105. 忙しない魔術師 - 6
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エフレムとの商談は難航したが、最終的にはフェルトペン1本あたり300gitaという安価で決着した。
手習いで作ったものを高く売るわけにはいかないし、それに価値の高い魔術書を貰ってしまう以上、価格を最低まで抑えることは当然だと思えた。
原価で言えばペン1本作るのに200gitaも掛かってはいないので、この価格で全て譲渡しても赤字ということはない。
「シグレ君は欲がない人ですねえ……」
どこか諦観じみた表情で、そんな風にエフレムから言われてしまうが。
カグヤの作った武具に付与を施すことで得ている利益や、『魔具職人ギルド』で買い取って貰う『魔符』からの収入が馬鹿にならない額に達していることもあり、実際シグレは全く金に困ってはいなかった。
というか正直、使い途が無くて持て余している。
「では、この魔術書は有難く頂戴致します」
「うん。是非シグレ君の仕事に役立ててくれると嬉しいです」
嬉々としてシグレは【帰還】の魔術書を〈ストレージ〉へ収納する。
ユウジも同行してくれることになった以上、危険性は殆ど無いだろうが。明日は〈迷宮地〉である『ゴブリンの巣』へ行くのだから、可能ならば今夜の内に仲間に持たせる【帰還】の『巻物』を生産しておきたい。
『天擁』であるシグレとキッカ、ユウジの三人。それから使い魔である黒鉄には元より『死』のリスクはない。だから必要な【帰還】の『巻物』はカグヤとエミル、ライブラとユーリの四人分だ。
(『巻物』の製作って大変なんだよなあ……)
魔符を作る場合は、そのスペルの『魔力語』だけを符に術せば良いのだが。巻物を作る場合は、それに加えて『詠唱句』も書き術す必要がある。
『魔力語』も『詠唱句』も、どちらも魔術文字で術さなければならないので、日本語に対応する文字を辞書を使って逐一調べなければならない。
しかも書き慣れない文字を術さなければならないというのに、どちらの場合でも製作する上で誤字は絶対に許されないのだ。
たった一文字書き損じるだけで、魔符や巻物は容易く無価値へと変わる。
高価な魔石を砕き、その粉末を溶いた特殊なインクを製作素材に用いるだけに、ひとつミスしただけでも金銭被害は結構な額になる。魔符や巻物の製作とは、職人の神経を磨り減らす辛い作業に他ならなかった。
(……たぶん今夜は、日付が変わるぐらいまで工房に籠ることになりそうだ)
今日一日のあまりの忙しなさを思い、シグレは苦笑する。
『生き急ぐ必要は無い』という格言を好むと、先程エフレムに告げたばかりだと言うのに。随分と慌ただしく生きてしまっている自分の現状が恨めしい、
「さて、シグレ君。僕からの話も終わったし、彼の話に移ろうと思うのだけれど」
そう言ってからエフレムは右手を捻り、くいっと親指で隣を示す。
はあっ、とエフレムの対応にひとつ大きな溜息を吐いてから。指差されたモルクは改めてシグレのほうへ向き直ると、こくんと小さく頷いてみせた。
「私はモルク・スコーネと言う。この国で侯爵位を賜っている」
「シグレと言います。まだまだ駆け出しですが、掃討者をやっています」
やはり貴族の人なのか―――と内心で思いながら。モルクの側から差し出された右手を、すぐにシグレからも握り返す。
侯爵と言えば五爵の中でも公爵に次いで高い等級の筈だが。握り交わしたモルクの手は貴族と言うよりも、現役の掃討者を思わせるほど鍛えられたものだった。
「エフレムからは腕利きの掃討者だと聞いているが?」
「評価して頂けるのは嬉しいですが、事実ではないですね」
モルクの言葉を、シグレは即座に否定する。
何しろシグレは掃討者としての活動を始めてから、まだ二ヶ月ほどしか経過していないのだ。期間から考えても当面は『駆け出し』と言って間違いないだろう。
「シグレ君の謙遜は話半分に……いえ、話三分ぐらいで聞くほうが良いですよ? 少なくともうちの商会の護衛よりは、間違いなく手練れと言えますから」
「ほう」
「……僕の戦闘職のレベルは、たったの『2』ですよ?」
「掃討者の実力は必ずしもレベルと結びつかない。そのことをシグレ君と出会い、私はこの歳になってようやく理解したのですよ」
うんうん、と頻りに頷きながら、どこか愉快げにエフレムはそう告げるが。
分に過ぎる評価を貰っても、シグレとしては困惑するばかりだった。
「……うん? スコーネさん、ですか?」
ダンディな貴族が名乗った名前。
その姓に、シグレは聞き覚えがあった。
「娘が世話になっているらしいな?」
シグレの言葉を受けて、モルクがニヤリと意味深な笑みを浮かべる。
そう。シグレが以前『スコーネ』という単語を耳にしたのは、王城を初めて訪問した時のこと。『銀術師ギルド』の代表として会ってくれたルーチェが、自己紹介してくれた言葉の中でのことだった。
―――魔術技官をしている、ルーチェ・スコーネと言う。よろしくお願いする。
あの時ルーチェがしてくれた端的な挨拶を、シグレははっきりと覚えている。
「どうだ? 娘と私は、全く似てないだろう」
「……そうですね」
肯定して良いものかシグレは僅かに逡巡するものの。モルクとルーチェの外見が似てもにつかないのは事実なので、躊躇いがちに頷くことで応える。
シグレと同じ『銀血種』かと見紛うほど、ルーチェの髪が綺麗な白髪であったのに対し、モルクの髪は黒々とした若々しいものだ。
それにルーチェの髪からは『森林種』であることを示す細長い耳が飛び出ていたが、モルクの外見からはそうした種族特徴が窺えない。
「ルーチェの見た目は、私よりも妻にばかり似ていてな。どうやら森林種の血と一緒に、容貌の特徴は全て妻から継いでしまったらしい」
「なるほど……」
この世界には、ファンタジー小説などによく登場する『ハーフエルフ』のように血が混ざった種族というものは存在しない。種族が異なる男女が子を儲けた場合、その種族は必ず両親のどちらかと同じになるからだ。
『人間種』と『森林種』の男女が結婚すれば、生まれる子はそのどちらかの種族となり、もう一方の種族特性はその殆どが破棄される。
母親から『森林種』の血を継いだルーチェが、『人間種』だと思われるモルクと全く似ていないのも、仕方の無いことだと言えた。
「ですがルーチェの口調はモルクさんと良く似ていますね」
「そういう部分は正直、あまり似て欲しく無かった……」
慰めるつもりで掛けたシグレの言葉は、却ってモルクの肩を落とさせてしまう。
「折角ルーチェは妻に似て、あんなにも見た目は可愛らしいというのに!
私の……私などのつまらぬ貴族的な物言いが感染ってしまったばかりに、大人を相手にしても臆せず話す、女傑の貫禄を身に付けてしまった。私は悲しい……」
「し、仕事ができる女性という感じで、ルーチェは格好良いと思いますよ?」
「……まあ、そうだな。格好良い女性が悪いとは言わん。幸い部下からも慕われているようだし。だが親としては、娘にはもう何年かはただ可愛いだけのままで居て欲しかったのだ……!」
溜め込んでいた鬱憤を吐き出すかのように、そう吐露するモルクの背中は随分と煤けているようにシグレには見えた。
言いたいことを吐き出したあと、はあはあと息を荒げるモルクは。けれど不意に何かを思い出したように「おお、そうだった」と口にすると、〈インベントリ〉の中から纏められた何かの書類を取り出し、シグレの目の前に置いた。
「娘の部下、で思い出したが。論文のほうは読ませて貰ったよ」
「は? 論文……ですか?」
言葉の意味が判らず、シグレは鸚鵡返しに問い返す。
問い返されたモルクは「ふむ?」と、どこか意外そうな顔をしてみせた。
「シグレ君の許可は得た上で書かれた論文だと、そう聞いていたのだが?」
「へっ?」
テーブル上に置かれた論文、その表紙には『多天恵魔術師の戦闘技術』と題字が大きく書かれている。
表紙の下部には論文の査読者と著者によるサインも入っており、査読者の欄には『ルーチェ・スコーネ』の名前が、著者欄には『ライブラ・トラップ』の名前が、それぞれ達筆で記されていた。
なるほど、とシグレはようやく得心する。
そういえば以前ライブラに『師匠の戦い方を論文に纏めても構いませんか?』とシグレは訊ねられたことがあった。また、ライブラの上司であるルーチェからも、同様のことを確認されたことがある。
シグレもあまり詳しくは無いのだが―――ライブラのように『技官』として王城に務める人は、定期的に王城に『論文』を提出する義務を負っているらしい。
論文のテーマは著者が自由に決めて良いらしく、特に制約なども無いらしいが。ライブラやルーチェは技官の中でも『魔術技官』という括りになるらしいので、やはり提出する論文にも『魔術』絡みのものが期待されるのだろう。
これはエミルからも以前よく指摘されたことだが―――詠唱時間が短い、もしくは詠唱を必要としない初級のスペルを大量に駆使するシグレの戦い方は、一般的な『魔術師』と較べてかなり変わったものであるらしい。
特に意識してそうしているわけではなく、単に自身の能力に合う戦闘スタイルを独自に模索した結果、今の形に落ち着いたに過ぎないのだが。正道の『魔術師』を良く知るライブラから見れば、シグレの戦い方はかなり興味を惹く対象として映るらしかった。
論文に纏める程の価値があるとも思えなかったが。ライブラには普段からかなり助けられていることもあり、もちろんシグレは彼の要望を快諾した。
とはいえ、まさか―――その結果として実際に書かれた論文を、こうして目の当たりにする機会があるとは思ってもいなかったわけだが。
「娘から直接手渡されてしまった手前、仕方なく読んだ論文だったが。なかなかに興味深く、そして有意義で期待させられる内容だった。
この論文に拠れば―――多天恵術師の最大の強みは、様々な状況に対応できる対応力にこそあるらしいが。シグレ君の意見はどうかな?」
「オリュニス……ですか?」
モルクの言葉を受けて、シグレは首を傾げる。
ギリシャ語の鳥類や復讐の女神を彷彿とさせる語とも思えたが、生憎と聞き覚えはなかった。
「多天恵術師というのは、多数の術師職天恵を有する魔術師のことだな。ライブラ君の書く論文では、術師職の天恵を三つ以上有する魔術師のこと、と定義してあるようだ。
ああ―――ちなみに、本来は『才能の持ち腐れ』を意味する卑語だな。正直を言って、あまり良い意味の言葉ではない」
「……なるほど」
「そういえば論文にはこんなことも書かれている。『多天恵術師の状況対応力は、魔術師単身での戦闘さえも可能にする。世の大半の魔術師と異なり、多天恵術師は単身でも並みの戦士程度ならば容易にねじ伏せるだけの力量を持つ』と。
私には随分と大きく出た文章にも思えたが。―――これは真実かね?」
「………」
どう答えたものか、とシグレは困惑する。
そんなことはありません、と否定を口にするのは簡単だが。そうしてしまうと、論文の中で自分の戦い方を評価してくれたライブラの記述もまた、否定してしまうことになる気がしたからだ。
「……やってみなければ、判りませんね」
暫しの思案の末に、シグレはそのように回答する。
「そうか―――では是非とも、実際にやってみて欲しい。
私のほうで王城の訓練場を手配し、あとは試合の相手として兵士か騎士を何人か見繕っておくとしよう。試合時刻は明日の午後あたりでどうかね?」
「……は?」
「もちろん他の日時のほうが都合が良いなら、指定してくれて構わないが?」
そういうつもりで『やってみなければ』と口にしたわけではなかったのだが。
どうやらモルクは、実際にシグレが王城の兵士と立ち合う姿を見ないことには、先程の回答では満足してはくれないらしかった。
「わ、判りました。……明日の午前は〈迷宮地〉に行く予定ですが、午後でしたら大丈夫だと思います。できれば正午よりも少し遅いほうが有難いですが」
「では十五時ということで場所と人を都合しておこう。
いやあ―――ライブラ君の論文を読んでからというもの、私も娘も、シグレ君の戦い方というものを一度実際に見たくて堪らなかったのだよ」
「見て面白いものでも無いと思うのですけれどね……」
愉快そうに笑うモルクとは対照的に、シグレは小さな溜息を吐く。
確かにシグレは単身でも戦闘を行うことがあるが……相手は常に魔物であって、対人戦闘の経験は皆無と言っていい。
王城に勤めるような充分に訓練された兵士を相手に、自分などが善戦できるとは全く思えなかった。
―――別に、生き急ぎたいわけではないのに。
今日の予定も明日の予定も、自分の思惑とは裏腹に埋まっていく現状を、シグレは心の中で密かに嘆くばかりだった。