08. 王都アーカナム - 4
[6]
「おや、もう出掛けるのかい?」
宿の部屋を出たあと、階段を降りた所で緩い割烹着のようなものを羽織った年配の女性に話しかけられる。
シグレにとって面識の無い相手―――なのだが、そもそも先程まで居た部屋自体がゲーム開始時に勝手に割り当てられたものであって、シグレが自分で取った宿ではないのだから当然と言えば当然である。
口調や格好から察するに、おそらくは彼女がこの宿の女将さんなのだろう。
「はい、ありがとうございました。部屋の鍵をお返ししますね」
「鍵を返すってことは、連泊はしないってことでいいかい? 代金さえ払ってくれるなら、同じ部屋を使い続けて貰っても構わないけどね」
シグレから鍵を受け取りながら、女将さんがそう訊いてくる。
―――そこまでは考えてなかった。
この世界に『自宅』は無いのだから、どうせどこかに宿は取らなければならない。別にこの宿に拘る理由も無いが、とはいえ別に様々な宿を渡り歩きたいという欲求もない。
街中の地理もまだ全く知らない現状では、ひとまずこのまま同じ部屋を借り続けたほうが賢明だろうか。いま部屋を引き払い、夕方頃になってから新たな今晩の宿を探し求めた結果、なかなか空室のある宿が見つからない―――もしそんな状況に陥れば面倒ではある。
ゲームの開始時にも深見から「なるべく街の宿屋などの施設を利用して安全な場所で眠るようにしてください」との警告も受けている。
仮に宿が見つからなくても最悪野宿すればいい、という考えは捨てるべきだろう。
「そうですね……。では今晩も同じ部屋を使わせて頂けますか」
「あいよ、昨日と同じで200ギータ貰うからね。それじゃ朝食を出して構わないかい?」
「お願いします」
「鍵は返すよ。好きな席に座っておくれ」
そう言うと女将さんは一度受け取った鍵をシグレに返してから、カウンターの向こう側へと離れていった。
解説書で「宿の一階は食堂」であることが多いと記されていた通り、どうやらこの宿でも一階は食事処と酒場を兼ねているようだ。店内にはカウンター席が十ばかり設けられており、他にもテーブル席が幾つか設置されている。
朝だからなのか店内はやや閑散としている感が否めないが、幾つかのテーブルには数人ずつの利用客の姿を見ることができ、中には酒を呷っている人達も居るようだ。
まだ朝なのに……いや、それとも朝まで飲んでいたのだろうか。
ひとまず誰にも利用されていないカウンターの座席に腰を下ろし、シグレは〈インベントリ〉から『意識』して200gitaを取り出す。シグレの右手の中に現れた二枚の硬貨は、どちらも鈍く金色に輝いていた。
日本の硬貨と違って額面が掘られていないので、見た目だけではこの硬貨に幾らの価値があるものなのか判断がつかない。
お金を取り出したことで〈インベントリ〉に記されている所持金の表示がきっちり『2,800gita』に減っているため、これが一枚100gita相当の硬貨であるのは間違い無いようだが。
先方が取りやすいようカウンターの一段高い場所に200gitaを置くと、ちょうど女将さんがシグレの席にまで朝食を運んできてくれた。
「はいよ、パンは無料でおかわりできるから、必要なら言っとくれ」
「ありがとうございます、今晩の宿泊費はそちらに」
「うん、丁度あるね。じゃあ確かに、今晩の宿代も頂いたってことで」
出された朝食を受け取りながら、カウンターに置いた二枚の硬貨を受け取って貰う。
(これは……美味しそうだ)
提供された朝食を見て、思わずシグレはごくりと喉を鳴らす。
朝食の内容は平べったい楕円形に延ばされた薄焼きのパンが2つと、半熟の目玉焼きにチキンの香草焼き。朝から肉料理を出されることに少し驚かされるけれど、こちらの世界では珍しく無いのだろうか。
出されたパンは焼きたてなのか、手に取るとまだ意外なほどに熱い。フォッカチオに良く似た形状のパンを、熱さをごまかしながら両手で千切って口の中に放り込むと、その温かさと生地表面の香ばしさ、そして口から鼻へと抜ける肉桂独特の香りに思わずシグレの顔が綻ぶ。
―――美味しい。
病院の買店で売っている、冷え切ったパンとは全くの別物だ。
「パンはうちの自慢だからね、気に入って貰えたなら嬉しいよ」
言葉に出したつもりは無かったのだけれど、表情の変化を見てシグレの満足感を読み取ったのだろう。温かな湯気を昇らせている、お茶か何かが入ったマグカップをシグレの前に置きながら、女将さんが嬉しそうにカラカラと笑ってみせた。
気に入ったなんてものではない。可能なら毎日でも頂きたいものだ。
「チキンはちょっと味付けを濃いめにしてあるからね。パンで挟んでも美味しいよ」
「なるほど、やってみましょう」
それは絶対に美味しそうだ。
早速、あまり使い慣れないフォークとナイフを駆使して、女将さんに言われた通りパンに香草焼きを挟んでみると。これが馬鹿みたいなぐらいに美味しかった。
妹が時々テイクアウトで持ち込んでくれる、チェーン店のハンバーガーの味なんて消し飛ぶような鮮烈な美味しさで、朝からぐぐっと一気に目が覚めてくる思いがする。
付け合わせの目玉焼きとの相性も良く、シグレはあっという間に皿の上を平らげ、思わずパンをひとつおかわりまでしてしまった。
これでも普段は、妹や看護師の方にちょくちょく小言で叱られてしまう程度には、食が細いほうなのだけれど―――人間、本当に美味しいと思えるものと出会ったときには、自然と胃袋が広がってしまうモノであるらしい。
おかわり分も難なくお腹の中に収めてしまった。
普段の病院の朝食も、これぐらい美味しければ文句もないのだが。
[7]
天を見上げれば眩しい太陽。
快晴の中で広がる周囲一面の景色は、見事なまでに再現されたファンタジーの世界である。
(ご馳走様でした)
『小麦挽きの家処亭』と、日本語で書かれた看板が掲げられた宿に小さく一礼してから。シグレは世話になった宿を離れて街路を歩き出す。
今晩の宿代を払っているから、夜が更ける前にはまたこの宿にまで戻ってこなければならない。歩く傍らで周囲を見回して幾つかのめぼしい目印を見つながら、シグレはそれを忘れないよう心に刻む。
視線を景観のほうに巡らせていると、不意に街路の凹凸に脚を引っかけて転びそうになり、思わず焦ったりもする。
シグレ本人が『歩く』という行為に慣れていないということもあるが。そうでなくとも石畳で作られた街路はアスファルト製の道路に比べて固く、所々に出っ張っている部分もあって案外歩きにくい。もし転んでしまったら、固い石畳の街路はきっととても痛いだろう。
けれどそうした些細な不自由さも、こうして自分の足で思う儘に歩き回る機会自体が久しぶりのシグレにとっては気にもならなかった。
誰の手も借りず、誰にも迷惑を掛けずに思う儘に歩き回れて。自分が歩いた距離のぶんだけ、自在に景色を変えることができる。そんな普通で当たり前の事が、けれど堪らなく嬉しい。
ガスを撒き散らす自動車など当然走ってはおらず、乗り物といえば時折見かける荷馬車しか存在しないこの世界の空気は、とても澄んでいて心地良い。
煉瓦や石を積んで造られたものが多い街路に並び立つ二階から三階建ての家々は、建物毎に小さな特徴を持っている上、背の高さが不均衡で眺めているだけでも楽しい。
街路は緩やかなカーブを描いていることが多く、案外真っ直ぐには進まない。
そのせいか街路に沿って並び立つ建築物に視線が阻まれて、遠くを見渡すことはできないけれど。時折風に乗って潮の香りが届く気がするから、案外この街は海に近い所にあるのだろうか。
いつかテレビ番組で見た、欧州かどこかの海沿いの街の雰囲気に似ているだろうか。
日本人にとっては馴染みのない景色ばかりが続き、あまり見分けが付かなくて時折迷いそうにもなるけれど。自分の視界に『マップ』を開いておけることに気がついてからはその心配も無くなった。
『マップ』には現在地が『王都アーカナム』という名の中央都市であることが記され、その全域図が表示されている。
とはいえ見て判るのは都市の街路と各建物の形状だけが記された俯瞰図だけであり、そこに記されている個々の建物が何なのかまでは判らない。但し『掃討者ギルド』のように都市の中でも重要な幾つかの施設に関してだけは、『マップ』の中に最初からその位置が記されていた。
そして目的地の位置さえ正確に判っていればシステム的な補助が働くのか、どうやらそこに辿り着くまでの順路というのは何となく〝感覚的に〟理解出来るようになっているらしい。一度『マップ』を開いて現在地と目的地を確認してしまえば、あとは初めて歩く入り組んだ景観の中であっても、まるで長年住み慣れた街並みを歩くかのようにシグレは全く迷わなかった。
常々(良く出来たゲームだなあ)と思い知らされる。
街を歩いていると、ここが『ゲームの中の世界』であることを忘れてしまいそうになる。
……というか、さっき朝食を食べていた最中などには、すっかりそのことを忘れてしまっていた気もする。それ程にこの世界〈イヴェリナ〉は完成度が高い。
景色も料理も、そして人も。どれを取っても現実と遜色を見出すことができない。
シグレの知っている世界とは景観が異なっていても、この世界からは人の営みや息遣いが感じられる。生きている街の景色というものが、確かにシグレの目には見て取れるような気がした。