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夫の携帯  作者: 真蛸
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 意識を取り戻すと、最初に目に入ってきたのは黒い覆面をかぶった男の、覆面の奥の眼だった。その背後に例の像が蝋燭の灯りに浮かび上がっている。像はやはり悪魔のようだった。

 手を上げようとしたが動かない。椅子に縛りつけられていた。周りを覆面の男たちに取り囲まれているようだ。横を見ると翔クンも椅子に縛りつけられていた。そのうえ、猿ぐつわまでかまされていた。目の前の覆面の男が、夫の声で言った。

「なぜこんなところに来たんだ」

「あなたが……心配だったから」

「俺が心配? おためごかしを言うな。何がどう心配だったんだ、言ってみろ」

「夜中に、こっそり出かけていくみたいだから……」

「それで心配だったと? それは俺を心配したのじゃなく、浮気でも疑っていたんだろう。お前は自分の身が心配だったんだよ」

「……」

「バカな女だ。好奇心は猫を殺す」

「この集まりはなんなの? 悪魔の儀式?」

「そうだ。世界悪魔協会日本支部東京サークルの集会だ。見られたからには帰すわけにはいかない。生け贄になってもらうぞ」

 むぐう、と翔クンが変な声をあげた。涙と埃で酷い顔になっている。

「そういえば、なんだ、こいつは」

「翔クン……春井翔さんといって、同じマンションに住んでる……ちょっとした知り合いよ」

「フン」

 夫はじろじろと翔クンをねめ回す。

「そうだ、生け贄なら、私のような中年の、オ、オバサン、なんかより、若いひとのほうがいいでしょう」

 翔クンの方をちらりと見ると、信じられないという目をしている。

 夫がじろりと目を向ける。

「お前も酷いやつだな。自分の代わりに恋人を差し出すのか」

「このことは誰にも言わないから。私も仲間に入ります。夫婦じゃないの。お願い」

「残念ながら女に入会資格はない。ではご希望通り、そっちの若造から始めよう」

 おがーっ。翔クンが変な声をあげて暴れだした。しかし椅子にしっかりとくくりつけられているので、身悶えしているようにしか見えない。

 覆面男の一人が、スタンガンを取り出し、翔クンの首すじに押し当てると、体が一瞬びくりとはね、すぐにがっくりと静かになった。せっかくの護身用だったが、取り上げられて却ってアダとなってしまった。

 数人の男が取り囲み、翔クンの体を椅子から目の前の祭壇に横たわらせた。ビリヤード台のような外観だった。というより、ビリヤード台を祭壇として利用しているようだった。

 しばらくごそごそとやっていた男たちが祭壇から離れると、翔クンは全裸にされて両手両足を大の字に、ロープで大の脚に固定されていた。

 夫が進み出て、祭壇の向こうの悪魔像に向かって呪文を唱えはじめる。すると周りの男たちも唱和しはじめた。呪文はなにを言っているのかまったく聞き取れない。そもそも日本語ではなさそうであった。

 夫がひときわ大きな声を出して右手を上げると、その手には大ぶりのナイフが逆手に握られていた。柄には凝った意匠が施されているようだった。手が振り下ろされ、刃先が翔クンの胸の中心に吸い込まれていった。

 グッ、と翔クンの口から声と血が飛び出してきた。ショックで目が覚めたようで、眼を見開いた。一瞬で、脂汗が鱗のように全身にびっしりと浮かんだ。夫はナイフをゆっくりと、下腹部の方にスライドさせていく。血が霧のように噴き出し、赤い紗のカーテンがかかったようになった。アガガガガ……と人間の声とは思えない音を出し、翔クンの顔は赤くなり、紫色になり、舌が口からはみだし、でろりと垂れた。股の間からおしっこが噴出した。大便も漏らしているようだった。腹の傷からは、腸がにょろにょろと出てきて、生き物のようにうごめいていた。糞尿の臭いと、いやそれ以上に血の生臭い匂いに、吐き気がしてくる。夫はビールジョッキを左手に持ち、胸の近くの割れ目にずぶずぶと沈めた。ジョッキが完全に見えなくなったとほぼ同時に、翔クンがびくんびくんと体を痙攣させ、体を突っ張らせ、そのあと弛緩させて、それきり動かなくなった。

 夫がビールジョッキを腹から取り出すと、それはどす黒い血で溢れていた。

 それを悪魔像に捧げる。自分は助かるのだ!

 ……と思いきや、夫は振り返るとそれを地面にたたきつけた。ガラスが砕け、中身が飛び散った。

「バカめ! 悪魔が男などありがたがるか! お前のような穢れきった、それも心も体もだ、そんな女こそ悪魔の生け贄にふさわしい」

 男たちに囲まれ、暴れる間もないうちに、さっきまで翔クンが横たわっていた祭壇に横たえられた。手足が縛り上げられ、服のあちこちにナイフで切れ目を入れられ、はぎ取られていく。

「やめて、あなた。愛してるのよ」

 血と汗と糞尿がぬるぬると気持ち悪いうえに、ものすごい悪臭だ。

「俺のことを愛しているというのか」

「そうよ、あなた。お願い」

「それなのに浮気をしていたのか」

「さみしかったのよ。愛しいひとに相手にされなくて……」

「なるほど、そこまで俺のことを愛しているのだな」

「そう、そうよ。愛しているわ」

「そのように愛するものに、その愛を裏切られる。悪魔にもっとも喜んでいただけるシチュエーションだ」

 そう言うと夫は、翔クンのときとは逆に、へその下にナイフを突き立て、そこから乳房の間までを浅く切り裂いた。血が噴出して赤い霧となり、腸がにゅるにゅると躍り出てくる。夫が体内に手を突っ込み、心臓を探り当てるころには、美根子は全身にびっしり汗をかき、涎を垂らし、失禁し、大便を漏らし、白目を剥いていた。

〈了〉

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