナを他所に二人の会話を聞いて冷静になったのか、そこでミレーニアが声を上げた。名案と言わんばかりに輝かせた青灰色をこちらへと向け、説得するように手を強く握ってくるミレーニア。しかしそんなミレーニアに言い辛そうに眉を下げつつも、リディアナは首を振った。
「それは別の問題を起こしかねません」
「……別の問題?」
「他国で開催されたパーティーでクラウディオ殿下の盃が毒杯だった場合、国家間での問題になりかねないでしょう」
ミレーニアのその案は決して悪くはない。わざわざリディアナが猛毒の盃となるワインを呷がずとも、誰か事情を知っているものにわざと毒杯を呷いだかのように演じてもらえるのならそれが一番だろう。しかしその相手としてクラウディオはあまりにも不釣り合いだ。
彼はリディアナたちに気さくに接してくれてはいるが、それでも他国からの要人という立場である。そんな彼がエリックに呼ばれたパーティーに出席して、そうして毒を盛られたら? 見るものから見れば、クラウディオに毒杯を飲んでもらうために呼んだのだとそう捉えられる可能性もある。例え偽りだったと後から告げたとしても、それはそれで別の問題を引き起こすことになるわけであるし。どっちにしたって今ミレーニアが告げた案は、最悪戦争を引き起こす事態になりかねない。
「っ、それは……!」
「とはいえ、この役目を他の誰かに押し付けるわけにはいきません。押し付けるにはあまりにも不憫な役目ですので」
リディアナの倫理的な言葉に、ミレーニアはそれ以上何も言えなくなったらしい。自分が変わるというのも不可能だと悟って、ミレーニアは唇をきつく噛み締める。ミレーニアだってクラウディオと、その立場は同じなのだから。
そうしてリディアナの言う通り、今から影響を受けずに演じてくれる人間を探すのも現実的ではないだろう。何故ならばその人物には損しかないのだ。エリックを助けるためとはいえ、教会が出したものを毒杯と偽って倒れる。そんなのは不敬であり、務めた人間にとって後々損にしかならない。国が主催するパーティーにケチを付けたと、そうして罰せられることだってありえるだろう。嫌われ者の王子のためにそんな役目を引き受ける人間といえば、今ここで覚悟を決めているたった一人だけなのだから。
「……それに、エリックの評判を考えれば引き受ける人はいないでしょうから」
何も言えずに黙り込んだミレーニアとクラウディオを見て、どこか物悲しげに呟くリディアナ。きっとエリックの身を案じて、そうして助けようとしてくれる人はこの会場の中には居ない。それほどまでに彼は悪評を重ねすぎたのだ。きっと己が損をしてでもエリックを助けようとする人物は居ないだろう。そう、ここにいる一人の少女を除いては。
「私が毒杯として呷ぎ、聖酒をエリックに飲ませない。これが確実な方法です」
リディアナは黙り込んだ二人に向けて、そうして再び言葉を重ねた。凛とした視線は揺らがずに二対の青灰色を見つめている。覚悟は決まっていると、もう決めていると、そう言わんばかりに輝く青色の瞳は胸元を飾るタンザナイトよりも眩しくて。
「……駄目、よ」
「……ミレーニア様」
しかしそれでも覚悟を宿した友人を前に、ミレーニアはその言葉に頷いてはあげられなかった。弱々しい声とともにふらりと首を振ったミレーニア。しかしいつになく覇気がないその表情とは裏腹、リディアナの手を握るその手の力は強くて。その手はまるでどこにも行かせないと、そう告げているようにも思えた。
「……今ここで、リディを死なせるわけにはいかない」
ミレーニアの頭の中で天秤が揺れる。何度か話したことがあるだけのいけ好かない王子か、禁術に手を染めはしたもののどこまでも心優しい友人か。当然その天秤は後者の方に揺らいだ。例えリディアナがそれを望んでいたとしても、行かせるわけにはいかない。今眉を下げてこちらを見つめてくるその青色に、どれだけの切望の色が滲んでいたとしても。
それにミレーニアにはメアリとの約束もある。リディアナが生きたいとそう思えるように手助けをすると、ミレーニアは聖女になると言ってくれた彼女のために約束したのだ。まだ何も対価を果たせていない今、わざわざ死地にリディアナを送るわけにはいかない。死なせるわけには、いかないのだ。
「それに、あいつのためにリディが頑張る理由なんてないじゃない……!」
ただそんな打算的な考えよりも、ミレーニアは自分の身を投げ売ってでもエリックを助けようとするリディアナが不憫で仕方なかった。聖水を体内に入れれば、呪術を使ったものでも死に至るというのだ。それならば禁術を使ったりディアナならば、どれだけの苦痛を受けるのだろう。リディアナは唯一の願いであった母の死に目にすら会えずに、激痛の中死んで良いようなそんな少女ではないのだ。
「……理由なら、あります」
「え……」
リディアナの手を離さないと、そう強く握っていたミレーニア。しかしその力はふとした瞬間に緩んでそうして無意識の内離れていく。目の前から聞こえてきた、今から死地に赴こうとしているとは到底思えないほどに優しく穏やかな声。それに呆気にとられて。
知らずの内に視線を下げていたミレーニアは、恐る恐ると視線を上げる。見上げた先にはいつもと変わらない柔らかな笑みを浮かべたリディアナが、ミレーニアを見つめていた。いや、よくよく見れば今のリディアナが見つめているのはミレーニアではなくその背後だ。背後に居る存在なんて、振り向かなくたってわかる。何故ならば今、この話し合いの渦中に居る王子様がスピーチをしているから。その声が丁度、ミレーニアの後ろから聞こえてくるから。
「エリックは、私の親友です。例え今の彼にとって、私の存在はなかったことになっていたとしても」
「……!」
「それでも私にとって彼は友人だから」
友達を助けるのに理由は要らないと、そう告げるリディアナの視線にはどこまでも暖かな色が宿っていた。好ましいとそう告げるように、けれどそこに含まれているのは色恋なんかではないどこまでも純粋な親愛で。信頼と友情が綯い交ぜになって、しかしそこに暗い感情は一欠片だって見当たらない。柔らかな眼差しからは、ただ友人を守りたいのだとその意志が痛いほどに伝わってくる。それはいっそのこと眩いほどで。
「……っ」
それに目を逸らしたのはクラウディオだった。呆然とリディアナに釘付けになっているミレーニアを外に、彼は静かに唇を噛み締める。彼はずっと思考を巡らせていた、ずっと考え込んでいた。どうにかしてリディアナを犠牲にする以外で友人を救う手立てがないかと。しかし考えても考えても、自分が思いつく案はどれも現実的ではなくて。今確実性が高い案が、リディアナのそれだと脳が告げる。
聖酒をすり替えようにも、まずそれがどこに保管されているかもわからない。わかったとしても関係者以外は立入禁止の上、厳重であろう警備を潜り抜けるのは大した準備をしていない今の今では困難で。飲む前にエリックを止めるのも、クラウディオが考えていることが正しいのならきっと意味がないだろう。何故こうなる前に止められなかったのか、どうして彼のことをもっと注意して見ていなかったのか。クラウディオの中であの日のエリックの表情が思い浮かんだ。
「それに、私は死ぬ気なんてありません」
「は……?」
しかし懐古しかけたクラウディオの脳は、リディアナのその言葉で再生を止める。呆然とした声を零したのはクラウディオであったのか、ミレーニアだったのか。それすらもわからないほど重なり合ったその声にリディアナがくすりと笑う。双子というのは一見似ていないように思えても、けれどその言動が似通うのだとそう思って。
「……ねぇ、助けてくれる?」
とは言えそんな風に笑っている時間も今はない。一瞬だけ浮かんだ笑みをそうしてすぐ仕舞い込んで、リディアナは静かな声で呼びかけた。それは辺りに人が少ないこの場所では、ざわめきに押し流されることなくよく響いて。
そしてその声が残響とともに消えていった最中、クラウディオとミレーニアを押し退けるようにしてその影は現れた。間を縫うようにして現れたその少年は、呆れたような表情でリディアナを見上げている。しかしその表情はリディアナに困ったように見下ろされた瞬間、柔らかく緩んだ。
「……しょうがねぇな」
薄い唇が本当に仕方ないと言わんばかりの、そんな呆れ声を紡ぐ。多分今から彼女が紡ぐお願いは結構な高難度なもので、本来であれば無償でやるなんて馬鹿げているものだ。しかしそれでも他でもないリディアナがそれを望むというのなら、レンは答えなければならない。それに誰に甘えることもしない彼女に頼られるのが自分だけという事実は、レンにとって満更ではないのだから。