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リバーステイル・ロマネスク  作者: 旅籠文楽
〔 tailpiece. 〕

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31/125

31. 菜々希と志乃

 



 ―――情けない兄でごめんな。


 それが、昔から続く兄の口癖だった。

 何かにつけて、心底申し訳なさそうな顔をしながら兄は、自分のことをそう言うけれど。菜々希はあまり、兄が自分のことを貶める言葉が好きではなかった。

 誰が何と言おうと―――菜々希にとっては最高の兄なのだ。

 だから、それを悪く言うような言葉は……例え兄自身の口からであっても、菜々希は聞きたく無かったのだ。



     *



 学校を出た先から拡がる瀟洒な並木道。その街路を十数メートルも歩くと、いつも通りに家の車が止まっている。

 車の横には、菜々希よりも背が低いメイド服の子が佇んでいる。菜々希が軽く手を振ると、あちらも一礼をして応じた。


「志乃、車の中で待っていてくれていいのに」

「そういうわけには参りません。菜々希様の世話を(ことづ)かっておりますので」


 このやり取りも、殆ど毎日の恒例行事に近い。

 志乃は本来、菜々希のメイドではない。彼女の忠誠心は、菜々希の兄である時雨に向けて、ただひたすらに向けられている。

 兄に比べれば彼女の忠誠心の欠片ほども自分に向けられていないことは、他ならぬ菜々希自身にもよく判っていた。

 もっとも―――それを理解していればこそ、彼女とは良い関係を築けるのだとも菜々希は確信している。兄からの『託け』がある以上、志乃は菜々希の信頼に背くことはないし、菜々希もまた彼女に無条件の信頼を預けることができる。


 志乃がドアを開けてくれた後部座席に、菜々希は乗り込む。

 四月の風はまだそれなりに冷たく、車内の温かさが心地良かった。


「お疲れ様です、お嬢様」


 運転手の端居が小さく頭を下げながらそう声を掛けてくれる。

 志乃とは異なり、運転席に座る執事の端居は、菜々希と直接雇用の関係にある。元々は両親が菜々希に宛がった家庭教師役を兼ねた執事なのだが、両親の死後に辞めようとしていたのを、菜々希が必死に慰留したのだ。

 幸い、投資家の父母を持つ菜々希には、端居を雇うのに充分過ぎるだけの遺産があった。


「端居さんもお疲れ様です。本日も病院までお願いしますね」

「承知致しました」


 給料を払って雇っているとはいえ、年下の志乃とは違い、菜々希は決して端居を呼び捨てにしたりはしない。

 年長者に対しては、それだけで相応の敬意を抱く。兄がそうであるのだから、妹の菜々希もまたその考え方に倣うのは当然のことだ。―――少なくとも菜々希自身は、そのように考えていた。


 後部席に志乃が乗り込むのを待ってから、車は静かに走り出す。

 窓の外、流れていく景色を眺めながら、菜々希はぼんやりと兄のことを想う。


 兄のことだけを考えていられて、兄の元へと会いに行くことができる。

 放課後以降のこれからの時間の為だけに、菜々希は日々を生きていると言っても過言では無かった。



     *



 総合病院というのは、大抵いつも混んでいる。

 それは、ここ清座研究会病院でも例外ではない。一階のフロアには老齢の方が溢れており、あとは40代から50代と思わしき女性の姿もそれなりに見られる。

 平日の夕方ということもあってか、男性の方はあまり見られない。男性で総合病院にかかろうという方は、大抵は仕事を休んで午前中のうちからやってくる。


 勝手知ったる病院の中を、兄に会いたいという急く想いに背中押されてか、半ば足早になりながら菜々希は廊下を進んでいく。その後ろを、やはりこちらも早歩きで志乃が追いかけてきた。

 メイド服を身につけている志乃の姿は否応なしに目立つが、菜々希も志乃もそれを務めて無視する。どうせ好奇の目が集まるのも、病院に入って直ぐの僅かな間だけのことだ。


 エレベーターで病院の五階へと上がり、建物を連結する渡り廊下を歩いて『入院棟』のほうへ進入し、さらに病棟側のエレベーターで十一階まで上がる。

 ここまで来れば、そういった周囲からの視線も殆ど寄せられなくなる。

 毎日学校が終わったあと、ほぼ同じ時刻に病棟を訪ねてくる菜々希の存在は、兄と同じ階に入院する他の人達にはよく知られていた。当然、付き添う志乃のことも知られているから、今更メイド服の少女に好奇を抱く者もいない。

 病棟の廊下ですれ違う看護師の方も、菜々希を見てどこか感心したように目を細めながら「いらっしゃい」と声を掛けて来る。菜々希もそれに軽く一礼だけをして応えた。

 あちらはわざわざ足を止めて声を掛けたようだったが、菜々希は早く兄の部屋に行きたいので、話し込むつもりは毛頭ないのだ。


「菜々希ちゃん、今日も兄ちゃんのお見舞いかい?」


 ―――けれど、その菜々希の思惑を余所(よそ)に、新たに掛けられた声があった。

 一瞬、聞こえなかったふりをしようかとも思う―――が、そんな無下な対応などできよう筈も無い。菜々希にとってはこの人のことなど心底どうでも良かったが、仮にも兄と同じ病棟に入院している人なのである。

 菜々希が失礼を働いては兄に迷惑が及ぶ可能性がある。それを思うと、本心とは裏腹に対応しないわけにはいかなかった。


「はい。阿部様にも、兄様がいつもお世話になっております」


 声を掛けて来た相手に、菜々希は完璧な笑顔を作った上で丁寧に応じる。

 阿部という名のこの男性は、入院している部屋が兄の病室から近いため、病棟内で兄と話す機会も多い相手である。妹の菜々希としても、せいぜい愛想は振りまいておかなければならない。

 菜々希が打算による作り笑顔を浮かべると、老齢の阿部は目を細めて感心するように「そうかいそうかい」と何度も呟いてみせた。


「できれば兄ちゃんに、もうちょっと手加減してくれって言っといてよ」

「ふふ、私は兄様を応援していますので、それは出来かねますわ」


 囲碁か、もしくは将棋の話である。互いの病室が近い事もあり、阿部はしばしば兄の部屋を訪ねてきては、盤上の遊戯に興じていることがあった。

 兄は自由に歩くことが出来ない身なので、日頃より「わざわざ訪ねてきて下さる阿部さんには感謝している」と口にしている。兄が感謝を向ける相手には、菜々希も相応に礼は尽くさねばならない。

 もっとも将棋にしろ囲碁にしろ、肝心の腕の方には差がありすぎて、勝ちすぎてしまわないよう兄が色々と気を遣っているようだった。おそらく手加減などというものは既に充分すぎるほどされている筈である。


「申し訳ありません、兄様に着替えを届けたいと思っていますので」

「おお、呼び止めて悪かったね。いってらっしゃい」

「ありがとうございます」


 菜々希が一礼するのに合わせて、後ろの志乃も深く頭を下げた。


 廊下をもう少しだけ歩くと、すぐに部屋番号『1208』の前に付く。

 ドアの前で深呼吸を1回済ませてから、コンコンと2回だけ軽くノックした。

 病室にはインターホンも備わっているが、菜々希がそちらを使うことはない。

 そのほうが兄にも、訪ねてきたのが菜々希であることがすぐに伝わるからだ。


「―――どうぞ」

「失礼致します」


 カラカラと引き戸を開けて、病室の中に入る。


「兄様、着替えの方をお持ち致しましたわ」


 広々とした病室の中に向けて、菜々希は小さく頭を下げる。


 個室であるにも拘わらず四床室よりもずっと広々としたここは、明らかに一般の病室とは別格のものだ。部屋内の天井や壁も木目に彩られた温かなものであり、そこには病室らしい殺風景さというものはない。

 清座研究会病院の『入院棟A』。その九階よりも上の階層は全て、差額ベッド代の必要となる個室―――特別療養環境室と呼ばれる部屋だけでできているのだが。とりわけこの十二階には高額の使用料を求められる特別室が用意されていた。

 部屋には小さいながらもキッチンやトイレが付いているし、入浴介助を受けやすい構造のバスルームも付いている。部屋には応接セットも付いているが、テーブルを挟んだ片側にしかソファーは配置されていない。これはもう片方の側に、車椅子に乗った兄が来られるようにという配慮からだ。

 特別療養環境室は利用料に保険が適用されないため、全額利用者の負担となる。しかし両親から無駄に多すぎる額の遺産を残されてしまった菜々希と兄にとって、それほど問題になるような額ではなかった。


「……兄様?」


 まず室内のベッドのほうに菜々希は視線を向けるが―――そこには誰もおらず、ベッドはもぬけの殻であった。

 代わりに兄の姿は、菜々希の正面すぐの場所にあった。車椅子に乗った格好で、どうやら菜々希がこうしていつも通りの時間に訪ねてくるのを待っていて下さったらしい。


「ど、どうなさったのですか? 車椅子にとは……」


 兄は身体の半分、腰よりも下の全てが麻痺しており、自由に動かすことができない障害を生まれたときより抱えている。歩行することは疎か、立ち上がることさえ自らの意志ではできない。

 上肢は下肢ほど重い障害状態ではないものの、かといって自らの体重を上肢で支えて車椅子に自力で移れるほどではない。それに兄は両腕にも時折軽度の麻痺が走ることがあるため、上肢で身体を支えるような行為は危険に繋がる可能性があり、可能な限り控えるよう医者からも厳しく言い含められている。

 そんな身体である兄は、ベッドから車椅子に身体を移すためには、必ず看護師の方の手助けを必要とする。しかし兄は他人に手間や迷惑を掛けることを嫌う性分であるため、普段はトイレの利用時や診察の時、来客と将棋か碁を打つとき、もしくは週に二度か三度お風呂に入るときを除けば、滅多にベッドから動くようなことはなかった。


「いらっしゃい、菜々希、志乃。折角来てくれた所を悪いけれど……これから少しリハビリを受けて来ようと思って」

「リハビリ……ですか?」


 清座研究会病院はかなり大きな病院なので、リハビリテーションの設備や専門の人員も充実している。

 だから兄が告げた言葉そのものにおかしい所はない。無いのだけれど……それを耳にした菜々希は、率直に言って『訝しさ』のようなものを抱いた。


 過去に一度として、兄がリハビリを望んだことなど無かったのだ。

 自身が背負っている障害に関して、兄はどちらかというと諦念に近い感情を抱いているように見受けられた。これ以上良くもならず、悪くもならない自身の身体に関して、ただそれを在るが儘に受け入れているかのように―――妹として、自由な時間の多くを兄の傍で過ごした菜々希には、そういう風に見えていたのだけれど。

 リハビリを望むということは、身体を治したいという意志を兄自身が抱いていることの証左であると。そのように考えても良いのだろうか。

 だとするなら……勿論それ自体は歓迎すべきことなのだろうけれど。一体、兄にどのような心境の変化があったのかは、正直妹として気になる所ではあった。


「折角来て貰ったのに、ごめんな。急に申請をしたものだから、リハビリを担当する理学療法士の先生があまり空いていなくてね。菜々希が面会に来てくれる時間と被るタイミングでしか予約が取れなかったんだ」

「お気になさらないで下さい。私が勝手に面会に来ているだけなのですから、もちろん兄様の都合を優先して下さって構いません」

「ありがとう、菜々希。初日から長時間は良くないということで、今日は10分だけという話だから、それほど長くは掛からないと思う」

「承知しました。では菜々希はこちらで待たせて頂いても?」

「もちろん。部屋にある物は自由に使ってくれて構わないから」


 清座総合病院の面会時間は20時までに制限されているが、家族であれば21時までは滞在することが許されている。

 毎日学校が終わってから21時までの間、可能な限り兄の傍に居ることが菜々希の幸せでもある。多少兄が部屋を留守にするからと言って、帰るという選択肢は菜々希に無かった。


「……本日は電動の車椅子をご利用では無いのですね? 宜しければ、リハビリ室まで車椅子をお押し致しますが」


 志乃の言葉にハッとして、菜々希は兄が乗っている車椅子を見る。

 確かにそれは、普段からこの部屋に置かれている電動のものではない。


「いや、これは自分から看護師さんにお願いしてこちらにしてもらったんだ。どうせならリハビリ室までの移動も、リハビリの一環として利用しようと思ってね」

「なるほど……。差し出がましいことを申しました」

「気持ちは嬉しいよ。ありがとう、志乃」


 兄に微笑み掛けられて、志乃が僅かに頬を赤らめる。

 心底から羨ましい。


「兄様、ひとつお訊ねしても宜しいですか?」

「ん、何でも訊いてくれて構わないよ」

「リハビリについてですが、どうしてまた唐突に希望なされたのですか?」


 ともすれば不躾な問いであるかもしれず、訊くべきか迷った疑問を、率直なまま菜々希は兄にぶつけてみる。

 リハビリを受けること自体はもちろん良いことだと思う。思うけれど……普段の兄をよく知る菜々希からしてみれば、それは兄らしくない行動にも見えるのだ。


 その疑問の意図も判るからなのだろう。

 兄は小さく苦笑いしてみせてから「そうだね……」と何か思案する素振りをしてみせた。


「ちょっと事情があって、詳しく話すことは出来ないんだけれど。少し思う所があってね―――こっち(、、、)でも頑張ってみようと思った、としか言えないな。

 ……これじゃ曖昧すぎて、答えになってないかな?」

「いえ、ありがとうございます。リハビリ頑張って下さいませ」

「ありがとう、行ってくるよ」


 兄の言葉の真意は、正直全く判らなかったけれど。何にしても、兄が望んでいることであれば、それは菜々希自身の望みでもある。

 少し慣れない手つきで車椅子を転がし、部屋を出て行く兄の背中を見送ってから。菜々希は昨日の放課後、この部屋を訪ねたときのことを思い出していた。


 確か兄がそのとき、昼間に『カピノス・アーク』という企業の人と会った、という話をしていたのを覚えている。


「志乃。兄様は確か昨日、人と会っていたわね?」


 いつも通り、その時には志乃も一緒に居たはずである。

 志乃は兄のメイドであり、常に菜々希よりも兄のことを優先する。自分の記憶と志乃の記憶を統合すれば、その時のこともはっきりと思い出せる筈だ。


「はい。カピノス・アークの国広様とお会いした、と言っておられました」

「ああ―――。そうそう、確かに国広さんと言っていたわ。背が低くて小さい人だった、とも言っておられて……あちらの用件は確か、何かの〝モニター〟という話だったかしら?」

「……私も『モニターの依頼の話』とだけ覚えております。具体的に何のモニターなのかといった、詳しいことはおそらく時雨様もお話にならなかったかと。

 ただ、カピノス・アークからのお話となりますと、やはり―――」

「ええ。『カリヨン』関連でしょうね」


 『カリヨン』とは、カピノス・アークから兄に貸与されている医療補助端末のことである。テレビやインターネット、映画や小説や音楽といったあらゆるエンターテインメントコンテンツを『意志』による操作で快適に楽しめる装置だ。

 兄は予てより、この端末のことを非常に気に入っている節があった。そして兄は人から受けた恩義というものを、決して蔑ろにはしない部分がある。

 先方から『カリヨン』に続いて、今度は一体どのような『モニター』の依頼があったのかは判らないが。どのような内容であれ、兄が快諾したであろうことは想像に難くなかった。


「今回の兄の挙動と、何か関連があるとしか思えないのだけれど」

「同感です」


 菜々希の言葉に、志乃からもすぐに肯定が返ってくる。


 ―――兄に、何らかの心境の変化があったのは間違い無いのだ。

 そして入院生活という限られた環境の中では、兄に対して強い影響を与える要素というのは著しく狭まると考えて良い。

 外部の人と会った翌日に、兄に何かしらの変化があったなら。来訪したその人が兄に何かしらの影響を与えた―――と考えるのは自然なことではないか。


「志乃。カメラと盗聴器の記録を回収して」

「……よろしいのですか?」

「兄様は貸与された【カリヨン】の性能に感謝なさり、現在ではカピノス・アークの主要株主になっています。相手もそれを知っていて兄様に改めて再接触してきたのですから、何かしらの利用意図を持ってのことかもしれません。

 ―――何かあってからでは遅いのです」

「承知致しました。二分以内に回収致します」


 志乃はあまり良い顔をしなかったが、『兄の為』だと説けば行動を躊躇しない。

 志乃の中には兄に対する絶対の恩義があり、忠誠がある。


 兄は昔から、少々人が良すぎる嫌いがある。それはもちろん、兄の美点でもあるのだが―――もし兄の持つ財産を利用しようとする輩が居るのなら、兄に代わって菜々希と志乃の二人で対処しなければならない。

 その考えと意志は、菜々希と志乃の両者が共通して抱いているものだ。


 薄型テレビの裏、ベッドの背面枕側、カーテンレールの上、兄のタブレットPCの充電アダプターの中―――。兄の病室の中には3箇所のカメラと7つの盗聴器が普段から設置してある。

 もちろん今回のような有事に速やかに対処すべきためのものであり、決して兄のプライバシーを盗み見たり盗み聞きしたいわけでは無い。―――無いのだ。


 病棟内ということもあり、無線でデータをやり取りするタイプではない為、必要に応じて中身は手作業で回収しなければならない。

 どれもデータカードに記録するタイプなので、カードを新しいものに交換すればそれで済む。普段は半月毎にやっている作業なのだが、今回は場合が場合なのだ。すぐにでも回収すべきだろう。


 交換作業に慣れている志乃が、手際良くデータカードの交換を済ませてゆく。菜々希は菜々希で、兄が部屋に置いたままにしている財布を広げて中身を改める。

 兄は他人から受け取った名刺を、財布の中に仕舞っておく癖があるのだ。案の定、名前に『国広京子』と印字されたカピノス・アーク社の名刺はすぐに見つかった。

 名刺に記されている電話番号は、会社自体のものではなく携帯の番号のようだ。なぜ携帯番号を記載しているのかは判らないが、そちらのほうが菜々希にとっては却って都合が良いとも言える。

 場合によっては、名刺の主に個人的に『お話』をする必要が生じるかもしれないからだ。名刺全体を携帯のカメラで撮影してから、しっかりと財布の中に戻した。


「カードの交換、完了しました」

「ご苦労様。志乃、悪いけれど今日は先に屋敷に帰って頂戴。私が帰るまでにカメラと盗聴器の記録を精査しておいて欲しいのだけれど」

「承知致しました。帰宅には端居さんの車を利用しても構いませんか?」

「ええ、勿論。私はいつも通り21時までここに居るから、その頃にもう一度迎えに来て貰えるよう端居さんに伝えて置いて」


 深々と頭を下げてから、部屋を出て行く志乃を見送る。


 国広京子―――。兄を惑わすとは、一体どんな人なの。

 未だ会わぬその人を思い、菜々希は切歯(せっし)する。



     *



 菜々希は、過去に兄にリハビリを勧めた機会が幾度となくあった。

 自分の身体を在るが儘に受け入れ、諦念している兄の姿は、ともすれば妹である菜々希にから見てさえ、どこか危ういように見えたからだ。

 それこそ、まるで生きる希望そのものを消失しているかのような―――。

 それならば治る見込みは殆ど無いのだとしても、兄には、リハビリに打ち込んで頂く方が健全だと思ったのだ。


 しかし菜々希が何度勧めても、兄は首を縦に振らなかった。

 菜々希の頼みは何でも訊いてくれる兄が、けれどこれだけは頑なに拒んだのだ。

 理由を伺ってみても、ただ静かに「いいんだ」と漏らすばかりで。

 『それが兄の望みなら』と。いつしか菜々希も勧めることを諦めていたのに。


 ―――けれど、たった一日で。

 国広という女が兄にそれを為させたのだとしたら。


 その考えが、一抹の暗い感情となって菜々希の心の裡へ波紋を落とす。

 未だ会わぬその女に、菜々希は悲しいほどに嫉妬してしまっていたのだ。



 

 

 1章(+番外編)の内容は以上になります。

 ここまでお読み下さり、ありがとうございました。


 頂いております感想の拝読と、1章に登場した単語や設定の整理のため、明日より3日間ほど投稿をお休みさせて頂きます。

 申し訳ありませんが、何卒ご容赦下さい。再開は1月27日を予定しております。


 小説にお寄せ頂いております感想については、章区切りを迎えるごとに数日程度のお休みを頂き、その際に有難く読ませて頂こうと思っております。

(頂戴した感想や意見に影響を受けて話の内容などを変えやすい性分なもので、なかなか投稿継続中には感想を読むことができません。申し訳ありません。)


 お手数ながら誤字・脱字の指摘など早めに対応した方が良いご指摘につきましては、感想欄にではなく個人宛のメッセージにて頂戴できましたら幸いに存じます。

 よろしくお願い致します。

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