⑧クッキー
それは火曜日の6限の終盤のことだった。
火曜日はただでさえ午前中に化学、体育、数学、英語のコンボでこのクラスの生徒を殺しにかかっている時間割だ。
その午前中の地獄の行進曲を受け、疲労が溜まりに溜まりこの6限の国語は疲れ果てて授業が身に入らない人が多いのが傍から見てすぐ分かる。
かくいう僕もつい先程眠りの誘惑にようやく勝利した所ではあるが疲労は相変わらず残ったままで集中力もなくシャープペンシルの芯をカチカチと出しては机にトントンと叩いて引っ込め、叩いては引っ込めを一定のリズムで繰り返していた。
今日の国語の授業は新しい単元の初日で、まずは教科書の小説をテープを聞きながら目を通しましょうという教師の労力を割く時間となっている。
働き方改革というやつなのだろうが、当の教師は教壇横の椅子に座りウトウトしていた。もう定年間近のおじいちゃんだからかその姿は家の縁側でお茶を片手に日向ぼっこする年寄りに見える。
その姿から「仕事しろ」と言いたくもなるがこの後に控える7限は本日2度目の数学が控えていて寝るなんてことはありえないため野暮なことは言わず皆疲労回復に努めているようだ。
教師も成績さえ取れば授業態度は厳しく取り締まらないため、受ける側としては睡眠時間同様で有難い。
あと23分...
「「「うおぉぉぉぉぉっ!!」」」
そんな男たちの雄叫びが窓側の方角から聞こえた。
1番廊下側の席の僕が聞こえたくらいだからクラス全員に聞こえたらしくウトウト船を漕いでいた数人がビクッと同時に跳ねてちょっと面白い事になっていた。
教師も今ので完璧に目が覚めたらしくまた寝ないようになのか立ち上がって教科書を手に黒板の前をウロウロし始める。
何か事件か...?
いや、どちらかと言うと歓喜の雄叫びだったような...?
雄叫びが聞こえたのはその1回きりでそのまま授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
結局、なんの叫びだったのかは分からなかった。
※
「...本当に、大変でした」
その日の夜、僕は那須と通話をしていた。
那須と初めて話してから1ヶ月。
日を空けて少しずつではあるけれど那須とのやり取りは続いていた。
あの日、那須と初めて話した日の夜
『連絡遅くなってすみません。これからよろしくお願い致します』
と短いメッセージが届いた。
事務連絡みたいな堅苦しい文面にツッコミを入れると
『すみません。メッセージのやり取りをするのは初めてなので。クラスの人には携帯を持っていないということで通しているので...』
と返ってきた。
次に連絡が来たのは翌週の火曜日。
主に内容は那須の普段溜まっている愚痴を聞いたり、僕が自分の愚痴を零したりという感じで、互いに普段なかなか愚痴を言えない環境であるため都合が良かったのだろう。
那須と連絡を取り合うのは基本メール。それもメールのやり取りをすることが精神的負担にならないように気をつけて2、3日に少しやり取りを交わす、ということが続いている。
だが、毎週火曜日は違う。特別な曜日だ。
初めて那須から電話が来た火曜日の翌週の火曜も那須から再び電話が来た。そして先週も火曜日に。約束をした訳では無いが2週も続くと自然と「火曜日は那須と通話を繋ぐ日」という認識になり、今日も午後9時過ぎに自室で勉強する傍ら「そろそろかな」と待っていると案の定かかってきた。
何故か自然と頬が緩む。
別に恋愛対象としては見ていないが学校の有名人の那須との電話。
当然このことは誰にも言っていないし、そもそも那須と交流していることすら誰も気づいていない。やり取りもスマホを通してしかしていないし。
今まで僕は誰にも期待されずにいた。もちろん頼られたこともない。
こんな僕でも誰かの力になれる。那須の相談に乗る度に心の奥が満たされていくのを感じていた。
わざと、偽らなくてもいいこの時間が心地いい。
こうしてみると那須を利用しているようで申し訳ないがまあ、そこは互いにwin-winの関係ということで。
今日の話題は今日学校で男女の班を組んだ時の話で、案の定那須と組みたい男女の間で揉めたようだ。
その話に相槌を打っていると
「あ、そうだ。揉めたといえば今日5限と6限に家庭科の調理実習があったんです」
6限...?
そういえばあの謎の雄叫びが聞こえたのもその時間...
「クッキーを作ったんですが...」
「誰が那須の作ったクッキーを誰が食べるか揉めたとか?」
当てずっぽうでそう言うと
「え!?なんで知ってるんですか!?」
やっぱり。
「男達の叫び声が聞こえたんだよ」
あの雄叫び、家庭科室の方から聞こえたあの声はやはり那須関係だったか。
じゃなきゃ普通の進学校であんな声が上がるなんて大事件だ。
「そんなに響いたんですか...。確かに教室内は耳が痛くなるくらい響いてました...」
「まあ、...那須のクッキーだからなぁ。みんな欲しがるんだろ」
「でも、出来損ないですよ?所々焦げちゃいましたし、それにクッキーは班で共同して作ったので私のではないです。私は焼くのを見てただけですし」
型抜きとか、生地作りではなく?
「あー、もしかして料理苦手だったり?」
「違いますけど...何故かみんな私にやらせてくれないんです。怪我をしたり手を汚させるのが申し訳ないと」
さすが学内アイドル。
扱いが普通じゃない。
これが日常レベルで常に行われると思うとゾッとする。
那須のストレスが溜まりに溜まっているのも分かる気がした。
「那須のクッキーかぁ......」
そんな皆が欲しがるクッキー。本人は謙遜しているが確かに食べてみたいかも。
「あ、もしかして料理下手だと思ってます?」
「え!?いやいや!そうじゃなくて!」
突拍子も無いことを言われ勘違いが確定する前にと慌てて否定する。
「むぅ...」
しかし、電話越しで那須が不機嫌に唸った。
「そうだ」
先程の声とは一転して那須は明るい声を出す。
「?どした?」
「いえ...」
那須は電話越しにクスクスと笑った。
「明日、時間ありますか?」
「あー、うん。あるけど?」
「じゃあ......」
※
次の日の放課後、午後5時15分。
那須から指定された時間に僕はいつもの神社に来ていた。那須と会う時はいつもここだ。
神社の裏手に回り込むと
「あ、お疲れ様です」
先に来ていた那須は壁に体を預けて空を眺めていた。
「お疲れ。ごめん、待たせた?」
「いえいえ」
そう言い那須は肩にかけたトートバッグの口を開きゴソゴソやり始めた。そして何かを取り出す。
「これ...もしよろしければ」
ピンク色の小さな紙の包みを渡される。
那須に「なんだ?」と視線を送ると左の掌で「どうぞ」と促してきた。
怪訝に思いつつ口を留めていたシールを剥がし中を覗くとそこにはマーブル柄のクッキーが数枚入っていた。
バターの良い匂いが立ち込め見るからに美味しそうだ。
「押川さんが私の腕を疑っているようだったので」
昨日の電話の勘違いはそのまま解けていなかったらしい。
だとしたら悪い事をした。
「ごめん。悪気はなかったっていうか...僕はただ那須のクッキーを食べてみたいなって、そう思っただけというか...」
気まずい気持ちになり目を逸らし、頭をかきながらそう言うと
「うぇ!?」
目を見開き変な声を出す那須の様子から何やらまた勘違いさせていることに気づいた。
「違っ!いや、でも食べて見たかったのは本当で!!」
「私のクッキー、がですか?」
コクコクッ!!と大きく首を振ると
「でも、出来損ないですよ?私元々料理しないですし、お菓子作りも昨日の家庭科の時間で、上手く出来ないとダメだから特訓しただけで」
「昨日の、ため...?」
コクリと那須は頷く。
「...みんなが望む那須祈は完璧じゃないといけないので......」
悲しげに目を伏せる那須を見て、僕はーーー
袋から1枚クッキーを取り出して食べた。
市販の物とは違ういかにも手作りといった味が口に広がる。
でも、手作りでこの味は上々...かつ那須の手作りというプラスの価値も付いて唯一無二の希少な物になっているのではないだろうか。
「美味い」
「...!本当ですか!?」
僕はもう1枚取り出し口に入れ
「ん...那須はさ、自分のこと不必要に卑下しているようにみえるけど、こうして出来なかった事を出来るように特訓したんだろ?それが体裁を整えるって目的だったとしてもさ。だったらその努力は評価されるべきだよ。確かにその努力のことなんて誰も知らないんだろうけどさ、自分だけでも、それは認めなきゃやってらんないって」
「押川、さん......」
「それに」
更に1枚口に入れつつ
「...少なくとも、僕は知ったから。料理が出来ない段階からこんな美味いクッキー作れんなら凄いって......あ......」
袋をカサカサと漁る。
「?どうしました?」
那須も僕の顔を覗きこんでくる。
「......なくなった」
パクパクと食べていたからか袋の中身を早くも食べ尽くしてしまった。
あまりの旨さに手が止まらなかった。
もう1枚...もう1枚と手を伸ばしていたからその次の1枚がないと理解した瞬間軽く絶望に似たものを感じる。
願わくばまだ食べ続けていたかった......話しながらだったから意識が分散していたが、ああ、なんで僕はもっと味わって食べなかったんだろう......
「ふふ...」
気づくと那須が僕に背を向け口に手を当ててクスクス笑っていた。
那須は笑いを堪えながら振り向く。
「また、作ってきますね」
「僕、何か変なこと言った?」
クッキーに夢中になりながら話していたから深く考えないで話していたがそう言えばなんか恥ずかしいことを言ったような気もしてきた。
「いえ、そうではないです。でも、...なんか、コロコロ表情が変わっていく押川さんがなんだか可愛くて......あ、変な意味じゃないですよ?」
そんな自覚はなかったのだが
「そんなに表情変わってた?」
「ええ、それはもう。クッキーがなくなった瞬間なんか世界の終わりみたいに瞬間的に暗ーい顔になって...」
再び那須は思い出し笑いをして
「大丈夫です。お世話になっていますし、リクエストがあれば押川さんにはまた作って来ますから。といっても今の私にはクッキーくらいしかレパートリーがないですけど」
ニコニコ笑うその瞳、口元、仕草に惹き付けられる。コロコロと笑う鈴のような声も耳に心地良く、このままずっと聞いていたくなるような気持ちに駆られる。
これが多くを虜にする那須祈マジックか......
「...さんきゅー。でも、無理しなくていいぞ?気が向いた時とか、暇な時があればで」
恥ずかしくなり視線を逸らしつつ言うと
「精進します」
秋風に揺れる髪を抑えながら那須は言った。