76. 雨期が開けて - 2
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三週間は続いた〈イヴェリナ〉の雨期が明けたのは、まだ昨日のことだ。それも雨が止んだのは昨日の正午を少し過ぎてからのことだったので、雨期明けの朝方を過ごすのは今日が初めてだった。
こちらの世界の『雨期』は明確で、日本の梅雨のような不安定さはない。いちど最初の雨が降ったが最後、雨期が終わるまでずっと雨は降り続けるし、逆に言えば雨期に入った後に一度でも雨が止めば、それは雨期の終了を意味していた。
まだ空には幾つかの雲が点在するように浮かんでいても、どの雲も透き通るように白く、その中に雨雲らしき存在は見られない。
空は果てなく高くなり、降り注ぐ陽射しは暑い。
現実世界に於いて冷房の効いた病室から殆ど出る機会のないシグレにとっては、暑い思いをすること自体がなかなか貴重な体験でもあった。
―――そう。雨期を明けた世界は、一気に初夏のものへと様変わりしていた。
昨日も雨が止んだ後から夕方頃に掛けては、降り注ぐ陽射しを率直に『暑い』と感じられる程度には、気温も夏らしいものへと高くなっていた。
今だって、まだ朝の9時頃だというのに。既に街中にはそこかしこに夏ならではの陽気が溢れているように感じられる。
(それでも、まだ朝の内は過ごしやすいか……)
昨日の暑さを思い出しながら、時雨は内心でそう思う。擦り抜ける風に涼しさが混じっているので、まだこの時間であれば暑くともそれほど不快ではない。
折角晴れたのだから狩りに行こうか―――昨日は雨が止んだのを見て一度はそう思ったシグレだったが、結局その日の内に街の外へ狩りに出ることは無かった。
暑い、というのはそれだけで体力を消耗させる。現実でも、そしてこの世界の身体でも多分そうだが、体力がない自覚のあるシグレにとって『暑い』というのは、それだけでやる気を減退させるのに充分な理由となった。
(狩りをするなら、せめて陽射しを避けられる所がいいなあ)
身体の弱さを考えれば、これからの季節は熱中症なども怖い。
もっとも―――その辺はさすがに、こちらの世界の身体であれば大丈夫なように出来ているのかもしれないが。
けれど例え大丈夫であっても、魔物との戦闘を暑い陽射しの下で繰り広げるのは正直御免被りたい所だった。
できれば先日行った〈迷宮地〉のように地下であったり、もしくは陽射しをある程度避けられる森の中などで、夏場は狩りを行いたい所だ。
都市の中央部に近い辺りを歩いていると、今朝になってから都市内に住む人達の格好が、薄着へと一変しているのが見て取れた。
おそらくこの都市に住んでいる人達は皆、雨期が明けると同時に『夏』が訪れることを熟知しているのだろう。
シグレもこちらの世界に来てから、それなりに衣類を買い揃えてはいるものの。〈ストレージ〉に押し込まれている服の殆どは、やはり春物ばかりだ。
近いうちに衣料店を巡って、夏物を買い揃える必要があるだろうか。
(……もしくは、自分でシャツぐらいは縫えないものかな)
目標地点へ到着し、歩みを止めたシグレは目の前にある建物を見上げる。
その入口に掲げられた看板には『縫製職人ギルド』という文字が刻まれていた。
*
シグレが『縫製職人ギルド』に来るのは初めてのことではなかった。
初めて来たのはおよそ半月前のことなのだが、今回を含めると既に五回ぐらいはギルドへ足を運んでいるだろうか。
理由は言うまでもなく雨のせいで狩りに出る頻度が下がっていたので、そのぶん生産のほうへ時間を注げていたからだ。
『縫製職人ギルド』の建物は広く、しかも『工房』が施設の一階と二階、そして三階にまでそれぞれ設けられている。
一階の工房には織機を始めとした場所を取る機器類が所狭しと並べられており、逆に二階には大きめのテーブルが幾つか置かれていたり、畳が敷かれているだけの広々とした作業スペースが設けられていた。
二つの工房の内、シグレが利用したことがあるのはまだ二階のほうだけだった。機を用いて何かを織ったり、その前段階である紡糸作業などはまだ経験したことがないので、一階の機器類を利用する必要が無かったからだ。
ちなみに三階は『皮革』を扱う加工をするための工房であるらしい。月額利用の料金を既にギルドに納めてあるシグレは三箇所全ての工房を利用することが可能なのだが、利用するのでなければ三階の工房にはあまり入らない方が良い、と受付の職員に言われてもいた。
何でも皮革加工に用いる薬品類には相当に臭いを発するものも多く、三階の工房には一面にその臭いが漂っているらしい。
……毛皮をドロップする魔物を狩る機会自体は多いので、その『臭い』の洗礼を浴びる日も、どの道そう遠くないうちに来そうな気もするが。ともあれ、警告までされては今はまだ三階に足を運ぶ気にもなれない。
今日もシグレは、真っ直ぐに二階の工房へと入る。
ここ最近『縫製職人ギルド』に来る度に色々教えて貰っている、先輩職人の姿を工房内を見回して探してみるが……残念ながら見当たらなかった。
ほぼ毎日のように、このギルドの工房には来ているという話だったのだが。今日はまだ来ていないのか、もしくは別の階の工房を利用中なのかもしれない。
先輩から教わった所によれば〈縫製職人〉というのは割と有り触れた天恵であるらしく、ギルドの工房を利用する人数も多いのだそうだ。
確かに様々なギルドの工房を利用してきたシグレから見ても、ここより利用者が多い工房は『調理師ギルド』ぐらいしか思い当たらなかった。
とはいえ利用者が多いとは言っても、工房が三箇所に別れている上に建物自体が広いこともあり、利用場所を確保すること自体は難しく無い。
まだ誰も利用していない大きいテーブルの上に〈インベントリ〉から取り出した洋裁道具などを並べ、有難くテーブルひとつを占有させて貰うことにした。
紡糸も機織も未経験のシグレだが、それでも扱える布帛はある。
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□メルグーの毛(20個)/品質[55-90]
【素材】 :〈縫製職人〉
| 魔物【メルグー】から剥ぎ取った繊維。
| 空気を多く取り込むため保温性が高く、しかも意外に燃えにくい。
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とりあえず20個分を〈ストレージ〉から取り出し、素材をテーブル上に積む。
実際に見たことはまだ無いのだが、以前キッカに聞いた話によると、メルグーというのは『羊』に良く似た姿をした魔物であるらしい。
つまり『メルグーの毛』とは、大体『羊毛』のそれと考えて良いだろうか。
但し羊毛とは違い、その毛は何も手を加えなくとも綺麗な茶系色を湛えている。しかも弾力があるのに触り心地はさらさらとしていて、シグレの知る『ウール』の感触とは随分異なっているようにも思えた。
もし『羊毛』とほぼ同じ性質の素材であるなら、それこそ紡糸すれば実に様々なものを作ることが可能なのだろうが。その技術をまだ会得していないシグレにできる加工法は、現時点では一種類だけしかない。
〈インベントリ〉から水筒を取り出し、水を動物繊維に何度も振り掛け、両手で揉み込んでいく。……いや、メルグーは『魔物』なのだから、これは動物繊維ではなく『魔物繊維』と呼ぶべきだろうか。
何度か繰返し水気を加えて、充分に揉み込んだなら。次は〈縫製職人〉であれば誰でも使用可能な生産スペル【縮絨】を行使して、ふんわりと広がった繊維に押し込むように圧力を加えていく。
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□フェルト(メルグー)(9個)/品質[61-92]
| 魔物【メルグー】の毛を加工して作った不織布。
| 保温性に優れて強度も悪くなく、冬物衣料などの材料に向く。
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すると、5分もしないうちに『フェルト』という布地が出来上がる。
素材を20個使って、完成したフェルトは9個。布地の嵩が大幅に減ってしまっているのは、シグレの生産職のレベルが低く、素材加工に関連するスキルなどを一切取得出来ていないことを考えれば致し方無いところだろう。
フェルトは不織布であり、糸を織って編んだ布ではないので、布地に穴を開けてもそこから解れることが無いという利点がある。
織られた布帛に較べれば強度の面では劣る部分もあるが、纏めて大量生産できる上に加工もしやすく、初心者の〈縫製職人〉であるシグレにも扱い易い生地だ。
ここから更に【縮絨】を続ければ、フェルト生地の厚みを調整することも容易にできる。厚みがあるほうが繊維に隙間が出来るので保温性が高くなるが、逆に厚みを減らして圧縮すれば強度を高めていくことができる。
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□硬フェルト(メルグー)(8個)/品質[62-92]
| 魔物【メルグー】の毛を加工して作った硬い不織布。
| 充分な強度があり風雨に強い。外套のほか、部屋の敷物などにも向く。
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数がまた1個減ってしまったが、【縮絨】を続けて『硬フェルト』を作成する。
前回までシグレは、この硬フェルトを使って外套用の貫頭衣を作っていた。頭部を出す穴を開けてもフェルトなら問題無いので、貫頭衣なんかは本当に簡単に作れてしまうのだ。
充分に圧縮したフェルトは、多少の雨なら通さないので雨具としても機能する。雨期の間は、誰でも雨具を幾つか取り替えながら生活することになるので、安価な雨具は生産する端から『縫製職人ギルド』の受付で買い取って貰うことができた。
―――だが、それも前回までのことだ。
『縫製職人ギルド』の受付では、都市内に需要のある日用品の類であれば大抵のものは買い取って貰えるのだが。さすがに雨期が終わってしまった今となっては、暫くはもう雨具類は買い取って貰えなくなるだろう。
(さて、何に加工したものかなあ……)
需要のない製品に加工すれば、受付から買取りを拒否される可能性は高い。それならば寧ろフェルトのまま渡せば、確実に受付で買い取って貰えるが……。
けれど、それでは当然ながら〈縫製職人〉としての経験を積めない。
レベル上げに躍起になるつもりは無いが、この世界では『生産職』の経験値は生産行為でしか積めないのだから、その機会をふいにするのは賢明ではないだろう。




