第三話
それからどれくらい経ったのだろうか。当初の予定通り今日のパーティの流れについて整理しようと思っても、胸元で輝くタンザナイトのせいか内容がいまいち頭に入ってこず。リディアナはただぼんやりと、無為とも呼べるような時間を過ごした。
ドレッサーに座ったまま、リディアナはただ鏡の中の自分を見つめる。鏡の中のリディアナの胸元には、相変わらずタンザナイトのネックレスが輝いていた。その輝きに魅せられたのかなんなのか、リディアナはずっと鏡の中の自分から目を逸らせないままだ。鏡の中に映る、母によく似た容貌を持つその少女から。
「……お嬢様?」
「っ、!?」
しかしずっと鏡を見つめていたリディアナは、突如として背後から聞こえてきたその声に肩を跳ねらせる。心臓の鼓動が一気に加速して、慌てて背後を振り返った先。しかしそこに立っていたのは、ミランダだった。思わずぽかんと目を見開くリディアナを、ミランダは心配そうに見つめる。動いた衝撃が伝わってか、先程まで静かに佇んでいたタンザナイトは今はリディアナの胸元で小さく揺れていた。
「ミラン、ダ?」
「はい、お嬢様」
恐る恐るという風な掠れ声で名前を呼んだリディアナに、ミランダは生真面目に頷く。いや今のは名前をただ呼んだわけではなくて、どうしてここに居るのかとそう問いたかったのだが。
背後に居たのが見知った顔であったことに徐々に落ち着いていく心臓を他所に、リディアナは小さな苦笑を浮かべる。普段は生真面目でしっかりしているミランダではあるのだが、たまにどこか抜けたところがあると。まぁそこが親しみやすい点だと言ってしまえば、その通りではあるのだが。
「どうしてここに? 突然で少しびっくりしたわ」
とりあえず不思議そうにこちらを見つめているミランダに、リディアナは再び聞いてみることにした。ノックの音も聞こえなかったが、いつの間に何のためにミランダはこの部屋に入ってきたと言うのだろう。ぼうっとしてはしまっていたが、約束の時間まではまだ大分余裕があるはずだ。それなのに彼女が再びこの部屋に訪れたのには、何か用があったからでは無いかと。
「ああ、すみません。ノックはしたのですが……返事が帰って来なくて。何かあったのかと不安になり」
「……そうだったのね、ごめんなさい」
「いえ。何事も無かったようで何よりです」
しかしそこで帰ってきた言葉に、リディアナは眉を下げた。ノックの音が聞こえなかったのはミランダのミスではなく、どうやら自分の過失であったらしい。鏡に映る自分を、いやタンザナイトのネックレスを眺めていたが故に外の音その全てに気づかなかったなんて。集中した結果周りが見えなくなるのは、幼少期から治らないままのリディアナの悪癖である。
思わず謝ったリディアナに、しかしミランダは少し困ったように眉を下げながらも首を振る。その表情にはリディアナが無事であったことにか、僅かな安堵が滲んでいた。確かに主の部屋から返事が帰ってこなければ不安にもなるだろう。これから大きなパーティーだってあるというのに。改めて申し訳なく思いつつも、しかしリディアナはそこでミランダの傍に置かれたワゴンに目を向けた。
「……紅茶?」
「はい」
ワゴンの上に置かれた、見覚えのあるティーカップたち。それを見てもしかして、と問いかけたリディアナにミランダは口角を上げて少しだけ微笑んでみせた。僅かに漂ってくるその香りは、リディアナが好きな茶葉の物に間違いない。
「本日は決戦のようなものですので」
真剣な顔をしてミランダはワゴンの取っ手を握りしめてみせる。まるで今から戦場に赴くのではないかと、そう思わせる程厳しく顔を引きしめてみせたミランダ。そんな彼女の表情と台詞にリディアナは一瞬呆気に取られて、しかし次の瞬間思わず笑みを零す。
今日のパーティーは、聖女候補たちが初めて参加する公式の場でのパーティーだ。かつて聖女候補であって、なおかつメアリやエレンの姉のような立場であった彼女からすれば、今日のパーティーは本当に戦場のようなものなのかもしれない。薄い表情からそれを察することは難しいが、身内のような存在がパーティーに参加するのは気が気ではないはずだ。今のミランダでは、二人のミスをフォローする立場にもなれないわけであるし。
「……もしかしてミランダも、緊張してるの?」
「……まぁ、言ってしまえば」
くすくすと笑って悪戯っぽく問いかけてみたリディアナ。そんなリディアナにミランダは若干気まずそうに眉を下げるも、しかし頷いてみせる。相変わらず正直な少女であると、リディアナはそこでますます笑みを深めた。育った環境ゆえか時折大人びて見える彼女だが、緊張するという年頃の少女らしい面もあるのだとそう再認識して。
「それなら、一緒に飲みましょうか」
「……はい」
先程まで夢心地にも似通っていた思考が、笑ったおかげかゆっくりと現実へと戻っていく。胸元に揺れる母のタンザナイトは未だリディアナにとっては重いままだが、ミランダのお陰でそれも少しだけ軽く感じるようになった。父が見に来ると、その緊張だって僅かに解けたことであるし。自分よりも緊張している人を見れば、自分が冷静になるとはよく言ったものだ。
微笑んで一緒に飲むことを提案したリディアナに、戸惑いながらもしかしミランダは頷いてくれる。あっさりと頷いたことを鑑みるに、どうやら表情から窺えるその感情以上にミランダは緊張しきっているらしい。かつての仲間を心配して体を強張らせている彼女を、少しでも安心させることが出来ればいい。そんな風に考えながらも、リディアナはゆっくりとベッドサイドに置かれたミニテーブルの方に移動した。
「……私も、実は少しだけ落ち着かなくって」
「……はい」
ドレスの裾を潰さないようにと、相変わらず気を遣いながらもリディアナはテーブルの前の椅子に腰を預ける。陶器のカップに注がれていく赤茶色の液体は、僅かな湯気を立てていた。瞬間的に漂ってきたその香りに思わず目を細めたリディアナは、ふとそんな言葉を零す。しかしそんな風に零した言葉にでさえ、ミランダは律儀に頷いてくれた。
「ねぇ、ミランダ」
「はい、お嬢様」
「……でも私達が心配しなくても、メアリは大丈夫よ」
「……!」
しかし頷きながらも強張っていたミランダのその表情は、リディアナの優しいその声音で一気に見開かれる。動揺から零れた息がミランダの持っていたカップに伝わり、そうして注がれた紅茶のその湖面は揺れた。まるで今の彼女の、不安に揺れる心の状態を表すように。
そんなミランダに優しく微笑みかけ、リディアナはそっと机の方を指差した。その指先に誘われるがまま、ミランダの視線は動く。リディアナがいつも使っている机の、その上に積まれた本の山を。片付けていないのを見られるのは少し気恥ずかしいけれど、これは何よりも目に映る証拠だ。きっとミランダが何よりも心配している、メアリ。そんな彼女が今日までどれほどの努力を重ね自分を研鑽してきたのか、それが確かにわかる証拠。
「あれ、全部メアリが読んだのよ」
「……!」
その言葉に背中を押されてか、ミランダはそこで立ち上がる。そんな彼女の背中を、リディアナはただ見送った。彼女が飲んでいたティーカップと共に置いてけぼりをくらいながら、しかし無作法な振る舞いをしたミランダを決して責めることはなく。寧ろふらつく足取りのまま机に引き寄せられていったミランダを見つめるその瞳には、見守るようなそんな色が浮かんでいた。
リディアナに見守られながら、そうしてミランダは積まれた本を一冊ずつ手に取っていく。ありふれた童話から始まり、重厚な歴史書からマナーの指南本、そうしてかつては文字を学ぶために使っていた絵本まで。そこからはメアリという人間がどのような努力を重ねてきたのか、その一端が垣間見えるかのように感じた。
そうしてその山の一部に呪術に関する伝承が綴られた本を発見してしまえば、ミランダはもう言葉をなくしてしまうほどに心を打たれて。かつて自分の背を不安そうに追いかけていたあの子は、きっともう居ない。あの約束に恐る恐ると小指を絡めてくれた臆病なあの子は、もうどこにも居ないのだ。それが少しだけ寂しくて、けれどそれ以上に誇らしい。ミランダの親友はきっと、もう聖女候補として胸を張っているのだろう。自分が心配をする必要なんてないのだ。
「メアリ……」
震えるような声で青りんご色の瞳の彼女の名前を呼んだ。思わず涙ぐみそうになって、しかしミランダの瞳からもう涙は零れない。それをこんなにも惜しく思うなんて久しぶりだ。そんなことを考えながらもミランダは少しだけ口角を上げる。それは安堵から零したような、そんな笑顔だった。
「……もう、大丈夫そうかしら?」
「っ、あ……大変、失礼しました」
しかしミランダはそこで聞こえてきたその声にはっとする。手に取っていた本を置くと、ミランダは恐る恐ると振り返った。その先では優しい笑顔を浮かべたリディアナが一人椅子に座って紅茶を楽しんでいる。その対面側に置かれたカップは、自分が飲んでいたカップは、未だ並々と紅茶が注がれたまま。
優しく微笑んだままのリディアナに、思わずミランダは頭を下げる。そういえばリディアナとのお茶会だったはずなのに、自分はすっかりメアリのことで頭をいっぱいにしてしまっていた。勤務中に私情を優先するなんて、侍女としてあるまじき行為である。思わず青褪めて唇を噛み締めるミランダに、しかしそこで帰ってきたのは変わらず温かさを帯びたままの優しい声だった。
「いいの、気にしないで」
「……しかし」
「それより。……もう緊張は、解けた?」
優しくも有無を言わさない、そんな声。その声音からは、気にすることを許さないというそんな感情が窺える。優しすぎるその傲慢さに、思わず顔を上げたミランダ。顔を上げた先では空になったティーカップをソーサーの上に置いたリディアナが、ミランダを穏やかに見つめていた。その優しい表情に、問いかけに、また涙ぐみになりそうになりながらもミランダは頷く。もう大丈夫だと、自分も緊張してるのであろうに心を傾けてくれた今の主に。
「……はい」
「そう、よかった」
その言葉と共にリディアナの方に戻ってきて、そうして椅子に座ったミランダ。彼女はそのまま空になったリディアナのカップに紅茶を注ぐと、自分の少しだけ冷めたカップの方へと口をつける。その憑き物が落ちたかのような表情に、リディアナは安堵したように頷いた。どうやら過剰に感じていた緊張は、メアリの努力の成果によって解けたらしい。
ミランダが認めてくれたと、きっとそう言えばメアリも喜ぶことだろう。それを想像して口元を綻ばせながら、リディアナは再び注がれた自分のティーカップに口をつけた。相変わらず癖のある、しかし自分にとっては好ましい味だとそう考えつつも。