05. 王都アーカナム - 1
[1]
直視できないほどの眩い光に埋め尽くされ、白く霞んだ視界が十数秒ほどの時間を置いてようやく回復すると―――つい先程までは空がよく見える開けた場所に居た筈なのに、いつの間にかシグレはどこかの狭い部屋の中に移動させられていた。
普段寝起きしている病室とは、全く異なる別の環境。壁にも床にも天井にも随分と茶系色の割合が高い、明らかに木造の八畳ばかりの部屋は、いかにも『民家の一室』といった風情を整えている。
調度品は簡素なベッドがひとつと小さなテーブル、それに合わせた椅子がそれぞれひとつずつ。テーブルの上に掛けられた薄い緑色のテーブルクロスが、部屋の中の彩りにちょっとしたアクセントを加えている。クロスの上には水差しの瓶がひとつと、口をしたに伏せられた白いグラスも一緒に置かれていた。
部屋の壁には二つのガラス窓。両開きの窓がひとつに、小さな嵌め殺しの窓がひとつ。早速その前者を押し広げてみると、開かれた窓の隙間から仄かに冷たい空気が入り込んでくる。
窓から身を乗り出すようにしながら外の世界を覗き込むと―――そこには辺り一面に、時雨の知る『日本』の景色とはあまりにも異なった世界ばかりが広がっていた。
見渡す限り背の高いビル群はどこにも無く、代わりに二階ないし三階建ての家屋が至る所に建てられている。意外なことに平屋は少ないようだ。また石作りや煉瓦の家々が多いようで、いま時雨が居る部屋のような木造の建物は、全体の中ではどうやら少数派らしい。
コンクリートの建物が無いのは当然ながら、それでも多様な建材が用いられているのは、おそらく日本のように地震が頻発する環境ではないからだろうか。建築物を並べ連ねる街路もまた当然アスファルト製でなどある筈も無く、街路という街路に敷き詰められている石畳は、どこか異国情緒といった趣を時雨に意識させる。
遠くから聞こえる小さな鐘の音は、教会かどこかで鳴らされているものだろうか。街路を駆け抜けていく沢山の荷を載せた馬車が時折ガラガラと盛大な騒音を奏でるものの、それを除けば街並みは静かなものだった。
どこからか聞こえてくる鳥たちの囀りは、時雨の全く知らない野鳥のものだ。その朝の訪れを思わせるメロディに耳を傾けているうちに、ふと時雨が(いま何時頃なのだろう)と意識すると―――すぐに、時雨の視界内に『4月20日 - 07時27分』と現在の日時を示すウィンドウが表示された。
―――意識ひとつで操作出来るというのだから、なんとも便利なものである。
〈リバーステイル・オンライン〉の操作性の良さに感嘆しつつ、けれど一方では……すっかり一面のファンタジー世界に酔いしれていた感動を、唐突に表示されたいかにもゲーム感のある機械的なウィンドウ画面にぶちこわしにされたようにも思えて、少しばかり時雨は複雑な気持ちにもなった。
昨晩、病室で眠りに就いた時の日付も確か『4月20日』だった。
おそらくは現実の一日を終えた後に、もう一度ゲーム内で同じ日付を過ごすサイクルになるのだろうか。
空を見渡してみれば、太陽もまだ中天には程遠い高さにある。視界内に表示されている時計が『朝』を示していることが、正確である証左とも言えるだろう。
VRに対応したゲームであるか否かを問わず、RPGには昔から昼夜の概念を持つタイトルが少なくないが。しかしそうしたRPGに於いて昼と夜が交代する間隔というものは、プレイヤーがその両面を楽しめるようにと言う配慮からか、長くとも1~2時間程度に設定されているのが一般的である。
それを思うと、あと11時間ぐらい経たなければ『夜』という時間帯を迎えることがないこの世界というものが。現実に即したものである筈なのに……却って奇妙にも思えることが、何だか時雨には不思議だった。
(キャラメイクに一時間と少し掛かったってことかな)
深見はゲーム内で活動を開始できるのを『朝6時』からだと言っていた。現在の時刻がもう7時半近くになっているのは、それだけ時雨がキャラメイクに時間を費やしてしまったからなのだろう。あまり時間を掛けたつもりはなかったのだけれど、意外と経ってしまっているものだ。
新しいVRゲームを始めたとなれば、通常であれば今すぐにでもこの部屋を飛び出して、街中を散策したりフィールドを歩き回ったりと、この世界を目一杯楽しみたくなる衝動に駆られそうなものだけれど。そういった無駄に逸ってしまう心が沸かないのは〈リバーステイル・オンライン〉の良い所かもしれない―――そんなことを時雨はしみじみと思う。
何しろこれから、深見が〈イヴェリナ〉と呼称していたこちらの世界で。望むと望まざるとに関わらず、時雨はきっちり丸一日を過ごさなければならないのだ。
手動操作による『ログアウト』はこのゲームに存在しない。こちらの世界での一日が経過して、夜が更けて宿などに部屋を借りて眠るまで―――その瞬間まで、時雨はこちらの世界に居続けなければならない。
あと18時間ほどもあるのだから、何ひとつ焦る必要などない。ゆっくり自分のペースでこの世界を楽しむぐらいの気持ちでいなければ、きっと途中で疲れてしまうだろう。
(……いつ遊んでも、VRゲームというのは良い)
部屋の中で上体を伸ばしてみたり、左右の足首を何度か回し捻ってみたりする。
現実世界での時雨は下肢が不自由であり、歩くことはおろか、補助無しでは立ち上がることさえ出来ない障害を持つ身である。
けれどVRゲームを堪能する時だけは、その頸木から逃れることができるのだ。現にこの世界でも時雨には―――いや『シグレ』には、他人となんら変わらないだけの健常な肉体が与えられている。
床を踏みしめる感覚。階下に響かない程度に軽く跳躍してみたり、屈伸をしてみたりする感覚。
治る見込みのない身体だと自覚して以降、碌にリハビリもしていない身体ではあるけれど。こうしてゲームの中で自由な身体を得てみれば、案外不自由なく、思い通りに動かせるのだから面白い。
[2]
窓を閉めてからも暫くの間そこから見える景色や、あるいは病室とは色々と違う部屋の風景に感じ入ったあと。ふとシグレは、テーブルクロスの上に水差しとグラスだけではなく、何か封筒のようなものが置かれていることに気付く。
ゲーム内の身体は自分の思う儘に動かせて、テーブルの傍に歩く程度のことは造作もない。常に立っていられるということが、自分の視点を思いのほか高い位置に持ち上げてくれる―――そんな他愛もないことを実感しながら。シグレは封筒を手に取り、それを開封する。
淡い空色の封筒は、開けると中にぎっしりと大量の用紙が詰まっていた。
こんなに中身を詰めるぐらいなら、もう一回り大きなサイズの封筒を使えばいいのに。そんなことを思いつつ、シグレは少し手間取りながらも封筒から中身を取り出していく。
三つ折りにされた用紙が、たっぷり二十枚ほど連なった書類。その1枚目の冒頭には『リバーステイル・オンライン簡易説明書』と手書き風の文字で記されている。
なるほど、つまりこれがこのゲームの取扱説明書ということらしい。
(枚数が多すぎる説明書は、ちょっとなあ……)
苦笑気味にそう思いながら、試しに一枚捲って次の用紙を見てみると。そこには『聖職者クラス解説書』との題字が記されていた。
さらに捲った三枚目には『巫覡術師クラス解説書』と記されており、どうやら二枚目以降の用紙にはシグレが自分で選択した個々の職業ごとに関する解説が書かれているらしい。
つまり用紙の枚数が多いのも、封筒にぎっちり詰め込まれることになったのも、どう考えてもシグレが職業を選択しすぎたが故の―――つまり、自業自得であった。何しろ『戦闘職』と『生産職』を10ずつ取得しているのだから、1職につき1枚だけの簡易な解説書であっても合計枚数は20に達することになる。
枚数が多すぎることを一瞬でも非難した自分を恥じ、シグレは心の中で誰にとも知れず詫びる。
各職の解説書は後ほどゆっくり読むとして、差し当たり一枚目の書類にシグレは目を通す。
そこにはシグレの現在地が、ゲーム内世界〈イヴェリナ〉に幾つかある『中央都市』と呼ばれる大都市の中から、無作為に選ばれたいずれかの場所であること。また現在シグレが居る場所は、その都市の中に建つどこかの宿屋の一室であることが記されていた。
一般的に宿からは正午の十二時までにチェックアウトの手続きを済ませなければならないらしく、今日以降も同じ宿に継続して泊まりたい場合には、その時刻までに手続きをしたほうが良いということも書かれている。更には、各中央都市の一般的な宿屋の相場が1泊200gita程度であるということも併記されていた。
また、宿の利用時には断らない限り朝食が付くのが普通であるらしい。通常、宿の一階が食堂で、二階以上が宿泊用の部屋になっているらしく、階下に降りれば今朝のぶんの朝食だけは代金を払うことなく食べられるであろうことまでが記されている。
シグレが『意識』して〈インベントリ〉を開くと、そこには深見の前で確認した時と同様に『3,000gita』の所持金を保有していることが示されている。
つまりはこの所持金で、とりあえず15日間は宿を取ることができるということだ。
……いや、朝食だけというわけにはいかない。ちゃんと食事を摂らなければ『空腹』を感じるようになるし、それが辛いものであるということも深見からは聞かされている。昼食や夕食に別途お金は必要になるから……手持ちの資金だけで暮らせるのは、せいぜい一週間程度だろう。
一週間という期間は長くもあり、けれど短くもある。何にしてもまずお金を稼ぐ手段を確立しないことには、こちらの世界をのんびり堪能する余裕も持てそうにはない。
お金を稼ぐには―――おそらくは一般的なMMO-RPGと同様、街の外で魔物を狩ったりすればいいのだろう。できれば今日のうちに一度試しに行ってみて、一回の狩りでどの程度のお金を稼げるのかも早めに確認しておきたいところだ。
所持金以外には〈インベントリ〉の中に入っているものはない。
持っているものと言えば、深見から強制的に着替えさせられた、いまシグレが身に付けている服ぐらいのものだ。
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稀人の衣服/品質40
物理防御値:2 / 魔法防御値:2
天擁の初期装備品。防御性能を殆ど持たない衣服。
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性能を知りたいと『意識』しながら自分の服を見つめてみると、思った通りシグレの視界内にいま身に付けている服の詳細情報が表示される。防御が『2』というのは、おそらく全く頼りにならない数値なのだろうけれど、気持ち程度にでも防御性能があるだけマシと言えばマシだろうか。
兎にも角にも、シグレが持つ初期装備はお金とこの『服』だけである。
―――つまり、武器が無い。
生活するだけでも一週間ほどしか持たない僅かな手持ち金だというのに、この中から武器を購う為のお金も別途捻出しなければならないわけである。
(魔法職なのだし、武器が無くてもなんとかなるか……?)
そう思いながらシグレが各職の解説書にざっと目を通していくと。四枚目にあった『伝承術師クラス解説書』の中に『伝承術師のスペルには杖を必要とするものが多い』とはっきり書かれてあった。
他にも〈精霊術師〉のスペルでは左右どちらかの手が素手である必要がある場合が多く、また〈巫覡術師〉のスペルの一部では行使時に弓を必要とするものがあることなどが書かれている。
弓は一部のスペルでしか必要にならないようなので、無理に最初から準備する必要は無いだろうか。
とはいえ、やはり杖ぐらいは最初から買い求めておくほうが良いのかもしれない。それもできれば右手だけで持てる『片手杖』を購入して、左手は〈精霊術師〉のスペルの為に素手のままで居るほうが良いだろう。
「いきなりお金で苦労する事になりそうだなあ……」
溜息混じりにそう呟きながらも、シグレの語調に悲嘆の色はない。
こういったゲーム序盤特有の金欠感というものが、シグレも案外嫌いではないのだ。
例えばダンジョン探索タイプのRPGなどで、初めてダンジョンに潜る前に僅かな初期資金で武器を買うべきか防具を買うべきか、はたまた回復アイテムを買うべきか―――そうしたことを悩み迷うというのは、存外楽しい部分でもあったりする。
ひとまず一枚目の『簡易説明書』の続きを改めて読み進めていくと、ちゃんとお金の稼ぎ方についても記載があった。
とは言っても所詮は紙切れ一枚だけに留まった簡単な説明書なので、詳しいことまでは書かれていない。記載内容を要約すれば、街にある『掃討者ギルド』という場所に行き、魔物討伐を生業として賞金を得る『掃討者』として自らを登録するのが良い、という程度のものだ。
(……もう少しぐらいは詳しく書いてくれてもいいのに)
苦笑混じりにそう思いながら更に読み進めると、説明書の末尾には『本気でお金に困る事態に陥った場合はシステムヘルプを利用して助けを求めて下さい』と付記されていた。
深見はこの世界を『嘘の世界ではない』としながらも、一方では『ゲームの世界』であるということは認めていた。そしてゲームである以上、それはプレイヤーが楽しめる世界でなければならない。
金欠が原因で世界を十分に楽しめない事態に陥ってしまっては、本末転倒というものだろう。そういう意味でも本気で困ったとき限定とはいえ、プレイヤーに手を差し伸べることを約束してくれているこの付記は、シグレにとって好感が持てるものだった。
一方で金策をせよと書いてある割に、掃討者ギルドが具体的にどのような施設であり、街のどこにあるのか―――そうした詳しい記述が全く乏しいこの解説書からは、運営側からプレイヤーに対して一定の厳しさを示す姿勢も垣間見える。
建物の場所が判らないならマップの機能を使って探すなり、あるいは街の人に訊ねて教えて貰うなりやり方は幾らでもある筈なのだから。プレイヤーが自ら考え、行動するよう促しているのだろう。
(掃討者ギルド……普通に考えて、九時ぐらいには開くかな?)
現在時刻は八時前なので、道中で街の人に場所を訊ねながら向かうにしても、まだ少々気が早いかもしれない。
ここは先に解説書を一通り読んでしまうとしよう。そう決めたシグレはテーブルに備え付けられた椅子に腰掛け、まだ聞こえ止まぬ窓の外からの鳥の囀りに耳を傾けつつ、静かに読み耽ることにした。