99. 心の音色
「はぁーっ、生き返る……! 夏場でもお風呂だけはやめられないよねぇ」
「こればっかりはキッカと完全に同意見ですねえ……。はあぁ……」
月明かりの下で、湯船に身を浸しながら深い溜息を吐くキッカとカグヤ。
その二人の姿を傍らから見つめながら、エミルもまた同じ気持ちで湯船に身体を沈めた。
午前中は〈アリム森林地帯〉への採取行に同行したあと、午後はシグレから使い魔の黒鉄を借りて、東門先の『オークの森』へ狩りにも出た。
朝方から日が落ちるまでの間、魔物との戦闘に丸一日明け暮れたエミルの身体に蓄積した疲労。湯の中に身を浸していると、その疲れが溶け出していくかのような感覚があって何とも心地良い。
一日の中で最も幸せな瞬間が、自然とエミルの表情を緩ませた。
(いつの間にか僕も、お風呂が生活の一部になってしまったなあ……)
孤児院で暮らしていた頃には、湯とタオルを使って身体を拭うことはあっても、風呂なんて滅多に利用する機会など無かったというのに。
今は……もう、入浴無しの生活には戻れないな、とエミルは内心で苦笑する。
皆と共に『貸湯温泉・松ノ湯』へ通ううちに、この温泉施設で働く従業員の人達にもすっかり顔を覚えられてしまった。
さすがに『毎日』利用するような客は他に殆ど居ないだろうから、仕方の無いことだとも思う。
「それじゃ、シグレを呼びますね?」
「うん、お願いエミル」
キッカに確認を取ってから、エミルはシグレの顔を心の中に思い浮かべる。
念話を送る際には、相手の顔と名前をしっかりイメージする必要があるからだ。
『シグレ。全員湯船に浸かりましたので、いつでもどうぞ』
『判りました。ありがとうございます、エミル』
念話で連絡を入れない限り、シグレは絶対に湯船へは踏み込んでは来ない。
荒くれ者の多い掃討者にしては、シグレは珍しい程に誠実な人だった。
礼節を守り、女性であるエミル達に最大限の配慮をしてくれる。
脱衣所は女性陣の利用が終わるまで待ってくれるし。浴場にしても、エミル達が身体を軽く洗い、湯に身を浸すのを待ってから入ってくる。
キッカはそんなシグレの態度を『色々気にしすぎだって!』と笑いながら一蹴してみせるけれど。エミルはそうした配慮も含めて、シグレのことを非常に好ましい男性だと思う。
些か掃討者としては他者に優しすぎる嫌いが……言い換えれば『他人に甘い』部分があるようにもエミルには思えたが。欠点ではなく、それもシグレらしい美点だと思えばそれまでだった。
「……こんなに熱い湯に浸かるなんて、何年ぶりだろう……。十年ぶりか、もっと昔だったか……」
エミルのすぐ隣で、温泉に身を浸して目を細めている瑠璃色の髪の少女が、感慨深げにそうつぶやいた。
純血森林種であるらしいユーリという名のこの少女は、あのあと普段暮らしている森の中にある集落へは帰らず、エミル達と共に〈王都アーカナム〉へと着いて来ていた。
少女とは言っても、途方もない寿命を持つ純血森林種の年齢など、外見で推し量れる筈もない。見た目こそエミルよりずっと幼くとも、遙かに年上であることは間違いないだろう。
「お住まいの集落には、貸湯施設というのは無いんですか?」
森の中にある、同族の集落でユーリは普段暮らしていると聞いている。
その集落がどの程度の規模かは知らないが。人が集まって暮らす場所であれば、中にひとつぐらいはお風呂を提供する場所がありそうなものだが。
けれどそう思って訊ねたエミルの言葉を、ユーリはゆっくりと頭を振ることで否定してみせた。
「……無い。温泉も無ければ、風呂もない。魔法の火ならばともかく、通常の火は共同の炊事場以外で扱うことは禁じられている。……森の中にある集落だから」
「ああ、なるほど……」
森の中ともなれば、引火すれば大火災に繋がるのは必定だろうから。集落で火の扱いを厳格に管理しているというのは、なるほど頷ける話だった。
昔、掃討者の知り合いから聞いた話によると『魔法の火』であれば―――つまりスペルによって生じる火であれば、術者が意図しない対象まで燃やしてしまう心配は全く無いらしい。
シグレやライブラが火属性の攻撃スペルを〈アリム森林地帯〉で遠慮無く行使できるのはそのためだ。術者本人が周囲の環境ごと燃やそうと『意識』しない限り、魔術師が放つ炎のスペルは付近にある草木などへ絶対に引火しない。
とはいえ攻撃スペルはあくまでも魔物を『攻撃』するためのスペルなので、そのまま日常生活に転用するのは難しい。
火属性の魔法で扱い易いものといえば、生産スペルである【着火】ぐらいだろうけれど。生憎と【着火】のスペルで熾せる火だけは『普通の火』らしく、可燃物が近くにあれば燃え広がってしまう。
「では、普段はお湯で身体を拭く程度ですか?」
「……否。我々が集落としている場所には、清浄な泉がある。湯には入れないが、水浴びであればいつでもできる」
「わあ、森の泉で水浴びですかあ……なんだか幻想的ですね!」
「……そう? たぶんエミルが想像しているほど良いものではない。雨が降るだけで水質は簡単に濁るし、風が強く吹いた翌日には水面に枝や葉が沢山浮いている。それに冬場は寒い上に水も冷たくて、とても利用できたものではない」
「な、なるほど……」
エミル達がいま居る『貸湯温泉・松ノ湯』のように、適切に管理されている場所であれば清掃も行き届いているが。自然の泉ともなれば、確かに利用環境が天候などに影響される部分は多そうだ。
ユーリの言う通り、実際に利用している身からすれば『想像するほど良いものではない』ということだろう。幻想が容易く打ち砕かれてしまったことで、エミルは少しだけ悲しい気持ちになった。
「……エミルは」
「はい?」
「エミルは、シグレのことが好き、なんだよね?」
「わああっ!?」
エミルは驚きのあまり、反射的に湯船から立ち上がる。
そして、いまユーリが発した言葉が誰かに聴かれてしまわなかっただろうかと、慌てて周囲を確認した。
幸い男性陣はまだ湯殿に姿を見せていないし、カグヤとキッカの二人は何か楽しげに談笑しているようで、エミル達の会話は届いていない様子で。
誰にも聴かれなかったことにほっと胸を撫で下ろしながら、エミルはゆっくりと再び湯船に身を沈める。
「……ごめんなさい。まさかそれで、隠しているつもりとは思わなかった」
「ど、どういう意味ですか……!」
「どうもこうも、言葉通りの意味。我々、純血森林種は他者の心を聴くことに長けているが、エミルの場合はその能力を振るうまでもない。判りやすすぎて、露骨」
「……え? 心を聴く、ですか……?」
反射的に問い返したエミルの言葉に、ユーリは「そう」と首肯して応じる。
「この特徴的な耳は本来、普通の人間には聴こえないものを聴くためのもの」
そう言ってユーリは、彼女の瑠璃色の髪から飛び出している森林種ならではの先細りに尖った両耳を、ぴこぴこと動かして見せた。
「純血を継ぐ純血森林種は、古い時代に森林種が有していた特別な能力の幾つかを、今でも失わずに有している。
そのひとつが、他者の心を『聴く』こと。言葉に出さなくとも、相手の心の中に溢れた『声』を私達は聴くことができる」
「そ、それは……相手の考えていることが判る、ということですか?」
熱い湯の中に全身を浸しているにも拘わらず、思わずエミルはぞっと背筋が凍り付くかのような感覚を覚える。
―――もしそうであるのなら、シグレのことを『好き』だと思っているエミルの気持ちがユーリに知られてしまうのは、無理ないことだと思えるからだ。
だって今朝は、採取に行った〈アリム森林地帯〉から〈王都アーカナム〉へ帰るまでの間ずっと、ユーリはシグレの片腕にしがみついていたのだ。
その様子をずっと傍で見せつけられ、一体エミルは何度ユーリを(羨ましい)と思ったか知れない。
もしユーリが他者の心を読めるというのであれば……。その瞬間にエミルが抱いていただろう羨望や嫉妬の感情から、エミルが胸の裡に秘める恋情を、ユーリに知られてしまっているのは当然のことだと思えた。
「……否。生憎と、そこまで便利なものではない。安心して」
けれどユーリの口からまず告げられたのは、否定の言葉だった。
「他者の心から聴こえるのは、心の動きに併せて発せられる、表面上の音色だけ。相手が抱いている『感情』がどういった類のものか漠然とは判っても……実際にどのようなことを考えているかまでは、全く判らない」
「な、なるほど……そういうものなのですね」
「エミルは私が今朝、皆の前で『シグレとなら子を作りたい』と宣言したことを、覚えている?」
「……え、ええ、まあ。覚えていますよ……」
ユーリが今朝放ったその台詞を、どうして忘れることなどできるだろう。
それぐらいエミルにとっては印象的で―――そして衝撃的な一言だったのだ。
「あれは……半分は本気だった、と思う。銀血種であるシグレは、それぐらいの私達のような純血森林種にとっては都合の良い相手だから。
……だけど、もう半分は誇張であり、欺瞞。シグレが好ましい人物であることは判っているつもりだけれど、さすがに出会って初日のうちに子作りのことまでは、私も考えたりしない」
「は、はあ……。では何故、あんなことを言ったんです?」
「あなた達の心が『動揺』することを誘うため。心は強く揺さぶられたときにこそ最も大きくて判りやすい音を奏でる。子が欲しい、という強い印象を与える言葉で宣言すれば、誰が私の恋敵になり得るのかを判別する役に立つと思った。
―――もっとも、心の声に耳を傾ける必要なんて全く無かった。エミルを含め、その場の女性全員がシグレに対してどんな感情を抱いているのかは、心の音を聴くまでもなく判りやすいぐらいに明らかだったから」
「………………そんなに僕、判りやすいですかね?」
「判りやすいし、露骨だし、一目瞭然。……私がシグレの腕にしがみつくだけで、顔に『羨ましい』ってでっかく書いてあった。
……他人に羨望を抱くぐらいなら、エミルも私と同じようにシグレのもう片方の腕にしがみついてみればいいのに。どうせシグレは優しいから、困り顔をするだけで振り払ったりはしてこない」
「で、できないですよ。そんな恥ずかしいこと……」
「エミルは、へたれ」
率直にユーリから『へたれ』の烙印を押され、エミルはがくりと項垂れる。
自分でも少なからずそう思うだけに、否定の言葉も吐けはしなかった。
「……でも私は、エミルが羨ましくもある」
「僕が、ですか?」
意外な言葉だったので、思わずエミルが振り返ると。ユーリはゆっくりと静かに頷いてみせた。
「林道を帰る途中で何度か魔物と戦闘になったとき……シグレから『戦闘には参加しなくて構わない』と言い含められていた私は、参戦もせずにただ皆が戦う様子を後ろから眺めていた。
……傍観者に徹していればこそ、よく判る。シグレは戦闘の中で多彩なスペルを行使しながら、同時に皆へ『指示出し』をするリーダー役を兼任している」
「あ、はい。そうですね……戦闘ではシグレが命令役を担っています。常に変動する戦闘の状況に、誰よりも気を配っているのがシグレなので」
味方を助けるスペルと、敵を挫くスペル。その両者を扱えるシグレは、戦闘中の状況把握に余念がない。
なんでも以前シグレ本人から聞いた話によれば、戦闘中は常に〈斥候〉スキルの〈千里眼〉を自身の空中後方に飛ばすことで、本来の視界に加えて俯瞰視点からも広く戦況を注視しているらしいのだ。
戦闘の全容を把握していればこそ、シグレが行使するスペルには無駄がない。回復や支援のスペルはエミルが欲しいと思ったときに届くし、攻撃や妨害のスペルも魔物に最も効果的なタイミングで機能する。
戦闘職の天恵を〈盗賊〉ひとつしか持たないエミルは本来、パーティで前衛役を担えるだけの、充分な強さは持ち合わせていない。
それでもカグヤの補助として、必要に応じてエミルが前衛役を務めることができているのは。偏にシグレから手厚いサポートを受けられるからに他ならなかった。
「シグレは……エミルのことを、とても上手く使う」
ユーリの言葉に、エミルは少なからず驚かされる。
〈アリム森林地帯〉からの帰り道、林道上で魔物に襲われた回数はさして多くも無かったのに。よく見ているなあ―――と、驚きと同時にエミルは感心もした。
「……私はそれが、凄く羨ましい。シグレはエミルのことを、とてもよく『理解』している。『信頼』していると言ってもいい。
シグレは自分が出した指示通りにエミルが動いてくれると信じている。エミルもまた、シグレの指示が自分の可能性を最大限引き出してくれると信じて疑わない。
二人の間に、絶対的な信頼が構築されているのが判る。……それが、羨ましい」
「お恥ずかしながら、僕は戦闘に集中すると視野が狭くなりがちなので……。自分で考えて行動するよりも、シグレに全部委ねてしまうほうが上手く行くんです」
それはシグレに任せて思考を停止させてしまうという意味ではない。
シグレがエミルのことを理解してくれるのと同じように、エミルもまたシグレを理解している。どこか自分に自信を持てないエミルではあったが、このことだけは自惚れでなく、そう思うことができた。
シグレの〈斥候〉とエミルの〈盗賊〉の二つは共通して修得できるスキルの多い近似職業だが、生憎と〈盗賊〉では〈千里眼〉のスキルを覚えられない。
エミルはシグレと違い、俯瞰視点から戦場を眺めることはできないのだ。
それでも―――エミルはシグレのことを理解している。シグレが自身や他の皆に対して出す指示の言葉を聴いていれば、いつしかエミルはその内容からシグレが眺めている視点を自分も重ねて視ることができるようになっていた。
「……エミルはまるで、私と同じ純血森林種みたい」
「え?」
「もっとも―――あなたが聴ける心の音色は、シグレ限定みたいだけれど」
ユーリはいま一度「……羨ましい」と、ぽつりと零してみせる。
そうであれたなら嬉しい、と。エミルもまた静かに思った。
「あっ、ようやく来た。おっそーい!」
「すみません。着替え中にユウジから念話が来たもので、少々手間取りまして」
キッカが上げた声に気付いて入口側を見ると、ようやくシグレとライブラの二人が浴場に姿を見せていた。
上半身裸のシグレの身体を見ると、エミルはいつも少しだけ不安になる。
あれだけ掃討者として精力的に活動しているにも関わらず、シグレの体付きは、どこか不健康な痩せ方をしているようにしか見えないるからだ。
とは言え、シグレに連れられて初めてこの温泉を利用したときに較べれば、これでも随分と彼の肉付きはマシになったほうだとは思うのだけれど。
(にしても、本当に男性だったんだなあ……)
そしてエミルは同時に、シグレの隣を歩くライブラの姿を見ながら、そんなことを思ったりもする。
シグレと同じく下半身だけをタオルで覆い隠したライブラの姿格好は、彼が男性であることを如実に示していた。
男性なので当然胸の膨らみも無いわけだけれど。悲しいことに、これに関してはそもそもエミルは人をどうこう言える立場には無い。
「……も、もしかして。ライブラは……お、男のひと?」
ここまでずっと、どこか平坦な口調で落ち着いた言葉を発していたユーリ。
そのユーリが、今は顔いっぱいに驚愕を露わにしながら。震える指先でライブラのことを指さしていた。
「そっか、ユーリは知らないのでしたっけ。ああ見えて男性らしいですよ?」
エミルがそう告げると、ユーリの表情に溢れる驚愕はより色濃いものとなった。
(……どうしたんだろう?)
訝しんだエミルが、ユーリの表情を覗き込むと。
顔を近づけたエミルの耳元から、ユーリが囁くように告げた。
「私が……シグレの腕に絡んでいたとき、聴こえた『羨望』の音色は三つあった。ひとつはエミルのもので、ひとつはカグヤのもの。そして最後のひとつが……」
震えるユーリの指先は、猶もライブラのことを指し続けている。
「今まで男は僕ひとりでしたから……。ライブラが来てくれて、嬉しいです」
「そうですか? ボクでよろしければいつでもお風呂にご一緒しますよ!」
ユーリの指し示す通り。シグレの隣に陣取って湯に身を浸すライブラの位置は、二人の肩が今にも触れそうなほど近しいように、エミルからは見えた。
4章(+番外編)の内容は以上になります。
ここまでお読み下さり、ありがとうございました。
今章中は、とにかく投稿ペースが不安定で大変申し訳ありませんでした。
次章では安定したペースで投稿できるように、もっと頑張ります。




