神の存在証明
伊沢美波は変わっている。
教育的ディベートの授業では来週の本番へ向けて、各班の準備が行われていた。今回の論題は「神は存在するか、否か」である。伊沢の作戦もとい主張は「この世の全てのものは自身が認識することで存在し、自身が認識しないものは存在しえない」ということだった。すかさず同班の男子生徒が、神は存在しないってこと?俺たち肯定的立場なんだけど、と指摘する。
「自分の中で神様を認識してるなら存在するっていうことで。」
男子生徒は戦力にならないと判断したのか同調も反論もせず、他の班員と話始めてしまった。伊沢を少々不憫に思い、彼の後を継いで話に付き合うことにした。
「それは信仰の問題?信じる者は救われる的な。」
「ちょっと違うかな。神様を信じるから存在するんじゃなくて。私からすればイリオモテヤマネコも存在しないわけ。絶滅の危機とは言われてるけど。そもそもイリオモテヤマネコ、見たことある?本当はそんな猫、いないかもしれないよ。」
「希少かもしれないけど存在はするでしょ。資料映像とかで見たことない?」
「あるよ。でも、これはイリオモテヤマネコですよーって見せられてるだけで、私自身は見たことないもん。」
「パンダは存在する?」
「パンダは存在するね。小学生の時、上野動物園で見たから。」
伊沢の話は興味深かったが「私は全世界である」ともとれる、その主張は今回の論題に不適当であることは明白だった。
ディベート本番では、伊沢が肯定的立論において「神の存在証明は個人の内面について非常にセンシティブな問題であり、また、人類史上の宗教戦争、現在も続く国際紛争の歴史を鑑み、当論題は不適格である。よって、肯定的立場は立論を行うものではなく、当ディベートを拒否する」と声高に演説し、ディベートの不成立を宣言した。これに相手である反対的立場の面々も同調し、賛成多数で「神は存在するか、否か」のディベートは突然の幕引きとなった。教諭は当然ながら激怒した。なぜ全会一致ではなく賛成多数となったのか、それは僕が反対票を投じたからである。決して教諭の心象を気にしたからではなく、伊沢のその自分本位で傲慢な主張に抗ってみたかったのだ。(これについては先の伊沢の主張を詳しく聞き及んでいたのが僕だけだったからかもしれない。)しかし、意外なことに伊沢には周囲を扇動する弁論術とカリスマ性があったのだ。
見事その本懐を遂げた伊沢だが、激怒する教諭には目もくれず、こちらをじっと見つめていた。どうやら賛成多数の有象無象よりも、唯一反対とした人間に興味を持ったようだった。
伊沢美波は変わっている。