第二十話
お前なんか、生まれなければよかったのだ。
「っ、!」
夢の中でその言葉を聞いた瞬間、リディアナはばっと勢いを付けて身を起こした。伏せていた瞳を限界まで見開き、そうしてあの光景が夢だったことに安堵する。切れる呼吸を必死に宥めながら、リディアナは嫌な音を立てる心臓を抑え込むように胸元を掴んだ。苦しくて仕方ないのは呼吸か、それとも悪夢を見たせいで乱れる思考か。
「……っはぁ」
深く呼吸すると、冷たい空気が一気に体の中になだれ込んでくる。冷えた部屋で眠ったせいか僅かに痛む頭と悪夢が合わさって、今日の目覚めはまさしく最悪とも言えた。冷えた布団に手をついて力なく息を吐いたリディアナは、しかしそこで緩慢な動きで窓の外に視線を向ける。まだ外の世界は暗く、夜が明ける前のようだった。太陽すらも昇る前の、朝と夜の曖昧な境界線の時間帯。
「…………」
早起きをしすぎてしまったと、胸中で一人ごちる。太陽すらも拝めないような時間に起きたところで、何か特別用がある訳でもないのに。思わず零した息は白く濁った後、空気中に溶けて混ざっていく。まさしく冬らしい朝の情景を、リディアナはぼんやりと眺めた。
冬の朝はその寒さのせいか囀る鳥の声すらもしない。まだ日付が変わって数時間程しか経っていないこの時間では、朝が早い使用人達だって誰一人として起きていないだろう。物音や人の気配が一切しないその世界は、リディアナ一人が取り残されたようにも感じて。起きたことのない時間帯とその寒さが、リディアナをまるで別世界に迷い込んだのように錯覚させる。
「……あ」
途方も無いような、どうしようもない心細さ。そんな感情に襲われて無意識の内に何かを探すように視線を彷徨わせたリディアナは、しかしそこで一点を見たところでその視線を止める。固定された視線のその先、いつもは整頓されている机の上には山なりに本が重ねられていた。それはもういっそのこと、見る人に圧を感じさせるくらいの高さとなっていて。
そういえば先日から、メアリからもう使わないからと前に貸していた本を少しずつ返却してもらっていたのだった。机の上には片付ける時間がなかったせいか、十数冊の本が積まれていた。一つ一つが厚い本が多いからか、積み重なったその塔は結構な高さとなっている。目につくと気になって仕方ないと、リディアナはその本の山を片付けるためにベッドから起き上がった。ふらふらと、寄る辺ない足取りでリディアナはそのまま机の方へと近づいていく。
「!……これ、」
そうして机の前まで辿り着いて、しかし片付けようとしていたリディアナは一番上に積まれていた本に思わず目を瞠った。そこに置かれていたのは、何の変哲もないただの児童向けに描かれた本である。しかしそのタイトルは、リディアナにとって何よりも思い入れのあるものであった。
その本のタイトルは「魔法使いと女の子」 リディアナが幼い頃に何度も母に読んでもらった、大切な本。そうしてレンと出会ったことで、更にリディアナの中ではその本への思い入れが増していた。いつかはメアリと重ねた主人公を、今では自分に重ねて。
思わずリディアナは少し分厚めのその本を手に取る。強い思い入れが無意識の内に一番上にこの本を置いてしまっていたのだろうか、そんなことを考えながらも。そうして何度も読み聞かせられ、己でも何度も読んだその始まりの文を朝の空気に一人零した。読み聞かせとは思えないような、情緒も感情も含まれない透明な声がその口から滑り落ちていく。
「……『昔々、ある所に一人の女の子が居ました。その女の子には、大切な母親が居ました』」
その絵本は、そんなありきたりな文から始まる良くあるような話だ。村で暮らす何の才能もない、ただの平凡な主人公の少女。ようやく年齢が二桁になったばかりのそんな彼女には、大好きで大切な母親が居た。しかしその母親はある日少女が起きた日に姿を消してしまい、そのまま行方不明になってしまう。そんな母親を探すために、非力で何の才能も持たないただ勇気があるだけの少女が旅に出るような話。そうしてそんな少女の旅路を、お人好しで優しい魔法使いが助けてくれる話なのだ。
少女と魔法使いは様々な旅路を辿る。時に病弱気味の貴族令嬢のために薬草を取りに行ったり、狼の群れに襲われて道中で倒れたり、仲が良かったはずの姉に時折その旅路を阻まれながらも。そうして少女は何度も助けてくれた明朗快活な魔法使いと親密になっていくその旅の末、何度も妨害をしてきた姉からついに母が行方不明になってしまった理由を知るのだ。
「『なんと、母親は肉親にだけ移してしまうような病気を抱えていたのです』」
吸い付くような手でリディアナは幾つかのページを捲る。何度も読んだからこそ、そのシーンが大体どこにあるのかをリディアナは把握していた。ぽつり、冷たい空気の中で読み上げたリディアナのその言葉が小さく木霊していく。時折切なくも明るい語り口調で語られていた物語は、そこから追い上げるような激動の展開を迎えていったのだ。
そう、主人公の母親は特殊な病気に罹っていた。何度も邪魔をしてくる姉からその言葉を聞いた主人公は、その瞬間絶望する。母を苦しめていたその病気は、肉親にさえ移すことが出来れば自分は助かるようなそんな残酷な病気で。母親は主人公にその病気を移したくないがために、病に苦しむ体を引きずって娘から泣く泣く離れていったのだ。
そうして実は拾い子であった姉は、義理とはいえ自分を愛情深く育ててくれた母の思いを引き継ぐために主人公の旅の妨害をしていた。そこには主人公に残酷な現実を教えたくないという、優しい姉心だってあったのだろう。義理とはいえ姉妹仲がいい二人であったからこそ、妹を悲しませまいと心を鬼にして妨害を繰り返していたのだ。そんな二人の思いを知ってしまえば主人公はもう、母を追いかけていたその足を動かす事ができなくなってしまって。だってこの足を進めることは、母や周りを苦しめるだけだとそう知ってしまったから。
「……『しかし、そこで一人の男の明るい声がした』」
そう、しかし。しかしそこで主人公の闇を、苦境を、またしても共に旅をしていた魔法使いは引き裂いてくれた。崩れ落ち俯いて涙を流す主人公の肩を叩いて、そうして彼は不敵に笑うとこう言ったのだ。その病気は他にも治す方法があるから、その足を止める必要は無いと。君が鮮やかに描いてきたこの旅の最期を、君の涙で終わらせはしないと。そんなカッコつけたような言葉を主人公に落として。
そうして最後の苦境を乗り換えた結果、魔法使いの言葉の通り結果的に母親の病気は治り、主人公は今まで出会ってきた人々と共に大団円のハッピーエンドを迎える。魔法使いに泣きながら礼を告げる主人公に、笑ってと困ったように微笑んだ魔法使い。そんな二人のラストシーンでその物語は幕を閉じるのだ。僅かに主役のその二人の、恋心を滲ませるような形で。
「『めでたし、めでたし』」
まさしく文句のつけようがない、完璧なハッピーエンド。誰もが笑って、誰もが傷つかずに終わることが出来る、子供向けの物語の中だからこそ許される幸せな結末。そこに都合が良い、だなんて残酷で不躾な野次を送る人間は居ない。そう、舞台の外から見ている何の関係もない読者以外は。
「……そんな風には、終われないのよね」
また一つ呟きがリディアナのその口から零れた。何かを切望するように、しかしそれでいて諦めるような、そんな声が。その本を優しい手付きで一度撫ぜると閉じて、リディアナはそうして本を抱きしめる。優しい世界、全てが上手く行く世界、今自分が生きる世界はどうしてそんな結末を迎えられないのだろう。どうしようもないとわかっていても、それでもそんな嫉妬めいた言葉は止まらない。
アナスタシアの病気が治って、リディアナには実は隠された魔力があって、エリックとは和解できて友達に戻って。そうして何もかもが上手く行ってハッピーエンド。絵本の中に訪れるような優しい結末が、現実にだって訪れてくれればいいのに。
けれどそんな結末が訪れないからこそ、人は本を綴るのだろう。自分がいつか夢見た優しい結末が、誰かに夢を与えらればいいとそんな一抹の願いを託して。つまり今リディアナが夢想するそんな結末は訪れない。母の病気は治らずにいずれ母は亡くなってしまう。リディアナが抱えられる魔力は己のものではなく禁術で得たものだけで、きっとエリックとは和解できない。
「……いいえ、でも」
しかしそこでリディアナは抱きしめていた本をそっと離した。伏せていた瞳を開き積まれた山の一番上に再び本を戻すと、リディアナは今度は窓の方へと近づく。外の世界は暗く、太陽はまだ昇らないまま。しかし月が消えて徐々に赤く染まっていく空が、もう直訪れる夜明けを予感させていた。
そうして夜明けは訪れる。窓の外、白んでいく空と共に眩く輝きながら訪れた太陽に、リディアナは思わず目を細めた。空に光が刺し、雲が透き通るような色を得ていく。赤かった空は一瞬にして、白に、そうして青に移り変わって。そうして限りなく薄くも青い空が訪れたのなら、それはもう夜が明けたことを意味するのだろう。
「きれ、い……」
思わず零れた声は呆然としたようなそんな声だった。窓に齧りつくかのように手を添えて、リディアナは夜明けの瞬間にただただ見惚れる。どんな宝石よりも眩く、どんな花よりも華やかで、どんな人生よりも壮大だ。暗く染まっていた思考も、久方ぶりの悪夢に傷ついていた心も、それら全てが美しい朝焼けによって塗り替えられていく。
夜明けの色は紫だ。リディアナが大好きな色である、青と赤が混じり合った境界線の紫。それを見て思い浮かんだ顔に、リディアナは無意識の内に綻ぶような笑みを浮かべる。会いに来てくれたと、そう思ってしまったのはただのリディアナの思い込みにしか過ぎなかったけれど。ただそれでもリディアナは、まるで彼が寝る前に呟いたリディアナの願いを叶えてくれたかのように感じたのだ。
……きっと、現実は全てが上手くいくわけじゃない。絵本の主人公のように、全てが幸せになるハッピーエンドをリディアナはもう迎えられない。禁忌を犯したこの身に、欠陥品であるリディアナに、そんな勿体ないくらいの幸せな結末は訪れてはくれない。
けれど絵本の中の魔法使いのような、いいやそれよりも素敵な魔法使いが、今のリディアナには居るのだ。居てくれるのだ。願いが全て叶うわけじゃないけれど、一番の願いであった母の命はもう救えないけれど、それでも。リディアナが諦めていた明日を、未来を、彼は作り上げてくれる。禁忌へと自ら飛び込んでいったどうしようもないリディアナに、手を伸ばそうとしてくれた彼なら。
「……生きよう」
眠る前はまだ迷って口に出せずにいた言葉を、しかしリディアナはそこで確かに紡ぐ。もう揺るがないと、そんな覚悟を持って。誰かが手を引いて引き止めてくれて、後ろから声を掛けてくれて、そうして選べるようになったその道。もうリディアナは他に揺らぐこと無く、その道を歩くことを決めた。漸く迷いなく、自分で選んだのだ。九年間泣き続けていた自分の手を引いて、生きることを選択した。
問題は山積みで、どうなるかなんてわからない。ここから先は地獄に落ちるために自分で舗装してきた道ではなく、誰かが用意してくれた未知数のものだから。ただそれでも恐れ混じりでも、リディアナは歩いていく。物語のような完璧なハッピーエンドを迎えられないこの世界に、しかしそれでも一筋の光は差してくれたのだから。