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夫の携帯  作者: 真蛸
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「いちおうフラッシュライトを用意したよ」

 フラッシュライトとは何かと思ったら懐中電灯のことだった。若い子ってのは懐中電灯にまで横文字を使うのか。しかしそれを言うと「オバさんくさい」などと言われそうなので黙っておく。

「護身用にスタンガンも買った」

 電気シェーバーくらいのの大きさの黒い箱を二つ見せられ、一つを渡された。

「自分用と美根子さん用に一個づつ。これで旦那さんがまた深夜徘徊を始めても準備万端だね」

 すっかり娯楽として楽しんでいる。バカな子。かわいらしく感じるときもあり、そういうときがほとんどなのだが、うっとうしいときもある。このときのように。

 夫の「深夜徘徊」に関しては、翔クンの予想が当たった。何日かして、深夜に出かける気配があった。一度目のドア開閉のところで、翔クンの携帯に自分の携帯からかけた。約束通り、向うが出てから一拍置いて、何も言わずに切る。

 二度目のドア開閉音のあと、ドアスコープから夫の姿がエレベーターホールに消えるのを確認してからそっと家を出た。階段を駆け下りて、一階でエレベーターホールとは反対のほうに走る。脇道に翔クンの車が停まっていて乗り込むとすぐに出発した。翔クンは電話が鳴るとすぐに近所のアパートから出て駐車場に行き、車をここまで移動させたのだ。翔クンの部屋は最上階の八階なのだが、このためにわざわざ近くのアパートの一室を借りたのだ。

 翔クンは深夜で空いている道を猛スピードで走らせた。前回のパーキングはナビにマークしてあるので、先回りする作戦である。夫の目的地が同じとは限らないので、これは賭けだった。パーキングでしばらく待って来ないようであれば今日はあきらめるつもりだった。夫が帰るのはいつも明け方近くになってからだったので、じゅうぶん間に合うはずだった。

 翔クンは飛ばしに飛ばして、三十分ほどでコインパーキングに着いた。この前は五十分近くかかったことを考えると、かなり無茶をしたようにも思えるが、翔クンの運転は不安を感じさせなかった。

「ウヒャー、なんかぞくぞくするね」

 前回、夫の乗った車が停まったパーキングまで歩いているとき、翔クンが言った。二人ともマスクに帽子で、傍から見るとかなり怪しいだろうなと思う。空気は冷たく冴え、空の月は満月に近かった。

「あれ、しまった。隠れるとこないね」

 目的のパーキングにつくと翔クンが言った。敷地内には何台か停まっていたが、その陰に隠れるのも変だ。ないとは思うが万が一持ち主が帰ってきたら通報されるかもしれない。といって道路に立っているのも怪しまれる。中央分離帯のブッシュに隠れる? 痛そうだし、次の行動に支障が出そうだ。

「あ、あそこにしよう。ちょっと遠いけど、逆に言えば敵からも見つかりにくいってことだから」

 翔クンが指差したのは、地下鉄氷田町駅への階段ブースだった。しかし入り口にはシャッターが下りていた。

「ここでじっとしてれば目立たないよ、きっと」

 シャッターに背をもたせて、二人ならんで腰かけた。

「そろそろ寒いねー」

「そうね」

 翔クンの囁き声に、囁き声で答える。

「ぞくぞくするねー」

 翔クンがさっきと同じことを言う。なぜこんなに積極的なのか不思議だったが、わかったような気がした。刺激が欲しいのだ。変わったシチュエーションを楽しんでいるのだ。

 いきなりキスしてきた。

「ちょっと、こんなとこで」

 羞恥で顔が赤らむ。息が荒くなってくる。

「うん、ちょっとあったかくなった。あまり夢中になるとまずいからこの辺で」

 自分から始めておいて、翔クンは殺生なことを言う。しかしそろそろ冷えてきた体が火照って温まったのは確かだった。しばらく肩を寄せ、肩を抱きあってじっとしていた。

「あれじゃないかな」

 うとうととしかかったところに、翔クンの声がした。パーキングに一台の車が入っていくところだった。薄い照明の下では、黒っぽいセダンだということくらいがようやく見える程度だ。ここからでは見えづらいが、ドアを閉じる音が四回なるのが聞こえた。

 少しして、人影の集団がパーキングを出てきた。夫と女の二人を予想していたので、これは意外だった。黒い塊になっているのでよく見えないが、五、六人はいそうだった。体格や歩き方からすると、全員男のようだ。黒い塊は、こちらに近づいてくる。中に夫らしい影も見える。どうしようか。下手に動くと却って目立ってしまう。そのとき、翔クンがそろりそりと立ち上がった。回している腕に引かれるように、一緒に立ち上がる。

「ゆっくり、横に動こう」

 シャッターに背中を接するばかりにして、そろそろと横歩きに移動していく。角に沿って建物の側壁に回り込んだときには、思わず息が漏れた。

「なんか、スリルだねー」

 お気楽な調子で囁く翔クンがひどく頼もしく感じられる。

 側壁は、隣のビルとの隙間が五十センチばかりあるだけだった。顔を半分覗かせると、夫とその仲間の集団が近づいてくる。深夜に、コツンコツンと足音を響かせて歩いてくる。見つかるかもしれない緊張感に体を震わせる。まあ、何も犯罪を犯したというわけでもない。夫に見つかったら少々バツの悪い思いをするだけだ。と開き直ったら少し落ち着いた。

 団体はしかし、地下鉄出入口の前に集まった。すぐ目の前だ。やはり息を殺してしまう。全員がスーツを着ているのが異様だった。集団の中の二人がシャッターの前にかがみこみ、下の方に手をかけて持ち上げた。ガラガラとびっくりするような音を立てて、七十センチほど開いたところで後ろで控えていた夫らしき人物が、身をかがめてシャッターをくぐる。続いてそこにいた全員が建物の中に入っていった。数えると、いつの間にか人数は十二人に増えていた。

 最後の人影が中に消えてから、五分ほどは息をのんだままじっとしていた。

「開くんだ、驚いた」

 とうとう翔クンが言った。ちょっと間をおいて、「で、どうしよう」と付け加えた。

 シャッターの前に行き、腰をかがめて中を透かして見ると、常夜灯にぼんやりと階段が浮かび上がっているが、奥は死角になっていて様子は伺えなかった。

「入ってみましょう」

 身をかがめたままシャッターをくぐった。

「わお、大胆だね」

 翔クンもそう言ってついてくる。足を忍ばせてゆっくりと階段を降りた。二人ともスニーカーなので足音は立たない。

 階段は、途中で狭くなったり、直角に折れたり、横にエスカレーターが併設されたりしながら続いていった(エスカレーターはもちろん停まっていた)。地下鉄の階段って、こんなに長かったかしら、いったいどこまで降りるのかしら、と思ったころ、広い通路が見えた。慎重に、壁に背をぴったりと寄せ、少しづつ、様子をうかがいながら降りていく。常夜灯の薄暗い灯りの下、人間は見当たらなかった。

 そこは通路というよりはホールのようになっていて、他の出口への通路、あるいは階段が、放射状に接続されていた。今いるところから少し離れたところに改札口があった。

「どこ行ったんだろうねー」

「改札を抜けて、下に行ってみましょう」

「え、どうして」

「他の出入口の方に行ったのなら、最初からそっちから入ればいいでしょう」

「ああ、そうか、美根子さん、冴えてるウ」

 スポンジゲートが開いていたので、そのまま自動改札を通り抜けた。階段を手すりにつかまりながら、ゆっくりと降りていく。

「ずいぶんと長いわね。さっきの時も思ったんだけど」

 不安に耐えきれず、振り向いて翔クンに言う。

「普段はエスカレーターとか使うから、あんまり感じないんだよ、きっと」

「そうか、なるほど」

 翔クンの冷静な分析に、気を取り直して下っていく。ところどころに常夜灯があり、目も慣れているので暗さへの戸惑いはもう消えていた。

 ひょっとしたら地獄まで続いているんじゃないか――。

 いい加減、疲れてきた頭で非現実なことをぼんやりと考え出した頃に、やっとホームに着いた。

 階段のところからそっとホームを伺うが、やはり人影は見えない。ホームに出て見回す。反対側のホームが常夜灯でぼうっと浮かび上がっている。何も変わったものは見えず、人影もない。――いや、あれは何だろう。

「なんか、灯りが見えるよ」

 翔クンも言った。線路のずっと向うがぼんやりと明るい。しかも、一定の明るさではなく、ちろちとと揺れている。まるで炎のようだ。

 灯りは直接届いているわけではなく、線路がカーブを描いている向う側から漏れてきているようだ。なにやら祈りというか、お経のような低い連なる声が聞こえていることに気がついた。さっきから聞こえていたのだが、いま初めて意識に昇ったのだ。

 線路に降りようと、ホームの端にしゃがみ込んだところに、翔クンが声をかけてきた。

「なんか、怖くない? もう帰ろうよ」

 さっきまでの頼もしさ、気楽さは消え失せていた。思っていたより厄介になってきたということなのだろう。

「帰ってもいいわよ」

 そう言って、線路に体を降ろした。灯りの方に歩き出す。

「やだ、美根子さんのいじわる」

 そう言って身ごなしも軽く線路に降り立つと、すぐに飛んできて上着の裾をつかんできた。もともと翔クンには気分屋のところがあるが、そしてそれがかわいいときもあるのだが、こういう大事な場面で出てくるとひどくうっとうしい。

 近づくにつれ、灯りはより明るく、お経を読んでいるような声はますます明瞭になってきた。コンクリートの床には、ところどころ水たまりができていた。側壁もじっとりと湿っぽい。ホームからは急なカーブに見えたが、歩いてみると緩やかなコーナーだった。そして思っていたよりもずっと遠かった。

 とうとう炎が直接見えるところまでやってきた。立ち止まる。

 炎といっても、大きな火が燃えさかっているわけではなかった。蝋燭が五、六本立っていて、その前に先ほどのと思われる団体がたむろしている。蝋燭の反対側には、何かの像が鎮座していた。

「これって、なにか、悪魔の儀式なんじゃない? ほら、なんて言ったっけ?」

 声はひそめていたが、わざと冗談めかした明るい調子で言った。

 返事はなかった。

「あれ、翔クン……?」

 振り返ると、翔クンはいなくなっていた。見回しても、目の届く範囲にはいない。

 ――いついなくなったのだろう。

 どのあたりまで裾をつかむ感覚があっただろう。思い出せなかった。やはり怖くなって逃げたのだろうか。薄情なやつ。自分で「帰ってもいい」と言ったことも忘れて、心の中で翔クンを罵った。

 あきらめて向き直ると、すぐ目の前に男が立っていた。ヒュッ、と、喉から変な音が出た。男は、覆面をかぶっていた。男の後ろから、左右にそれぞれ男が出てきて、両側から腕を取ってきた。目の前の男はゆっくりと覆面を脱いだ。夫だった。意識を失った。左右の男たちは、それがわかっていて腕を支えていたかのようだった。


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