第五話
「……あ、そろそろ時間ですね。お嬢様」
「あら、本当ね」
そうして穏やかな沈黙が訪れたリディアナの部屋の中、二人はお互いに黙り込んだまま紅茶を楽しんでいた。しかしその沈黙は、ふと気づいたかのようなミランダの声で終わりを迎える。ミランダのその声に、リディアナは俯いていた顔を上げた。確かにミランダの言う通り、そろそろ屋敷を出る予定の時刻になる頃だ。
父の訪問にミランダのお茶会にと、そうして過ごしているうちに余裕があったはずの時間はあっという間に過ぎ去っていってしまった。結局一人での最終確認は出来なかったなと、そう苦笑を浮かべつつもリディアナは椅子から立ち上がる。そろそろ御者が迎えに来る時間であるから、屋敷の扉の前まで行かなければ。
「屋敷の前まで見送ってくれる?」
「……はい、是非」
ふわりとドレスの裾を揺らしながらも、優美に歩き出したリディアナ。しかし数歩程歩いたところで、リディアナは思い出したようにミランダの方を振り返った。悪戯っぽく微笑みながら振り返りそう告げたリディアナに、ミランダは困ったように眉を下げながらも頷いてみせる。可愛らしいわがままだと、そうして嬉しそうに微笑んだ主に故郷の弟妹たちを思い出しながらも。
「いよいよ、ですね」
「やっぱり、まだメアリが心配?」
「……そう、ですね」
二人揃って部屋を出て、そうして歩きながら会話を交わすリディアナとミランダ。時間が迫りいよいよとなったところで緊張がぶり返したのか、表情を固くしたミランダにリディアナは困ったように微笑んだ。メアリがもう大丈夫だとはわかっても、やはり心配というのはそう簡単に拭いきることが出来ないものなのだろう。
しかしそんなミランダのおかげで、リディアナは今必要以上の緊張を背負わなくて済んでいる。難しそうな表情で頷いた後、黙り込んでしまったミランダ。しかしそこでリディアナの中でふと小さな疑問が浮かぶ。そうしてその疑問はそのまま、リディアナの口から零れて行った。
「そういえば貴方、メアリの心配ばかりだけどエレン様のことはいいの?」
そう言えば先程からミランダはメアリを心配しているものの、それとは対照的にエレンの心配をする姿をあまり見ていないような。親友とも言えたメアリに比べれば、ミランダはもしかしてエレンにはあまり関心がないのだろうか。
「……まぁ、あの子のことは別に」
「そ、そう……」
ところがそのもしかしては実際その通りであったらしい。先程までの緊張で固まっていた表情はどこにいったのか、ミランダはエレンの名前を聞いた瞬間途端に瞳を眇める。あからさまとも呼べるほど素っ気なくなったその態度に、リディアナは思わず眉を下げた。その声音すらも先程より、若干冷たく聞こえるような。
確かにサラの事件の会議後も、ミランダのエレンに対する態度は素っ気なかった気がしたが。真面目なミランダとは対象的に、自由奔放なエレン。当時もあまり相性は良くなさそうだと思ったものの、それはここまで表情を変えるほどなのだろうか。メアリに対する態度とはあまりにも違いすぎて混乱するリディアナは、しかし次の瞬間緩んだミランダの表情に目を丸くした。
「……なんだかんだ、エレンは要領が良いので」
「え……?」
「だから心配は別に」
緩んだ表情と共に、そのまま続けられた言葉。その声には先程とは違い、どこか温かな感情が込められているような気がした。例えば名前をつけるのなら、そこに込められたその感情は信頼と呼べるのかもしれない。
思わずミランダの方に視線を向けるも、言葉と共に視線を逸らしたミランダのせいで二人の視線は合わないまま。しかしミランダがそうしてそっぽを向いたせいか、リディアナは赤毛の隙間から姿を覗かせるミランダの耳を見つけてしまった。その耳が僅かに赤く染っているのを見てリディアナは苦笑を零す。どうやらミランダは素直じゃないだけで、エレンのことを嫌っている訳では無いらしい。
「……それよりお嬢様、そろそろ玄関ですよ」
「ふふ、そうね」
気恥ずかしくなったのか、そこでミランダは露骨に話を逸らしてきた。しかしリディアナはそれ以上食い下がることなく、露骨なミランダの誘導に素直に頷いてみせる。ついつい笑みこそ零してしまったが、流石にそれは咎められることはなかった。若干眉は寄せられてしまったけれど。
ミランダ相手にあまりからかっては、レン関係の手痛い仕返しが来ることは想像できている。かつての経験を思い出しそうして口を噤んだリディアナは、しかしそこで視線を上へと向けた。ミランダの言う通り、玄関に辿り着いたのである。広い屋敷のせいで少しばかり長い道中も、こうして話していればあっという間だ。
二人が辿り着いた玄関口。そこはリディアナの手では何本あっても足りないほどの高い天井を持つ、ホールに似た構造をしている。こここそがフォンテット家の出口で、他の貴族が訪ねてきた際に家の権威を示す顔役のような場所だ。そこら中に飾り立てられた装飾品は、見る人が見れば宝の山だと涎を零すほどのものなのだとか。
「行ってくるわね」
「はい、お気をつけて」
しかし今では有名な絵画や高価な骨董品で飾られているこの屋敷の顔役は、祖父母の代ではとても質素なものだったらしい。飾りが一切ない質素な玄関はとても寂しかったと、いつか祖母から聞いた話をリディアナは思い出す。しかしそんな思い出を振り切ると、リディアナはミランダの声を背に一人歩き出した。
予定の時刻より少し早いが、あの生真面目な御者ならもう待ってくれていることだろうと。居なければリディアナが待てばいいだけの話であるし。
「お嬢様……!」
「……アンリ?」
そうしてミランダに見送られるまま家を出ていこうとしたリディアナは、しかしそこで背後から慌てたような声を掛けられて足を止める。聞き覚えのある声に振り返った先、そこには息を切らしたアンリがいつのまにかミランダの隣に立っていた。アンリのその顔にはどこか焦燥に駆られたような、そんな表情が滲んでいる。
そんなアンリを見てか目を丸くしたミランダを他所に、アンリはリディアナに駆け寄ってくる。そうしてアンリはリディアナの手を持ち上げると、ぎゅっとその手を握りしめた。途端に冷えきったリディアナの手に、アンリの温かい温度が伝わってくる。
「……どうしたの? アンリ」
「……お嬢様、どうか落ち着いて聞いてくださいね」
突然手を握られたことに動揺しながらも、しかしその動揺を押し殺して問いかけたリディアナ。しかしリディアナのそんな問いかけに、アンリは辛そうに眉を下げて見せた。その表情に嫌な予感が走って、リディアナは思わず眉を寄せる。
「……奥様の容態が、悪化されたそうです」
「……!」
そうして嫌な予感は的中してしまった。恐る恐るという風に密やかに耳打ちされたその言葉に、リディアナは思わず息を飲む。よりによって今日、アナスタシアの容態が悪化してしまったのかと。
たたでさえ冷たいリディアナの手が、その言葉でますます冷え込んでいく。動揺のせいか、アンリがそのことに気づかなかったのがリディアナにとって不幸中の幸いであったのだろう。アンリの手を僅かに握り返し、リディアナは唇を噛み締めた。どうすればいいかと、迷いが一瞬頭を逡巡する。
「アンリ、お母様に付いててくれる?」
「……お嬢様」
躊躇して、葛藤に心を迷わせて。けれどリディアナはそこでそっとアンリの手を離した。血が滲みかける程に唇を噛み締めて、しかしリディアナはそのまま微笑んでみせる。その笑顔は今にも掻き消えてしまいそうな欠片を集めて、そんな儚い笑顔であったけれど。
リディアナのその笑顔にか不安そうに自分を呼ぶアンリに、リディアナは後ろ髪を引かれながらも緩やかに首を振った。硬いヒールの音を鳴らして、リディアナはまた一歩扉へと近づく。背中に突き刺さる二対の視線に、心を揺らされながらも。
「……私は、行かなくてはいけないから」
吐き出した言葉と共に、扉に縋り付くように手を当てる。本当は今すぐ母の元に駆け寄りたい。駆け寄ってその手を握って、せめて容態が安定するまでその隣にいたい。けれどそう叫ぶ心を必死に堪えて、リディアナはそっと玄関の扉のドアノブを回した。
けれどどれだけそうしたくても、今そうすることをリディアナは自分に許してはあげられない。聖女候補の教育係になるというのは、そういうことなのだ。私情よりも己の聖女候補を優先すること、その覚悟だけはとうの昔から決まっていたから。今日がメアリにとって大事なパーティーならば、尚更である。
「……お嬢様、奥様のことは私達が支えます」
「……ミランダ」
「私は新参者ではありますが、精一杯努めますので」
そんなリディアナの秘めたる覚悟を、きっとミランダは汲んでくれたのだろう。それはきっと、彼女がかつては聖女候補であったから。掛けられた声に振り返ったリディアナを、後押しするように僅かに微笑んだミランダ。そんな彼女に向けてリディアナは不器用な笑みを浮かべた。感謝を告げるような、そんな意図を込めて。
「……そうね、確かにミランダの言う通りだわ」
「……アンリ、ごめんなさい」
「いいえお嬢様。きっと奥様も、行くように言いますもの」
そうして二人のそのやり取りのお陰か、アンリもまた少し落ち着けたらしい。一度深く呼吸をしたアンリは、小さく呟くとリディアナから離れミランダの方へと戻って行く。
そのアンリの背中が頼りなく見えて、思わず謝ったリディアナ。しかし謝るリディアナに首を振り、そうして顔を上げたアンリはいつもの様に微笑んでみせた。きっと今も心を欠いているのであろう焦燥を、しかしリディアナを安心させるために押し殺して。そのままアンリはミランダと同じように、リディアナの背中を押してくれる。
「お嬢様、どうかお役目を果たしてくださいませ。家を守るのは私達使用人の役目ですから! ね、ミランダ?」
「はい。成功を祈っております」
明るいアンリの声と、やはり少しだけずれているように感じるミランダの言葉。そんな二人に一度は掻き乱された心を理性で縛り、そうしてリディアナは頷いた。扉を軽く押して、そうして開く。その先から僅かに流れ込んできた、冷たい空気に眉を顰めながらも。
「行ってきます」
その声が聞こえたのかどうかは、定かではない。しかし一瞬だけ振り返った時、二人が僅かに微笑みを浮かべていたことから察するにきっと聞こえていたのだろう。
不安は減るどころかますます増していって、それはリディアナの心の中で今にも破裂せんと膨張し続けている。しかしリディアナは聖女の教育係という、その役目を果たさなければならない。例え母が今際の際に立たされていたとしても、それでも。
「……行ってきます、お母様」
外の世界に一歩足を踏み出す。それと同時に届くわけがないとわかっていて、しかしリディアナは母宛てのそんな言葉を冷たい風が吹きすさぶ銀世界の上で零した。誰かはリディアナのこの選択を薄情だと、そう責めるかもしれない。もしこのまま母が亡くなったのなら、リディアナは後悔してもしきれないかもしれない。
けれどきっと母なら、アンリが先程言った通りリディアナの背中を押すと思うのだ。優しく暖かく、しかし誰よりも責任感が強かったリディアナの憧れの彼女ならば。自分よりも役目を果たしなさいと、そう言うはずなのだ。故にリディアナは迷いながらも足を決して止めはしない。
そうしてリディアナは待っていた御者に挨拶を済ませると、そのまま王城へと出発した。最後までアナスタシアの容態に不安を募らせ、後ろ髪を引かれながらも。しかし自らが背負って全うしたいとそう思った、責任を果たすために。