シーン1-1 歩生<あおい>
ここはN県八束市。
周辺を山々に囲まれていて、冷涼な気候を生かしたぶどう栽培で知られる、のどかな地方都市である。その八束市の中心市街地に私立八束高等学校はあった。
『智は身を助』を校訓に掲げ、生徒の自主性を尊重する校風で知られているが、その一方で一部の生徒によりいじめやセクハラ等が起きているという噂が絶えず、その度に学校側がそれを否定するということが繰り返されており、保護者からの評判は芳しいものではない。
そして、実際にいじめは起きていたのである。それも深刻なレベルで。
舞台は一年C組の教室。ホームルームを前にした教室の中から罵声が響く。
「優希ちゃんよお、ちっとは俺たちを愉しませてくれよなあ!」
パリッとした制服のブレザーに身を包む長身の男子生徒が、床にうずくまっているやや背の低い男子生徒を足蹴にしながら挑発する。優希と呼ばれた男子生徒はそれに対して何も答えず小さくうめき声を上げるだけであった。
教室内にいる他の生徒たちは黙り込んだままそれぞれの席に着き、その光景に眉をひそめながらも見て見ぬふりを決め込んでいる。
「おら、三成さんが言ってるじゃねえかよ、歯向かってみろってよ!」
優希よりも小柄な体格の男子生徒が三成と呼んだ長身の男子生徒のすぐ脇で囃し立てるように言う。しかし、それでも優希は何も言おうとしない。
その様子を見て取った三成は面白くなさそうな表情を浮かべる。
「しゃあねえなあ。もっと痛い目を見ないと優希ちゃんの目は覚めねえらしい。……おい恭二、一発痛いのをかましてやれ!」
「……了解です、南井さん」
その命令を受けて、恭二と呼ばれたやや大柄な男子生徒が前に進み出ると、一拍置いてから勢いよく優希の顔を踏みつけた。
「うぁ……っ!」
「どうだ、目が覚めたかよ?」
顔を踏みつけられた優希は悲鳴を上げるが、そんな優希を南井が冷たく見下ろした。
「お前はいつもそうだよなあ、歩生優希。こんだけ痛めつけても一発も殴り返さねえ。いつも女が助けに入るのを待つばっかでよ、男として恥ずかしくねえのか、ああ?」
南井はそう言って優希を嘲笑したが、これには本音も多分に含まれている。南井にとって優希は都合のいいカモでしかなかったが、その一方でどんなにいじめても一向に反撃をしようともしない優希に、ほんの僅かだが物足りなさを感じていたのもまた事実であった。
勿論、腕っ節に自信のある南井は自分が喧嘩で負けるなどとは露ほども思っていない。要するに優希への物足りなさというのは、南井が自分の腕っ節の強さを見せつけたいという子供じみた欲望の裏返しに過ぎない。
そんな南井の気持ちを知ってか知らずか、ようやく優希は体を震わせながら口を開こうとしたが、その前に廊下の方から声がかかった。
「あんたたち、いつもいつもいい加減にしなさいよ!」
「ちっ、飛田かよ……!」
その声を聴いた南井は口の端を歪めて舌打ちした。
飛んできた声の主である飛田あやめは、普段は穏やかに微笑んでいる口をへの字に曲げてつかつかと優希をいじめていた三人の前に歩み寄ってくる。その勢いに圧されたのか、優希の顔を踏みつけていた大柄な男子生徒こと東元恭二は慌てて足を放し優希を解放してしまう。
「おい、何足を放してんだ恭二! 南井さんの命令を無視すんな!」
「でもよお、阪西……」
「まさか女にビビってんじゃねえだろうな、恭二?」
足を放してしまった東元に対して小柄な男子生徒、阪西四良が怒りを浮かべて凄む。同時に阪西は東元の足をさり気なく踏みつけ、東元は痛みに顔をしかめた。
「黙ってろ阪西! ……それで、どうして俺たちが退かないといけないんだ飛田。俺たちは聞き分けの悪い同級生にちょっと物事の道理って奴を教えてやってるだけだぜ」
「どう贔屓目に見ても、ただ単に歩生君をいじめてるだけに見えるんだけど」
長身の男子生徒、南井三成は無駄に騒ぎ立てる阪西を叱責しつつ、憤怒の形相を浮かべるあやめに対して自分たちの行いを正当化しようとするが、あやめはその意見を冷たく却下した。
「それはお前の目が節穴だからじゃねえのか」
「お生憎様、私は小さい頃からずっと目が良くてね。それに……そろそろ時間じゃあないかしら?」
「時間?」
あやめの言葉に南井がいぶかしげに教室に備え付けられた時計を見たその時、くたびれたスーツを着た中肉中背の男性教師が教室の中に入ってきた。
「よーし、みんな元気か? ……どうした、南井に飛田、阪西たちも早く席に着け」
このクラスの担任である男性教師、北栄一郎が南井たちとあやめに声をかける。この担任は校長や教頭といった上役への付け届けしか上手くない、典型的な昼行燈だというのが生徒たちからのもっぱらの評判で、実際今しがたまでクラス内で行われていたいじめにも気付いたような素振りは見えない。この担任の無責任な態度が南井たちの無法を助長させている面は否めなかった。
しかし、役立たずとはいえ担任は担任である。従わないわけにもいかない。
「ちっ、ここは北栄の奴の顔を立てといてやるよ……席に戻るぞ二人とも」
「……ちぇっ……つまんねえの……!」
「……わかりました、南井さん」
南井はあやめに対して吐き捨てるようにそう言うと、阪西と東元をうながしてさっさと自分の席に戻り、残された二人も慌てて席に着く。
あやめは自分の席に戻る前に教室の床に倒れ込んだままの優希を助け起こす。
「ほら、しっかりしなさいよ歩生君」
「……ごめん、また助けられちゃったね飛田さん」
「自覚してるんなら少しはシャキッとしてよ……ほら、立てる?」
「うん……」
優希は多少ふらつきながらもあやめの助けを借りずに立ち上がる。
「なんだ、いたのか歩生……早く席に着け」
「はい……」
やる気の無さそうな声で北栄が声をかけ、優希は返事を返しながら自分の席に着く。
自分が担当するクラスの生徒だというのにこの扱いである。北栄という人間がいかにクラスのことに無関心なのかが痛いほどよく分かる。
(自分がどんなに役立たずなのか、ちょっとは自覚しなさいよ……!)
自分の席に戻りながら、あやめは心の中で北栄にそう毒づいた。
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