15. 〈騎士〉キッカ - 1
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それはちょうどギルド二階の『バンガード』で、キッカが遅めの朝食を摂っている最中のことだった。
キッカが注文したのは卵と春野菜のサンドイッチ。カウンターでマスターから受け取ったばかりの、淹れたて珈琲を片手に頂く新鮮野菜のサンドイッチというものは、ここ最近『異世界』に於けるキッカの一日の始まりとして、最もお気に入りのものだった。
掃討者専門の飲食店と言ってよい『バンガード』は全てのメニューがとにかく安くて量があり、それはサンドイッチひとつとっても例外ではない。近頃、現実の世界ではニュースで野菜の高騰を伝えない日は無いというのに。贅沢過ぎるほどに具材が沢山詰まったサンドイッチは、朝から倖せの酩酊でキッカを十分に酔わせてくれる。
こちらの―――ゲーム内の世界で〝もうひとつの人生〟を始めてからというもの。『掃討者』という生業が身体を酷使するものであるためか、キッカは食事を、特に朝食を多く食べるようになってしまった。防具を身につけてフィールドを駆け回り、長い槍を振り回すのには体力を使う。そうでなければ身が持たないのだ。
『バンガード』のサンドイッチはそれ一品だけで、キッカの食欲さえ十分に満たしてくれるだけの量があるのだから有難い。
「ちょうど今、階下であなたと同じ『天擁』の方がひとり、ギルドの登録作業を進めていらっしゃいますが。どうしますか?」
「―――えっ、ホント?」
クローネが話しかけて来たのは、キッカが皿一杯に盛られたサンドイッチを半分ほど片付けた頃のことだ。
毎日の朝食を『バンガード』で食べると決めているキッカは、窓口業務を主に務めるクローネとは、いつも掃討者ギルドに来た際に必ず一度は顔を合わせる。二階に登る階段の前でキッカが軽く手を振り、それを見たクローネが軽く頷いて応える。それが二人にとってのいつものやりとりだった。
毎日訪れる『掃討者ギルド』の職員の中には、何人か親しく会話を交わす相手が居て。特にキッカがまだ初心者だった頃から付き合いのあるクローネとは、休日に一緒に食べ歩きをしたり、露店市で互いの服を見繕い合う程度には仲良くして貰っている。
けれど今日のように、二階で朝食を食べている所にわざわざクローネが訪ねてきてくれるようなことは、キッカにとっても初めてのことだった。
「わ、わ! ぜ、是非紹介して欲しいな!」
「ちなみに男性の方ですが、構いませんか?」
「もちろん! 男の人でも女の人でも、『天擁』なら紹介して欲しいよ!」
興奮を隠しもせず、クローネに対し半ば前のめりに詰め寄りながらそう求める。
以前よりキッカはクローネに、もしギルドに『天擁』の人が新しく登録に来るようなことがあれば紹介して欲しい、と。そんなことを頼み込んでいたのである。
キッカがこの世界に来たのは―――〈リバーステイル・オンライン〉の世界に飛び込んだのは、もう一ヶ月以上も前のことになる。
現実世界で一ヶ月が経過している事実は、そのままキッカがゲーム内で過ごした時間もまた一ヶ月以上であることを意味する。毎日必ず朝6時に目を覚まし、日付が変わる頃までの約18時間。異世界で過ごす丸一日かけての冒険を、キッカは一ヶ月以上繰り返してきたのだ。
冒険と言っても、それは魔物を狩ることだけを意味しない。
現時点でキッカのレベルは『8』にまで上がっているけれど、こちらの世界で過ごした日数の割に、街の外で魔物を狩っていた時間はそれほど多くはないと思う。せいぜい毎日二時間から三時間といった所だろう。
けれど〈イヴェリナ〉の世界で過ごした一ヶ月間は。狩りに限らず全てのものが、正に『冒険』の連続だった―――と、キッカはしみじみと思う。
何も勝手が判らない未知の街中を歩き回るのは、それだけでも十分に『冒険』と呼べる感動をキッカに与えてくれた。こちらの世界で美味しいお店を探し回ることも、露店市の中を歩き回って安価な生活用品を色々と〈ストレージ〉に蓄えることも、こちらの世界の住人である『星白』の人達と交流を持つことも。全てが余す所無く、キッカに対して様々な感動を与えてくれたのだ。
けれど、悲しかったのは―――キッカにはその『感動』を共有する相手が居ないという事実だった。
一ヶ月を過ごしたことで、こちらの世界にも知り合いは沢山できた。中にはクローネのように、時折食事を一緒にしたりする程度には仲の良い『友人』と呼べる相手も居る。
大抵のゲームで〝NPC〟と呼ばれる存在である筈の『星白』の人達が、現実世界に於ける普通の『人間』のそれと全く変わらない存在であることは、今となってはキッカも十分に理解している事実であった。
現実世界の友人と他愛もない会話を交わすのと同じように、この世界での『星白』の友人にはどんな話でもすることができたし、実際どんな話を振っても『星白』の皆は現実の友人となんら変わらない反応を示してくれたように思う。
プレイヤーとNPCというものを分け隔てる気持ちは、全くキッカにはない。
だけど―――それでも、どうしても。共有出来ない部分というのもある。
それは『感動』そのものだ。未知の世界で体感されるあらゆることが、キッカにとっては初めての感動を呼び起こしてくれる新鮮なものばかりであったけれど。それは、もともと〈イヴェリナ〉の住人である『星白』の人達にとっては、ごく当たり前の日常である。
最初にこの世界でキャラクターを作ったとき、与えられた衣装は『稀人の衣服』というアイテムだった。稀人とはつまり、旅人を意味する言葉だ。夜ごとに夢の中でこの〈イヴェリナ〉へ『旅』をしにきて得た感動だけは、自分と同じ旅人の相手にしか―――即ち『天擁』の人としか共有することはできない。
同じ旅人としての目線で、全てを語り合える友人をキッカは欲していた。
だが、こちらの世界で一ヶ月を過ごしてみて、キッカは愕然としたものだ。
〈イヴェリナ〉に於ける中央都市のひとつである、ここ『王都アーカナム』でさえ、自分以外の『天擁』と出会う機会というものが全くと言って良いほど得られなかったからだ。
プレイヤーの総数が少ない世界であることは理解していたけれど、まさか望んでもここまで出会えない相手であるとは思わなかった。
というかそもそも『天擁』と『星白』は全く見分けが付かないから、街中を歩いていれば自分と同じ『天擁』に出会えるというものでもないのだ。まさか街を歩く人ひとりひとりに「あなたはプレイヤーですか?」なんて訊いて回るわけにもいかないのである。
いつしかキッカは、ギルド二階の『パーティメンバー募集掲示板』を毎日チェックして様々なパーティに参加する、渡りの〈騎士〉となった。
色んなパーティに参加して新しい人と巡り会い、この世界での友人を増やしたいという目的もある。けれどその一番の目的が、自分と同じ『天擁』と出会うことであったのは言うまでも無い。
同時にキッカは、ギルドの窓口を担当するクローネに、新しくギルドへ登録する為に『天擁』の人が来たら、最大限の助力は惜しまないので紹介して欲しい、とお願いもしていたのである。
*
―――果たして、そのキッカの願いは報われたと言えよう。
窓口の業務に戻るべく、同伴したシグレを残して階下へと戻ってしまったクローネ。彼女が置き土産代わりに『バンガード』のマスターに注文していったサービスの珈琲が、テーブルを挟んだキッカの正面側に座るシグレの前に届けられる。
掃討者ギルドの二階、荒くれ者が集う店だけあって、この店は昼間であっても少々酒臭い部分があるけれど。そんな店内にも、すっきりと香味を湛える珈琲の香りは心地良く浸透する。
「私と同じものを頼んで行っちゃったみたいだけど……大丈夫? 飲める?」
「お酒を出されたら困る所でしたが、これでしたら問題無く」
大人でも珈琲を飲めない人というのは少なくない。事実キッカの父母は二人とも珈琲というものが苦手であり、実家暮らしをしていた頃にコーヒーメーカーを使うのはキッカただひとりだった。
けれど、そのキッカの心配は無用なものであったらしい。シグレは添え付けの小瓶に入ったミルクも砂糖も使わず、そのままブラックの珈琲に躊躇いも無く口を付けてみせた。
「ああ―――これは、なかなか」
「ふふっ、なかなかでしょう? 私も気に入ってるんだよね」
「最近は缶の珈琲しか飲む機会が無かったもので……。なんだか不思議なものですね。『ゲーム』である筈の世界で、こんなに美味しい珈琲が飲めるなんて」
「うんうん! やっぱりそう思うよね!」
自分と同じ目線から、自分と同じ感動を抱いてくれるのが嬉しい。
珈琲を美味しいと思ってくれる、そのことだけで。シグレという名の彼が、自分の中で忽ち特別な存在になっていくのをキッカは意識する。
「やー、お酒はお酒で気にいったんだけどさ。やっぱり昼に飲むならこっちのほうがいいよね」
「……お酒を、飲まれたのですか? 初対面の方相手に年齢の話というのも失礼かもしれませんが、おそらくキッカは自分と同じぐらいの年齢のように見えたのですが」
「ん、呼び捨てにしてくれてありがとね。でもさ、できればその敬語も、やめない? 確かに私はまだ十七だから、年齢的にはシグレとあんまり変わらないと思うしさ。シグレはいま、幾つ?」
「すみません、敬語については自分の癖のようなものなので、改めるのは難しいかもしれませんね……。あ、自分は最近になって十八になりました」
年齢はひとつしか変わらず、背丈もほぼ同じぐらい。
その割には同年代の男子に比べて、随分と落ち着き払った所があるのが少々気になるけれど―――共感すべき部分が増えたことで、ますます彼という存在に対して親しみを覚えずにはいられない自分がそこにはあった。
「お酒なんだけどさ。こっちの世界には特に飲酒に対する年齢制限みたいなのは無いみたいだし、近いうちにシグレも一度飲んでみるといいと思うよ?」
「ですが、自分は未成年なわけですし」
「この世界を楽しむのなら、その辺はある程度割り切ったほうがいいと思うよ? ゲーム内で飲酒行為をしたからって、現実の身体に悪影響が出るわけじゃないんだし」
「……それはまあ、確かにそうかもしれませんが」
「でしょう?」
声を上げてキッカが笑うと、シグレは少し困ったような笑顔を浮かべてみせる。
機会があればぜひ、彼に初めてのお酒を飲ませてみようと。そうキッカが心の中で決めた瞬間だとは、きっとシグレも気付かなかったに違いない。