119. 多天恵魔術師 - 2
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『涼しいな、ここは』
「たぶん魔具で冷やしているんだろうね」
王城内へ足を踏み入れると、外の暑気が嘘のように建物の中は涼しかった。
おそらくは、シグレが宿の自室で用いているような冷房効果を発揮する魔具を、王城内で多数稼働させているのだろう。
魔具は魔石を消費して稼働する製品であるため、その稼働費用は決して安いものではないのだが。王城のような多くの人が詰めている場所であれば、暑さのせいで労働効率を落とすよりは賢明な選択なのかもしれない。
『庭園とやらはどちらだ? 我には道が判らぬから、主人が先導して欲しい』
「ん、了解。こっちだよ」
黒鉄の希望に応え、シグレは足取り軽く王城の廊下を歩く。
定期的にルーチェに血液を―――『涙銀』を提供しにきているシグレにとって、王城は既に通い慣れた場所でもある。
少しずつ面識を得つつある、城内の要所要所に立つ守衛の人達に挨拶しながら。シグレは王城の敷地を迷うこともなく進む。
やがてシグレが庭園の傍へ来ると。既に芝生に座り休んでいた先客の女の子が、こちらに気付いて軽く手を振ってみせた。
女の子とは言っても、それはルーチェ本人ではない。常にルーチェの傍にいる、彼女の使い魔である戦乙女のイレルルだった。
『ごきげんよう、シグレさん。今回は使い魔の方も一緒なのですね』
「こんにちは、イレルルさん。ルーチェはどちらに?」
『ふふ、ここにいるではありませんか』
くすりと小さく笑みを零すと、イレルルは身体の下のほうを指差してみせる。
芝生の上に正座しているイレルルの膝には、それを枕にして安らかな寝息を立てているルーチェの姿があった。
常に背筋をピンと伸ばし、はきはきとした物言いを好むルーチェは、対面して話していると凄く大人びた女性にも感じられるのだが。こうしてイレルルの膝の上で無防備な寝顔をしている姿だけを見ると、逆に随分と幼い子供であるかのようにも思えてくるから不思議だ。
『シグレさんも、どうぞお座りになって下さいな。もしくは今日は天気が良いですから、ルーチェのように横になるのも気持ちいいと思いますよ』
「あ、はい」
イレルルから促され、彼女のすぐ近くにシグレは腰を下ろす。
適切に管理されているからなのか、王城庭園の芝生は長さが均一に揃えられており、ふかふかしていて座っていて心地良い。
『主人。この庭園を適当に見て回っても構わぬか?』
王城は初めて来る場所だから色々と気になるのだろう。
そう訊ねてきた黒鉄の尻尾は、ぶんぶんと期待に揺れていた。
「いいけれど、他に庭園を利用しに来る人を驚かさないようにね」
『うむ、そこは承知している』
即時承諾すると、黒鉄は嬉しそうにぶんぶんと尻尾を振りながら、庭園の中央にある流水階段の水路のほうへ行ってしまった。
暑い中を歩いてきたから、喉が渇いていたのだろう。水路に頭を突っ込んでいる黒鉄の様子を遠目に眺めていると、隣からイレルルが『シグレさん』と念話で声を掛けてきた。
『なんでも本日は、訓練場で騎士の方を相手に試合を行われるとか』
「え、ええ。まあ……そういうことに、なってしまいました」
『あら。シグレさん本人は、あまり乗り気でない感じでしょうか?』
イレルルにそう問われ、どう答えたものかシグレは一瞬迷う。
適当に誤魔化そうかとも思ったが、問いかけてきたイレルルの視線が思いのほか真っ直ぐなものだったから、結局は正直に頷くことで応えた。
「他人に暴力を振るったり、振るわれたりするのは好きでは無いので……」
『……試合であれば、それは互いに納得していることだと思いますが?』
「そうですね。その通りなのだと思います。なので……これはあくまで、僕個人の好き嫌いの問題なのだと判ってはいるのですが」
『なるほど。お優しそうですもんね、シグレさんは』
そう言って、イレルルはくすくすと可笑しそうに笑ってみせる。
たぶん褒められているわけではないのだろうな、とシグレは内心で思った。
「んっ……」
眠っているルーチェの口から、吐息混じりに小さな声が漏れた。
『あら、ルーチェを起こしてしまったようですね。目覚まし代わりに、何か飲み物でも淹れてくるとしましょうか。後のことはシグレさんにお任せしても?』
「それは構いませんが……」
『では』
「―――ふぎゃっ!」
イレルルがすっくと立ち上がると同時に、その膝を枕にしていたルーチェの頭が勢いよく地面に叩き付けられる。
柔らかな芝生に覆われた地面とはいえ、後頭部に受ける不意打ちの衝撃は地味に痛そうだ。
「くうっ……! い、イレルル! お、起こすならもっと優しく起こせ……!」
『生憎と、呼び出した相手が来ても眠りこけているような、傲慢な主に対する気遣いの持ち合わせはありませんので』
イレルルは自らの主である筈のルーチェに冷たい声でそう言い放つと、そそくさとどこかへ行ってしまった。
……どうやら〈召喚術師〉と使い魔との関係は、人によって結構形が違うものであるらしい。いつの間にかシグレの近くにまで戻って来ていた黒鉄が、ルーチェとイレルルの関係を目の当たりにして、どこか呆れたような表情をしながらシグレのほうを一瞥してみせた。
「む……それは確かに、その通りか。すまない、シグレ。呼びつけておいて眠っているようでは、イレルルが怒るのも無理はないな」
「いえ、僕らも先程来たばかりですから気にしないで下さい」
「そうか、それならいい。……ところで、そちらがシグレの使い魔の黒鉄だな?」
『うむ。主人がいつも世話になっている』
黒鉄に向けてぺこりと軽く一礼したルーチェに対し、黒鉄もまた小さく頭を下げることで応える。
「私も〈召喚術師〉の天恵を持っているのでな。シグレとは互いの使い魔について話す機会も多く、黒鉄のことは前から聞いていたのだが。何というか……本当に、随分と大きな魔犬なのだな」
『元々はもっと小さかったのだが……。主人から、常に過剰すぎる量の余剰魔力を受け取っているからな。気付けばこの大きさになってしまっていた』
「なるほど。シグレのMP容量と自然回復の速度は、凄まじいものがあるからな。黒鉄がそれほどの大きさにまで育つのも、納得できようというものだ」
そう良いながら、うんうんとルーチェは頻りに何度も頷いてみせる。
ルーチェの身長は160cm弱ぐらいなので、既に体高が1メートルを越えている黒鉄の身体は、彼女から見ればかなり大きく見えることだろう。
「そういえばシグレ。その……今回のことは、本当に申し訳無い」
「えっ? な、何がですか?」
唐突にルーチェから深々と頭を下げられ、思わずシグレは狼狽する。
「無論、試合の話だとも。おそらくは私の父上が、シグレにかなり無理を言ったのではないか?」
「ああ―――いえ、そんなことは無いですよ」
ルーチェの言葉を、慌ててシグレは否定する。
あの日、モルクから唐突に提案された『試合』の話は、シグレにとってあまりに意外なものだったから。淀みなく話すモルクの勢いに負けて、半ば無意識的に引き受けてしまった話ではあるのだが―――。
とはいえ、別に『無理』を言われたという事実は無い。
「そうか……。もし嫌であれば、今から断ってくれても構わないのだぞ? 父上や集められた騎士達には、私の方から話をしておけば済む」
「いえ、大丈夫です。既に覚悟は決めていますし、それに―――」
「それに?」
「ライブラには普段から世話になっていますから。自分が戦い方を披露することで彼の論文の為になるのでしたら、断る理由はありませんので」
「……なるほど。いかにもシグレらしい、優しい理由だな」
小さな声でそう告げると、ルーチェは嬉しそうに目を細めて笑ってみせた。
ルーチェは普段から常に冷静で、どこか淡々とした口調で話す癖もあるせいか、感情を見せる機会が殆ど無いのだが。相好を崩したルーチェの表情は―――まるで不意打ちのように、どきりとシグレの心を高鳴らせる。
「ならばライブラの上司として、私からも改めてシグレに依頼するとしよう。私と父上、それから騎士や兵士達の前で、遺憾なく君の実力を披露してやって欲しい」
「はい。非才の身ですが、やれるだけはやってみましょう」
「うん、私も君の戦闘技術が見られるのを、心から楽しみにしている。
しかし―――涙銀の提供といいライブラのことといい、シグレには本当に色々と世話になりっぱなしだな……。今回のことが終わったら個人的に礼をしたいので、時間を作って貰えないか?」
「それは構いませんが……。別に僕は、大したことはしていませんよ?」
「そんなことはない。シグレはいつでも、私の望むものを与えてくれる。
さて―――もう少しゆっくり過ごしたい所だが、刻限も迫ってきているようだ。シグレはまだ、訓練場へは行ったことが無いだろう? 私が案内しよう」
芝生から立ち上がったルーチェが、シグレのほうへ片手を差し出してくる。
彼女の手を受けて、シグレもまた立ち上がる。論文を書いたライブラの為にも、相応の評価が受けられる程度に、実力を示さなければならないとは思っていたが。
ルーチェが期待してくれるのであれば―――是非とも、持てる実力の全てを発揮しなければならないな、と。
そうシグレは心の内で、より一層の覚悟を決めるのだった。