38. 双牙の猟犬 - 2
[8]
『エミル、10秒後に右を反転』
『―――了解です!』
正面に立つ二体のオーク。棍棒を派手に振り上げた左側のオークの、隙だらけの腹部に蹴りをお見舞いしてからエミルは1メートルだけ後方に下がる。
エミルの[筋力]は低くはないが高くもない。〈盗賊〉のスキルで補正が掛からない蹴りの威力など高が知れている。それでも相手の体勢を少し崩す程度の効果なら期待できた。
ステップを踏みながら回り込み、右側のオークだけを正面に捉えることのできる位置につける。オークは巨体な割に動きが鈍いので、二体のオークがなるべく自分に対して縦に並ぶよう意識しながら戦えば、二体から同時に攻撃されるのを防ぐことは十分に可能だった。
「―――【反鏡】!」
予告通りの10秒後に遠くからシグレがスペルを行使すると、エミルの真正面に立つオークの身体が、一瞬でぐるりと180度回転する。
エミルに向かい、いま正に棍棒を振り下ろさんとしていたオークの攻撃は、単に相手の『身体の向きを反転させる』という判りやすい効果を持つ【反鏡】のスペルに影響され、エミルが回り込んだことでちょうど真後ろに位置していたもう片方のオークに対して命中した。
(ラッキー!)
人間同士であれば、誤って味方を攻撃してしまう『同士討ち』というのは、単に相手を突き飛ばすだけの行為であり、ダメージは『0』になる筈なのだが。殴られたオークが明らかに痛みによる叫び声を上げているあたり、魔物同士で発生した場合にはどうやらダメージも入ってくれるらしい。
シグレから予め【反鏡】の行使を予告されていたとはいえ、同士討ち自体は別に狙って引き起こした状況ではない。エミルの狙いはあくまでも【反鏡】のスペルを受けて背中を晒した側のオークである。
視界に捉えている景色が瞬間的に変貌したからなのか、それとも味方を殴ってしまったことに困惑したからなのか。【反鏡】によって180度反転させられたオークの動きが一瞬ピタリと止まる。
―――その一瞬だけ晒した無防備状態が、エミルにとっては十分な隙となった。
「やあああっ!」
二本のダガーを交差させるように、オークの頸部を左右から斬り裂く。
『敵の無防備状態を突く』という厳しい制限がある代わりに、《背後攻撃》は相手の防御力を完全に無視することができる上、必ずクリティカルとなる強力な攻撃だ。
まるで研いだばかりの包丁でトマトでも切るかのように、そこにある筋肉も骨も無視して、いとも容易くエミルの《背後攻撃》はオークの頸を刎ねる。
―――残り一体。
数の優劣さえ無ければ、時間はそれなりに掛かるもののエミルは正面から戦ってもオークを倒すことはできる。
それでも―――エミルは『攻撃』を重視しない。オークの攻撃対象を自分に引きつけておくための最低限度の攻撃を加えるだけに留め、幾度となく振り下ろされる棍棒を避けることのみに専念する。
積極的に敵のHPを削りに行く必要は無い。シグレは『チャンスは必ず僕が作りますから』と約束してくれている。エミルはそれを絶対に疑わない。
『後ろに2メートル下がってください』
『はい!』
ステップを踏んで正面のオークから距離を取る。
開いた間合いを埋めるべく、当然ながらオークは距離を詰めてくる。
すると―――何かに足を取られでもしたのか、オークの巨体がエミルの目の前で前のめりに派手に転倒した。
(……違う、これは【足縛り】だ!)
【足縛り】は〈精霊術師〉のスペルで、地面から伸びる植物の蔓で相手の足下を絡め取り、対象の移動を封じ込める効果を持つ。
【足縛り】は本来、蔓が足に纏わりつくに従って移動が不自由になり、ある程度まで絡まって初めて魔物の移動を完全に封じることができるスペルなのだが……。
両脚で踏ん張りながらエミルに向かって幾度も棍棒を振り下ろしていた、オークの動かない足下を絡め取るのは簡単だったのだろう。オークの両脚にはこれでもかという量の植物の蔓が巻き付いており、そう簡単には解けそうにない。
オークは身体が大きい分、その重量もかなりのものだ。両脚が完全に捕らえられていては立ち上がるのも困難といった様子で―――もちろん、そんな判りやすい隙をエミルが見逃すはずもなかった。
起き上がるのを阻止すべく、巨体の背に乗りかかるようにしながら。芋虫のように這いつくばるその背中にエミルは二本の刃を突き立てる。
―――今回も派手に血糊を浴びてしまったな。
そう思いながら、服の袖でエミルが自分の頬に突いた魔物の血を拭っていると。自分の身体が僅かに光った後、身体と服に付着している全ての汚れが一瞬で完璧に取り除かれた。
『お疲れさまです』
『あ……【浄化】ありがとうございます。シグレこそ、お疲れさまです。』
『僕は遠くからスペルを撃っていただけですので、さして疲れるようなこともありませんが。ですが、前衛の方は大変ですよね』
シグレはそう言うけれど―――前衛の動きを逐一把握し、状況に合わせた最善のスペルを行使し、味方に的確な指示を出す。それは決して楽な仕事ではない筈だ。
『大したものだ。主人とエミルの二人が組めば、我が参戦せずとも所詮オークなどただの塵芥に過ぎんな』
―――そう、今回の戦闘ではシグレの使い魔である黒鉄は参加せず、エミルとシグレの二人だけでオーク6体の群れを試しに相手にしてみたのである。
結果、終始危うい場面もないままに勝利。オークは攻防ともに強力な魔物ではあるものの、ただ引きつけるだけなら機動力のあるエミルには与し易い相手なのだ。攻撃を控えめにして相手の動きに気を配れば、大振りしかしてこない棍棒の軌道を避けるぐらいなら造作もない。
『二人の戦いを見て学ぶ点は多かった。主人はエミルを実に上手く使っている。エミルも主人の望む動きによく応えている。
二人の敢闘する姿は正に、主人と猟犬、そのかくあれかしものだ。我もエミルに負けぬよう、もっと主人の意に沿えるよう頑張らねばな』
『猟犬、って……』
僕は人間なのだけれど……ともエミルは一瞬思うが。
一方で―――黒鉄の言う、シグレがエミルを上手く『使って』いるという表現は非常に的を射たものだとも思えた。
共に戦うのは今日が初めてだというのに、シグレは既にエミルの戦い方や強さというものを、完全に理解してしまっている。
エミルに可能なこと、不可能なこと。エミルひとりで対処できる状況と、助力を必要とする状況とを瞬時に彼は判断できているのだ。
エミルもまた、シグレのことを無条件に信頼し始めている。
これほどスムーズに狩りが行えるというのは、エミルが掃討者という生業に就いて以来、初めての経験だった。彼の指示に従っていれば、それだけで本来以上の実力が出せてしまう自分というものに気付かされる。
掲示板の募集などで集められた、即席パーティのリーダーの多くがそうであるように、シグレはエミルに決まった役割を押しつけることはしなかった。そうではなく―――エミルの能力を理解した上で、エミルにできることだけを彼は望む。
シグレが自分に信任してくれることは、全てが上手くいく。実際にそうなってしまうのだから、任されるエミルのほうもいつしかそう信じてしまっていた。
シグレは実にエミルのことを上手く『使って』くれている。
これだけ上手く扱われてしまえば、使われる側としても不満は無かった。
『エミル。そろそろ結構な距離を移動したと思うのですが……』
『あ、そうですね―――すみません、現在位置がちょうどトワドの真北辺りです』
《地図製作》のスキルはないので〈斥候〉ほど精緻ではないものの、この辺りはソロ狩りで何度となく通っていることもあり、エミルの持つマップデータはかなり正確なものが出来上がっている。
シグレから何も言われなければ、危うくこのままトワドの北をさらに東へ通過してしまう所だった。狩りが好調なせいで移動ペースもいつもより随分と速いのだ。
『ではちょうど良いですね。一旦そちらの村に移動して休憩しましょうか』
『はい!』
普段は、森に入って狩りをしながら『トワド』の辺りまで移動する頃には、すっかり疲れ果ててヘトヘトになっているものなのだけれど。普段ソロ狩りをしている時の何倍ものオークを既に狩っているというのに、今日に限ってエミルは疲労というものを殆ど感じてはいなかった。
順調な狩りばかりなので、それだけ身体的にも精神的にも疲労が軽減されているのだろう。それに―――魔物の返り血を浴びたまま狩りを続けるというのは、その悪臭も相俟ってなかなかキツいことでもあるのだから。
『オークの森』を抜けて視界が解放されると、『トワド』の村落は本当に目の前すぐの位置にあった。
普段ならフードを被って真っ先に教会へと乗り込む所なのだけれど、シグレからその都度【浄化】を掛けて貰っている今回に限れば必要無い。
「ここは畜産が盛んな村なのですね」
トワド村の牧歌的な景色を眺めながら、シグレがそんな言葉を漏らす。
森を抜けたいま、もうパーティ会話は必要ではなかった。
「放牧をするにはある程度の広さが必要ですから……『王都アーカナム』のような都会では土地が勿体なくてできませんからね。アーカナムで消費される牛乳や卵などは、毎朝この村から届けられているんです」
「なるほど……。確かに、城壁に囲まれた街で放牧は無理ですよね」
トワド村の周囲にも簡単な防柵のようなものは一部あるが、これは放牧している家畜が逃げないようにするためのもので、魔物を退ける役には全く立たない。
アーカナムに比べれば魔物に対し非常に無防備な村であり、危険な場所である。しかし農業や畜産などに従事する人というのは、誰でもそういう危険と隣り合わせの村落に住んでいるものだ。
中央都市のような堅牢な城郭を持たない一般的な村落は、村の周囲で狩りをして魔物を間引いている掃討者によって、例外なく支えられている。
故に、この『トワド』でも掃討者の来訪は常に歓迎される。例えば村の中央には掃討者としての身分を証すギルドカードを提示することで、非常に安い値段で、しかし随分と豪勢な料理を提供してくれる食堂が設けられていた。
「シグレは肉料理はお好きですか? この村の食堂はとても良い所なので、きっとシグレにも気に入って貰えると思いますよ!」
「それは楽しみです。最近はすっかり食事が楽しみになってしまって……」
ここまで身体を動かしてきたこともあり、既にお腹は空腹を訴えていた。
いつもなら村へ辿り着く前に空腹が我慢できなくなり、森の中で軽食を囓る機会も多いので、その為にアーカナムの露店市でわざわざパンを買ってきてあるわけだけれど……それが必要無いほどにスムーズな狩りを行えているというのは、嬉しい誤算だろうか。
『……主人、微かに雨の匂いがする。一雨来るかもしれんぞ』
「それは困るね。早めに食堂へ移動しましょうか」
「はい!」
昼食の間に雨が止めばよし。止まなくても―――それはそれで構わない。
〈盗賊〉や〈斥候〉の技能を持つエミル達にとって、魔物達の視界を悪化させ、音の感覚を狂わせる雨の存在は、激しければ激しいほど有利な要素でもあった。




