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リバーステイル・ロマネスク  作者: 旅籠文楽
1章 - 《イヴェリナの夜は深く》

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28. 夜は遙かに - 4

 


     [4]



「はあああぁぁぁ……」


 熱い湯の中にとっぷり身を浸すと、思わず深い溜息が出た。


 ―――『貸湯温泉・松ノ湯』の露天風呂。一番安価な貸湯でも1,400gitaと高額なそれは、けれど実際に利用してみれば金額に見合う贅沢であると実感できた。

 そう、そこは『露天』の風呂であったのだ。湯に浸かりながら頭上に満天の星空を拝むことができるそれが、贅沢でなくて何だというのだろう。


「うあーっ……きもちいぃー……」


 シグレのすぐ隣には、湯の快楽にそんな声を上げるキッカがいる。

 星灯りの天幕を存分に拝めるようにという配慮からか、露天風呂の脇に焚かれた照明は最小限に抑えられており、浴場は全体的に薄暗い。そのお陰で、あまり露骨に目を逸らすようなことをしなくとも、女性らしいプロポーションを持ったキッカのことを意識せずに済むのはシグレにとって幸いだった。


 四月も終わりに差し掛かろうかという今時分には、空気にはまだ仄かに冷たいもの混じっていることもあり、湯から出した頭部には心地良い冷たさが意識される。

 その温度差がまた、心地良くて―――これほど気持ちの良いものを今まで一度として体感してこなかったことを、今更ながらに勿体なかったなと思ったりもする。


「毎日でも入りたくなる気持ちが、よく判る気がしますよ……」


 シグレがそう漏らすと、隣のキッカが「そうでしょそうでしょ!」と嬉しそうに満面の笑みを浮かべながら、しきりに何度も頷いてみせる。


「やっぱり一日の締めにはこれが無いとだよねえ……。とはいえ、ひとりだと金額も馬鹿にならないし、ホント助かるよ」

「僕で良ければいつでも付き合いますよ。……僕も温泉の魅力には抗えそうにありませんし」

「そう? やたっ、毎日のように誘っちゃうからね」

「判りました。では僕も、その心積もりでいます」


 もちろん、年齢の近そうな女性と一緒に温泉というのには、些か抵抗を感じないでもない。特に先程、脱衣所で服を脱ぐときには……貸切の小さな露天風呂なのだから当然かもしれないが、場所が男女で分け隔てられていないこともあり、随分と恥ずかしい思いをした。

 けれど―――こうして熱い湯に身を投じてしまうと。そうしたことは全て些末なことだったなあ、とも思えてしまう。気恥ずかしさとか抵抗感とか、そういったものは忽ち全部吹っ飛ばされてしまうからだ。

 それほどに、温泉の充足感というものは圧倒的だった。


「温泉って塩水なんですね……。初めて知りました」


 口元に付着した温泉の湯が、仄かな塩っ気を感じさせて。半ば無意識的にシグレがそう漏らすと、隣のキッカから「いやいやいや」とすぐに否定が返された。


「普通はそうじゃない所のほうが多いと思うよ? ここのお湯がしょっぱいのは、単に塩化物泉だからなんじゃないかな」

「ああ……なるほど、一口に温泉と言っても色々種類があるのですね」

「そりゃそうだよ。もしかしてシグレは、温泉は初めて?」

「ええ。それどころか、こんなに熱いお風呂に入るのも初めてで……」


 病棟で入浴介助を受ける場合には、どうしても湯の設定温度は若干低めになってしまう。安全の観点からもそうすべきなのだろうし、そもそも熱い湯を張った風呂で介助作業を行うとなると看護師の方も大変だろうから仕方の無いことでもある。

 だけれど―――湯の温度というものが、入浴時に得られる快楽にこれほど直結する要素だとは思わなかった。熱い湯に身を浸しているとそれだけで、まるで身体が湯に(ほぐ)されていくかのような心地よさがある。


「こういうのを訊いちゃうのって、マナー違反なのかもしれないけれど……現実(リアル)のシグレって、やっぱりどこか身体が悪かったりするの?」


 少し申し訳なさそうな声音になりながら、キッカがそう問いかける。

 彼女がそう考えるのは、別におかしいことではない。このゲーム―――〈リバーステイル・オンライン〉にログインする為の必要端末である『カリヨン』は、そもそもが長期入院患者向けに供される医療補助端末であるからだ。


「そうですね、少々下肢を悪くしていまして……。歩いたりとかベッドから立ち上がったりとか、そういうのは自由にできない部分が多いです。なので、物心付いた頃から入院生活を続けていますね」

「そっかあ……苦労してるんだね」

「いえ、嫌なことばかりでもありません。何しろそのお陰で、こちらの世界に来る機会に恵まれることができたのですから」


 入院生活に大変便利な端末である『カリヨン』を貸与してくれていることといい、モニターの体でゲームに誘ってくれたことといい……。

 本当に『カピノス・アーク』の人には幾ら感謝してもしたり無いな、と思う。


「そういえば、キッカはあまり身体が悪いようには見えませんが……?」


 自分と同じ『プレイヤー』である以上、キッカもまた『カリヨン』端末を貸与されている筈なのだが。しかし、キッカの体つきは日常的に運動を嗜んでいることが伺える、無駄なく引き締まったアスリート体型である。

 筋肉質というほどではないので、あくまで部活動レベルでの嗜みではあるのだろうけれど。多くの長期入院患者に見られるような不健康さは、彼女から受ける印象の中には皆無といってよかった。


「うん。今まで一度も入院した経験もないし、普通の学生だよ。私がこのゲームに参加できるのは……アルバイトで縁があってね。ゲームの開発にちょっぴり貢献したから、かな?」

「貢献……ですか?」

「うん。シグレはさ『電子クローン』って単語、知ってる?」


 ―――会話に突然引き出されたその単語は、シグレにも覚えがあった。


「単語だけなら知っていますね。確かゲームを始める際に、キャラクターの作成を手伝って下さった開発スタッフの方が、少し口にしていた気がしますが……」

「そっか。私も詳しくは知らないんだけど……このゲームで使われてる人工知能(AI)にはその『電子クローン』っていうのが使われてるらしくてね。その技術のお陰でこの世界のNPCの人は、現実(リアル)の人と全く変わらないぐらい頭が回るし色々と喋れるらしいんだけど。

 これ『クローン』って言うからには当然、元にしたものがあって。アルバイトとして募集を掛けて、色んな人からサンプルを集めてるらしいんだ」

「……つまり、キッカもそのアルバイトに?」

「うんうん。なんか『MRI』って言うの? あれによく似た機械に頭を入れて、二時間ぐらい横になりながらスタッフの人と色々お喋りするだけの凄く楽なお仕事だったんだけどね。バイト代も良かったし。

 その時に取ったデータから作られた『電子クローン』が実際にゲーム内で使われることになったから、良ければ参加しませんか―――って、スタッフの人が勧誘に自宅まで来たのが先月のことかな」

「なるほど……」


 医療補助端末である『カリヨン』を利用したゲームなので、実質的に長期入院患者のプレイヤーがメイン対象となってしまっているけれど。別に開発側としては、対象を入院患者だけに絞りたいわけでもないのだろう。

 というより『モニター』という体をあくまで主張するのであれば、プレイヤーの対象は幅広く取る方が望ましいのは言うまでもない。


「なんだか、不思議だねぇ……」

「そうですね……」


 キッカの呟きに、シグレも頷く。

 片や入院患者の引きこもりであり、片やは普通の学生である。互いに全く接点が無いにも拘わらず、こうして一緒に〈イヴェリナ〉の世界で出会い、魔物を相手に狩りをして。そして一緒に温泉を満喫するに至っている。

 そのことが―――何だか、妙に不思議に思えた。


 もちろん接点のない人同士が巡り会うというのは、別に『オンラインゲーム』の場に於いては珍しいことではない。というより、ごく一般的なことでさえある。

 しかし現実(リアル)の時間を一部だけを切り抜いてプレイするような通常のオンラインゲームでは、きっと今のシグレ達が意識しているような、一日で得た感動と充足とをしみじみと共有し合うような感覚が生まれる無かったろう。


「明日もまた、何か一緒に狩りに行こっか」

「そうですね……僕でよければ、お供します」


 明日の約束も問題無くできてしまう。

 この世界では、相手のログイン時間をわざわざ気にする必要などない。


 ゲームを開始する際に―――開発スタッフの深見さんはシグレに対し、この世界で『もうひとつの人生』を過ごして欲しいと告げた。

 その言葉の意味が、今更ながらシグレにも少しだけ理解できたような気がする。ここは仮想の世界ではあっても非現実ではない。『現実』のひとつなのだ―――。



     *



 ―――この世界の名前は〈イヴェリナ〉。

 一日の大半を通して歩き回った街の名前は『王都アーカナム』。

 プレイヤーのことは『天擁(プレイア)』と言い、NPCは『星白(エンピース)』と言う。


(ああ―――なんだ、駄洒落みたいなものじゃないか)


 プレイヤーが『プレイア』。エヌピーシーが『エンピース』。

 こちらの世界独自の単語なのだと思っていたが。今更ながらに気付いてみれば、それは既存の言葉をただ崩しただけの、一種の語呂合わせにも似たものでしかない。


 心の中で苦笑しながら、隣に座るキッカと共に夜天の星空を眺める。

 ぽっかりと丸い綺麗な月も浮かんでいるそれは、ゲームを始めた直後に目にした何もない世界の天幕よりも、ずっと魅力的な景色であるように思えた。


 冬を思わせる低くて近い夜空と、夏を思わせる澄んだ星の瞬きが相俟った、春にしか見ることのできない不思議な夜空。

 湯に浸かって空ばかりを見つめていると。シグレはいま、自分がどんな時と場所に居るのかが判らなくなってくる。


 ―――〈イヴェリナ〉の夜は深く、油断すると忽ち呑み込まれそうだ。

 赤く煌めく遠くの星と、青く揺らめく近くの星。二つの幻想が廻る透徹な世界に呑まれて、自分はいまここに居るのかも知れない。

 この世界に来てから、僅かに一日。たった一日の中で無数に感じる機会があった幾つもの心の機微を思い返し、そのひとつひとつに酔いしれながら。夢幻の世界の住人となった自分が過ごす、これからの未来(さき)のことへと、シグレは瞼を閉じて静かに思いを馳せた。


「ち、ちょっと―――シグレ大丈夫!? まさか、のぼせたの!?」


 次第に意識が霞んでいく中で、慌ただしいキッカの声が聞こえる。

 人生で初めて経験する温泉。普段よりもずっと熱い湯に浸かり続けたことで、自分が湯あたりしてしまったことをシグレが知るのは、もう少しだけ後の話だった。




                - 1章《イヴェリナの夜は深く》了


 

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