ジャズピアニストの話
「音楽は振り向かない女みたいなもので、腹が立つ奴だ。そのくせ、愛想がいいだけのくだらない男についていく尻軽で、こんなものが『音楽』ってたいそうに扱われてるのも、馬鹿馬鹿しい。目をキラキラさせて楽譜を抱えてる学生連中に教えてやりたいよ。一生懸命やるな、媚びろ、音楽なんか世の中と同じで、媚びた奴が勝つんだ」
彼の音楽論が次に移ったら、後は長い。「ニューオーリンズのバーボンストリートはいまや観光地で、音楽の代わりにキーホルダーを売ってるし、パリも……」と、幼稚な愚痴を続けさせるのが、俺は好きではなかった。
「弾いてくだろ。俺はおまえのピアノが好きなんだ」
その男の眉が歪んで、顔が上がる。
「急に黙ったな。いいから弾けよ」
脅すような不機嫌顔になったが、俺には、幸運に戸惑う不器用な子供の顔にしか思えなかった。もういい年の男のくせに。
店にはピアノが置かれた小さなステージがある。たまに人を呼んでライブをひらくのがこの店の売りだが、その男はライブの日にはこの店に来ない。客がまばらな時間にふらっとやってきて、誰にも弾かれない無人のピアノを見つめて、ぼんやり酒を飲んでいくのだ。
そいつの指が鍵盤に触れた瞬間、薄暗い空間に音の花が咲く。可憐で、それでいて気位の高い、女優が抱える花束のような音だ。
高音と低音を自在に行き来できるピアノの音はどうやっても華麗に空間を彩るが、その男が弾くピアノの音色は格別だった。
「今日の曲も、いい女だったな」
一曲弾き終えて戻ってきたそいつに拍手をすると、男は酒を飲み干して店を出ていった。
美人だなと褒めただけで、からかったつもりはないのに、人前に出すのにも嫉妬するような、それだけ大事な女なんだろう。
「それだけいい女なら、振り向かせるよりも追いかけたいよな」
そいつの気持ちも少しわかる。良すぎる女を見つけてしまっただけの哀れな奴だ。
次は一杯おごってやろう。と、そいつが空にしたグラスを片付けた。