第九話
母との談笑を終えたリディアナが部屋に戻る頃、空はすっかりと宵闇色に染まっていた。侍女に手伝ってもらいドレスから薄い青色のネグリジェに着替えると、寝台に腰を掛ける。そうしてリディアナは一人、窓の外で輝く月を見上げた。夜空に映えるその黄金の月は今日、満月を迎えているようだった。
今日は本当に色々あったと、月を横目にリディアナは寝台にその身を沈ませる。そしてどこか虚ろな瞳で天井を見上げ、一日を思い返していった。良いことも、悪いことも。嬉しいことも、悲しいことも。その全てがこの現と夢の境界にいる時だけは、全てが溶けていくような気がした。
瞳を瞑る。身体に積もった疲労感からだろうか、リディアナは直ぐにでも夢の世界へと旅立ってしまいそうになった。けれど、リディアナは直ぐにその目を開く。そうして寝台からその身を起こし、紙が積まれた机へと向かった。
魔眼の書物は帰り際に家の図書室から持ってきた。御者のフォローはそれとなくアンリに話をしておいたし、優秀な彼女ならば上手く彼を援護してくれるはずだ。もうリディアナが出来ることはないだろう。あまり手を出しすぎると贔屓に見られかねないことだし。
それなら後やることは、今月の家の収支と支出の件だろうか。それとも山程に届いている夜会やお茶会への断りの手紙だろうか。はたまた使用人の嘆願書に目を通そうか。頭を巡るやるべきことの優先順位を明確に付けると、リディアナは羽ペンを片手に机に置かれていた書類たちにサインを始めた。
「……暫く夜会やお茶会はお断りになりそうね」
まず山程ある手紙たちに手を付ける。一人苦笑しながら呟くリディアナは、美辞麗句でその文字たちを飾り立てながらも全ての手紙に断りの文を描いた。それぞれの家格や仲の良し悪し、そして人物に配慮した手紙を書くのは数が増えれば増えるほど重労働になる。ただそれらを、リディアナは慣れた様子で熟していった。手紙を書き上げた後は信頼の置ける使用人たちに頼んで手紙を出してもらえば、問題はないだろう。
急ぎの手紙だけを書き上げ、リディアナは次に使用人たちの嘆願書に目を通す。この嘆願書とは、使えなくなった家の備品の報告や、屋敷の傷んでいる箇所の修理の要望、その者それぞれの事情で休暇を貰いたい時など、そういった時に彼らに書いてもらっているものである。
口頭でも構わないが、こういう書類の方が何かと忙しいリディアナに話を通しやすい。そういった目的で配置した嘆願箱に要望を書いた紙を入れてもらい、こうしてリディアナが目を通すというわけだ。紙ならば口頭では伝えづらい事情を話しやすいと、使用人たちからの評判も上々である。
「問題なし、と……」
今回はどの嘆願書にも大きな問題は見られなかった。数がそもそも少なかったし、殆どが休暇の申請のそれだ。他に目についた問題と言えば、料理長から一部の食器の買い替えの要望があったくらいである。
それに許諾のサインを書き、リディアナは明日父にその話を通すことに決めた。緊急性はないとのことなので、あまり急ぐ必要もないだろう。とは言え立派に仕事を熟してくれている料理長に不便な思いをさせるわけには行かないので、常識内の速さで対応はするつもりだ。勿論休暇の申請の方も問題点がないかを確認して、許諾のサインを書いていく。
「ふ、」
そこでリディアナは一息ついた。後は収支と支出の確認だが、この帳簿は一度当主であるアーノルドの目を通してから渡されるものだ。リディアナは一応最終確認という立ち位置にこそ居るが、父親の仕事は殆ど完璧なためその位置にほとんど意味はない。ただそれでも家に大きく関わってくる部分になるので、手を抜くわけにはいかないのだが。
こんな本来ならば執事や補佐官などに任されている仕事がリディアナに任されるのには、理由がある。先々代のフォンテット家の失敗を顧みた結果がこれなのだ。先々代の当主は当時の執事に信頼を置きすぎた結果、帳簿を誤魔化され多くの金銭を騙し取られた。そこからフォンテット家は公爵とは名ばかりの貧乏貴族になってしまったらしい。
それを立て直したのが先代、リディアナの祖父に当たる人物だ。多くの苦労や犠牲とともに幼馴染であった婚約者と公爵家を立て直した祖父は、これからの代は帳簿などの確認は信頼の置ける身内にしか任せないようにと厳守した。子孫がこれから先、自分が背負ったような無用な苦労を生まないためにである。
だから母が動けない以上、これは自分の働きだ。そう思い意気込んだリディアナは羽ペンを一度置きそうして帳簿に手を伸ばして、しかしそこで硬直した。どくん、とそう大きく彼女の心臓が鼓動する。その感覚にリディアナの顔は一瞬で青褪めた。
そうして突如として訪れた心臓の痛みに、リディアナは苦悶の表情を浮かべた。家計簿へと伸ばされていた右腕をふらつかせながら戻し、左胸の辺りを掴む。唇を噛み締めて荒い声が出ないようにしながら、リディアナは俯いた。
「っ、く、……!」
鼓動が速くなる。激しく痛み出した心臓に思わず椅子ごと崩れ落ちそうになりながらも、リディアナはその痛みの波を懸命に耐えた。左胸を掴んでいない方の手は爪が食い込む程に握りしめられており、既にその手のひらには爪の痕が残り始めている。ただそんな手のひらの痛みが無に思える程に、心臓の痛みは強かった。
その痛みは、燃えるようでもあり刺すようでもあった。息が詰まり、呼吸もままならない。常人であれば近づいてくる死の恐怖に絶叫し、倒れ伏したことだろう。それでもリディアナは声を上げもせず、倒れもせず、ただ耐えた。例え噛み締めた唇から血を流しても、その手のひらの爪痕が赤黒く濁っても。ただその青い瞳を伏せて、波が過ぎ去るのを待った。
「っ、はぁ、っごほ、けほっ……!……すぅ、はぁ……」
そうして波は過ぎ去る。去っていった痛みにリディアナは荒くも漸く息を吸い込み、けれどそこで噎せた。痛む喉を労りながらもゆっくりと呼吸を繰り返し、自分の手のひらを見て苦い表情を浮かべる。今見ることは出来ないが、唇も切ってしまっているであろうことは口に広がる鉄の味から理解できた。それに痛みのせいで汗を掻いた身体が夜の涼しさで一気に冷えて、少し寒い。
けれどそんな様々な異常を抱えているのにも関わらず、リディアナは今度こそというように帳簿を開いた。その内容に目を通していき、問題がないことを何度も確認して漸く帳簿を閉じる。その頃にはその体は、すっかり冷え切ってしまっていた。
「……まだ、大丈夫」
リディアナは小さく呟く。後悔や苦しみを押し殺したその声は、けれどそれらよりも強い決意を感じさせる何かがあった。もう傷まない心臓のあたりに冷たい手を置いて、リディアナは目を閉じる。
これは、この痛みは罰なのだ。禁忌を犯してしまった自分の、罪の証。それならばそれを抱え、最後までリディアナ・フォンテットを務めてみせよう。たった一人あの人が、最後まで笑っていられるために。その結末を見届けるために。そのためならばこの身がどんな最期を迎えようとも、構わない。
ただ、そこでリディアナは瞳を開いた。今日から新しく背負うことになった責任を、果たして自分はどこまで果たせるのだろうかと。けれどきっと想像したところで無意味なのだ。この体が後どれくらい持つのかなんて、リディアナにはわからない。ただ自分が五人目になって、そうしてあの子に六人目を作ってしまうのかもしれないとそう考えると、何だかとても痛かった。想像で顔を曇らせてしまうほどには。
強欲は身を滅ぼす。そう痛いほどに分かっていても、それでも諦めきれずにリディアナは願った。どうかこの身が全ての責任を果たすまでは持ってくれるようにと、ただ。そのためならばどんな痛みだって耐える覚悟が、リディアナにはあるのだから。
「……お嬢様? お仕事中かと思い紅茶を用意しました。よろしければ如何ですか?」
「っ、ええ! 少し待って頂戴」
けれどそんな仄暗い決意を抱いた瞬間に扉の外から掛けられた声に、リディアナはその肩を跳ねらせた。アンリの声である。その声に慌ててネグリジェの上に薄い上着を羽織り、左の手のひらを隠すようにしてリディアナは扉を開けた。扉の先で昨夜と同じようにワゴンを引いたアンリは、リディアナに礼を告げると優しく微笑む。そんな彼女にリディアナもまた、その笑顔に自然と笑みを浮かべた。
「また気を使わせたわね、ごめんなさい」
「いえいえ! お嬢様のお役に立てるなら私は嬉しいくらいですよ……って、お嬢様? その唇、どうしたんですか?」
「あら、切れてしまってたみたい。乾燥かしら」
アンリの言葉をさらりと誤魔化してリディアナは椅子に腰掛ける。寒くなってきましたものね、とそう少し心配そうに見つめてくる侍女に罪悪感を覚えつつも、頷く。今日も今日とてそのワゴンから香る紅茶の香りは、リディアナの好きなものである特殊な茶葉のものだった。
「きっと頑張り過ぎですよ、お嬢様。今日は聖女候補様との顔合わせもあって疲れているでしょうし、早めにお休みになってください」
「……じゃあ、ミルクをお願いできる? もう休もうと思ってたの」
「あら! それでは急いでご用意しますね!」
休めという言葉に素直に頷いてみせたリディアナに、アンリは目を見開いた。けれど次の瞬間にはその表情に満面の笑みを浮かべ、急ぎ足でキッチンへと向かって行く。その背中を見送って、そこでリディアナは安堵の溜息を吐いた。
休もうとしていたのは本当だ。さすがにあの発作が起こった後に、これ以上無理をする気にはならなかった。けれどそれ以上に、彼女に何も気づかれなかったことにリディアナは安心したのだ。アンリが置いてった温かいティーポットに触れて冷たくなっていたその手の温度を取り戻すと、リディアナは一人呟く。
「ごめんなさい……本当に」
それが誰に向けての何の謝罪なのかは、口にしたリディアナ自身にもわからなかった。ただ手のひらに残ったその爪痕が、罰だというように痛むのに顔を顰める。夜空には未だ満ちた月が、そんなリディアナを見下ろすように浮かんでいた。