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聖女の教育係  作者: 楪 逢月
第五章
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第十九話

「……では、早く休むように」

「はい、ありがとうございました」


そうしてアーノルドに送られる形でリディアナは部屋へと戻った。端的に告げられた言葉に、リディアナは頭を下げるとそのままの部屋の扉を閉じようとする。しかしそこで、アーノルドから掛けられた声にリディアナは目を見開いた。


「……泣いていた時、一人だったか?」

「え……?」


どうやらアーノルドは、まだリディアナの目が腫れていた事を気にしていたらしい。気遣うようなその言葉にリディアナは目を見開いて、そうしてどう答えるべきかと眉を寄せた。父が何を気にしているのか、眉を寄せただけの無骨なその表情からは何も悟ることが出来なくて。しかし有無を言わさないその表情に、今度は先程のように誤魔化すことが出来なさそうだということは悟った。

目を伏せる。どう答えればいいか散々迷って、目線を逸らして。しかしリディアナは一度目を瞑ると口を開いた。なぜかは分からないが、今の父はリディアナを心配してくれているらしい。理由は分からないけれど、それならば今度こそは本当のことを伝えたほうがいいのかもしれない。


「……いいえ」

「!」


一度小さく首を振る。本当にこう答えてもいいだろうか、根掘り葉掘り聞かれることはないだろうか。そんなことを考えながらも、リディアナはしかし確かにそう言葉を零した。そのことにアーノルドの目が見開かれたことに、若干の気まずさを感じつつも。


「傍に居てくれる人は、居ました」


静かな声で言葉を続ける。そう、傍に居てくれる人は居た。告げた瞬間若干の気恥しさに視線を下げながらも、しかしリディアナは言葉を撤回することなく視線を下げる。最後に泣いたあの図書館での日とは違って、今回はリディアナに好きなだけ泣けばいいとそう言って傍に居てくれる人が居たのだ。だからこそリディアナは思う存分に泣くことが出来たし、そうして母の前で醜態を晒すことを避けられた。頭を撫でてくれた彼のその手の優しさは、まだ忘れることなく感触として残っている。


「……そう、か」


告げながらも視線を下げたリディアナに何を思ったのだろう。一拍の後、小さく声を落としたアーノルドのその声にリディアナは思わず視線を上げた。何故ならば、その声には心から安堵したようなそんな色が含まれていたからだ。

聞いたことがないくらい優しいその声は、いつだって母に向けられていたもののはずだ。それなのに見上げた先、アーノルドはリディアナをその声と同じように優しく見下ろしている。まるで母を見下ろす時と、同じように。その表情に思わず息を呑む。


「……お父、様?」

「……教育係になったのは、そう悪いことではなかったな」

「え?」


困惑から思わず問いかけるように父の名前を呼んだリディアナは、しかし返ってきた言葉に呆気にとられたかのような声を上げた。しかしその言葉に一つ思い出して、リディアナは目を見開く。そういえば当初教育の話が神殿側から持ちかけられた時、アーノルドはどちらかといえば反対するような素振りを見せていたような。

この国において教育係になることは貴族令嬢にとって、何よりの名誉である。そうしてそれは勿論、家にとっての名誉にも繋がるのだ。故に現当主であるアーノルドに断る理由なんて無いはずなのに、リディアナが教育係になることを話が来た当時アーノルドは渋っていた。結局その時は、リディアナが押し通したことで決着が付いたのだけれど。


「当初は、ただでさえ気苦労が多いお前が教育係になることに不安があった」

「……はい」

「お前はよくやっている。未婚の令嬢ながら家の仕事をこなし、令嬢としても高い評判を社交界から得ている。だから教育係なんぞにならなくても、それで十分だと思っていた」


浮かべた表情からリディアナのそんな疑問を感じ取ったのか、そこでくるりと背を向けながらもアーノルドはそんな言葉を零す。その言葉に頷きながらも、リディアナは内心驚いていた。まさかリディアナが教育係になるのを反対していた理由が、単純にリディアナを気遣ってのことだとは思いもよらなかったからだ。てっきりリディアナがその任をこなせなかった場合、家に損失があるからだとかそんな理由から渋っていただけだと思っていたのに。

リディアナは父が自分に興味があるだなんて思ってもいなかった。寧ろ母を死に追い込んだとも言えるリディアナを、憎んでいるとすらも思っていたのだ。しかしそうではなかった。その言葉から汲み取ることが出来る感情はただ一つ、心配という名のそんな感情たちだ。


「しかしお前が人前で泣くことが出来る、そんな相手が出来たのなら存外悪い選択ではなかったのかもしれない」

「……お父様」


苦笑を零すようにそう告げた父の背中に、リディアナは眉を下げる。リディアナの気の所為なのかもしれないが、そう告げる父のその背中がどこか寂しげなものに見えて。

リディアナと父の仲ははっきり言ってしまえば、そう良好ではない。晩餐を共にしている以上毎日会話を交わす機会はあるものの、報告とも呼べるような日常会話が主な二人の会話内容だったから。故に父がこんなにも自分を心配してくれれているということすら、リディアナは今初めて知ったのだ。


だからこそ、ここまで話している父の姿がリディアナには新鮮に映る。母と言う存在が居なければ、父と自分の関係は紙切れのように薄いものだとリディアナはそう思っていた。

しかしリディアナが泣いていたことを気にかけ、そうして誰かが傍にいたということに安堵する父の姿を見ていると案外そうでは無かったのかもしれない。リディアナが勝手に諦めていただけで、父は存外リディアナのことを大切に思ってくれていたのだろうか。そう思うと困惑の最中胸に何かが灯ったような気がして、リディアナは思わず手を握りしめる。


「もう休むといい。それから」

「っ……それから?」


しかしそこで突如として振り返ったアーノルドに、リディアナは慌ててその手を解いた。怪訝にされていない所をみるに、どうやら拳を握りしめた姿は見られていなかったらしい。そのことに安堵しつつも、リディアナはそこで言葉を切ったアーノルドの言葉を反復する。そのリディアナの視線に一度戸惑うようにアーノルドは視線を逸らして、そうして。


「……アナスタシアに会いたい時は、私に言うといい」

「っ!」

「私達の想定よりも、お前は強かった」


その言葉に目を見開き息を呑んだリディアナに、アーノルドはしかし言葉を撤回することなく僅かに微笑む。それは知らずのうちに成長していた娘を誇らしく思うような、寂しがるような、そんな表情だった。

しかしリディアナはその表情に、その言葉に、どんな顔をすればいいのか分からなかった。母に会うことが許されたのは確かに嬉しいはずなのに、しかしそれ以上の混乱がリディアナの脳内を掻き乱す。褒められているはずの、その言葉すらも上手く飲み込めなくて。ただそれ以上に何故と、そんな言葉が脳を埋め尽くすのだ。


「お前はもう、子供ではないということを今日は知れた」

「そう、ですか……」


けれどそんなリディアナを置き去りにするように、アーノルドはそう告げると微笑んだ。リディアナはその言葉にもただ、相槌を打つことしか出来なくて。そうして再び背を向けたアーノルドは、小さな言葉を零すと去っていった。


「おやすみ、リディアナ」

「……おやすみ、なさいませ」


遠ざかっていく背をぼんやりと見送る。あんなにも優しい声をかける人だっただろうかと、リディアナの思考を染めるのはそんな考えで。しかし体に突如として吹き込んだ風に、リディアナは慌てて背後を振り返った。そういえば、窓を開けたままに部屋を出てきてしまっていたような。

振り返った先、当然無人の部屋では誰かが窓を閉めてくれるわけがなく。冬の風が吹きすさんで冷えた部屋の現状に、リディアナは慌てて窓へと近寄った。急いで窓を閉めて、そうしてリディアナは一息吐く。すっかり冷え込んだ部屋のその空気が、リディアナの頭を僅かに冷静にしてくれた。


「何だったの、かしら」


そうして冷えた部屋の中、疲れたようにベッドに座り込んだリディアナが零したのはそんな小さな呟きで。冷たい風がいくら思考を冷静にしてくれたとしても、それで混乱が全て収まる訳では無い。未だ父の言葉はリディアナの頭の中を駆け巡っていた。

ぐるぐると考え込む。どうしてリディアナが一人で泣いていたのかを気にするのだ、どうして普通の父のようにリディアナが誰かと居たことを喜ぶのだ。どうして今更になって、リディアナを認めてくれるのだ。


……どうして今更になって、そんな言葉をかけるのだ。先程のように父にどれだけ優しい言葉を重ねられても、リディアナの頭の中を占めてしまうのは結局そんな感情たちだった。だって今更なのだ。きっと今日のその言葉が、その視線が、あの日に掛けられていたのなら何かが変わっていたのかもしれないのに。

そんなどうしようも無いことを願って、しかしリディアナはそれは叶わぬ願いなのだと唇を噛み締める。きっと父にとって今のリディアナは欠陥品ではないから、だからこそ認めただけに過ぎないのだとそう言い聞かせて。きっとリディアナの本当を知れば、彼はメアリたちとは違ってあの日よりも冷たい瞳でリディアナを見下ろすだけなのだ。


「……っ、」


その表情を想像してまた泣き出しそうになって、しかしリディアナはすんでのところで涙を耐えた。だって今ここで泣いても、きっとリディアナの頭を宥めるように撫でてくれる彼はいない。それならばきっと夕闇のあの時間を思い出して、そうして虚しくなってしまうだけだ。そんな虚構の時間を過ごしたくなんて、ない。


「会い、たい」


到底叶わない言葉を、一人冷たい部屋の中で零す。一人だからこそ言えた、そんな願いを。彼が魔法を使えるというのなら、今ここに現れてくれないだろうか。紫の瞳が脳裏で優しく瞬いて、そうしてリディアナに微笑みかける。リディアナは今どうしても、レンに会いたくなってしまった。会ってそうして、この胸中を曇らす父の言葉たちを蹴散らしてしまって欲しかった。いつものように、その優しい紫の瞳で。

そんなことを思って、しかしそんなのは到底無理だということをリディアナは知っている。いくら彼が魔法使いでも、そんな都合よく現れてくれるわけが無いのだ。こんなのはどうしようも無いほど、ただのリディアナのわがままでしかない。泣きたいから、傍にいて欲しいだなんて。そんなのは、絵本の中のお姫様くらいにしか許されないだろう。


「……寝なくちゃ」


当然、少し待ったところでレンは来なかった。そのことに失望を抱く自分に自己嫌悪して、しかしリディアナはそのまま冷たくなったベッドへと潜り込む。寝ればきっと、この渦巻く思考から解放されるはずだ。どうしようもないことを考えても、願っても、今更何が変わるというのだろう。


ベッドに寝転び、リディアナはただ願う。夢を見たい。できれば紫色の花畑で彼と微笑み合うような、そんな夢がいいと。いいや叶うのならばそこにメアリが居て欲しいし、彼は嫌がるかもしれないがミレーニアにだって居て欲しい。そこまで来てしまえばクラウディオにだって来てほしいし、クレアやエレンやミランダが居たらもっと楽しいだろう。後は母が、アナスタシアが居てくれれば、きっとリディアナは考えられないくらいに幸せだ。

しかし望んだ幸福な夢とは裏腹、徐々に微睡んでいった思考は最後まで嫌な記憶で満たされていて。結局その夜リディアナが見た夢は、過去の痛みの日々を断片化したものと、そうして相変わらず残酷な色でリディアナを見下ろすアーノルドの姿という悪夢だった。

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