3
何日かして、深夜、この前と同様の空気の震動、小声の受け応え、玄関の開閉音があった。もう一度扉が開閉されるのを待ってから部屋を出た。ドアスコープで夫がエレベーターホールに入っていくまでを確認する。このところ、すぐに外出できる格好のまま寝ているので、そのまま表に出た。今日はのんびりと階段を降りる。足音は忍ばせてはいるが。途中の階で夫が一階のエレベーターホールを出るのが見えたので、そのときは足を止めた。かなり向うまで行ったのを見届け、再び足を進める。敷地内駐車場に置いてある車に乗り込み、エンジンをかけた。同じマンションの友人に借りておいたのだ。マンション前の道路に無灯火のままゆっくりと出ると、ちょうど夫が、このまえと同じように、車の後部座席に乗り込むところが見えた。彼我の距離は約五十メートル、夫の乗った車が走り出すのを見て、ライトを点けスピードを上げた。すぐに県道から国道に出たので、周りの車も増え、尾行はそれほど気を遣わずに済んだ。
都心が近づくにつれ、ますます車が増えてきたので、あいだに一台はさんだだけの後ろにつくようにした。
夫の乗った車を運転しているのは女だろうか。なぜ助手席ではなく後部座席に乗ったのだろう。こんな時間に、なぜわざわざ都心に向かうのだろう。
国道から環状線に入り、南下していく。しばらく走った後、左にウィンカーを出し、パーキングに入っていった。続いてパーキングに入るわけにもいかず、前を通り過ぎた。少し行ったところにもコインパーキングがあったので、そこに駐車した。さきほどのパーキングに足早に戻る。車では大した距離ではなかったが、徒歩ではかなり遠く感じられた。
パーキングは七割がた埋まっていた。
――夫の乗っていた車はどれだっただろう。
確か黒いセダンだったと思うが、ここではそれはなんの特徴も表していない。車の中を覗き込んで廻ろうか。しかし、そんなことをしても、夫が車内にいなければどの車だったのかわからないし、夫が車内にいたらそれはそれで面倒だ。
さっき車を降りる前にナビで確認したところによると、ここは地下鉄氷田町駅の近くのようだ。車道にはそれなりの車通りがあったが、人通りは全くないようだった。しばらく歩道をうろうろしていると、二人連れが歩いてきた。
「おっ? お姉ちゃん、こんな時間に何やってんの?」
「お姉ちゃんつーか、けっこうオバサンじゃん」
派手な格好をした若者たちだった。足元がおぼつかないほど酔っている。
「バカお前失礼なこと言うな。ナンパ? ナンパなの? オレら、逆ナンされちゃうの?」
一言も言わず走り出した。スニーカーを履いてきてきてよかった。
「あっ待てよお姉ちゃん……オバサン……ババア!」
もう一人がぎゃはぎゃはと笑う声も遠く聞こえた。思いきり走ったのでパーキングにはすぐに着いた。車に乗り、エンジンをかける。出そうとして、このパーキングは車止めがかかっていて、料金を払ってそれを解除するタイプだったことに気づいた。車を出て、自動料金支払機のところまで走る。さっきの若者二人はどうしただろう。支払機には、まず自車のパーキング位置を入力してやる必要があった。何番だ? あわてて車の方に戻り、番号を確認して再び支払機のところに来た。「十一番」を入力する。「六〇〇円」と表示される。
「ババア、どこ行きやがったんだ?」
若者の声が聞こえてきた。こちらに歩いてきているようだ。財布を探る。小銭がない。どこか両替できるところは? パーキングの出入口付近に清涼飲料の自販機があった。しかしあそこまで買いに行くと、こちらに向かってきている若者に見つかってしまう。他には? いや、よく見たら支払機に札の投入口もあった。千円札を入れる。あせってうまく入らない。よし、飲み込んだ! と思ったら戻ってきた。向きを変えて入れ直す。まったく、こういう欠陥支払機を作っているメーカーなど潰れればいいのに。
「この辺じゃねえ?」
「エンジンの音がするな」
ガシャンガシャンと派手な音を立てて釣り銭が落ちてきた。
「おっ!」若者が声を上げる。
「ババアじゃねえ?」
車止めが下がった。ドアを開けて運転席に乗り込み、急発進させる。パーキングの出入口に若者の一人が立っていた。避ける隙はない。そのまま突っ込んでいくと、若者はあわてて飛びのいた。
「バカヤロー」
たまたま車が来ていなかったので、二車線をフルに使って左折することができたのは運が良かった。中央分離帯ぎりぎりだった。生まれて初めてタイヤを鳴らすという経験をしたが、自分の出した音とは信じられなかった。そのまま逃げるようにマンションに帰った。




