ひっこし
「私、来年の二月から外国で生活するから」
宮川みさきの突然の告白のせいで、石田あおいの手からフォークが滑り落ちた。
パスタの盛られた皿に落ちて、陶器とステンレスがぶつかった音が鳴る。
幸いにも、ファミレスの店内は騒がしく、その音は目立つことなく雑音の中へ消えていった。
あおいはテーブルに落としたフォークを拾い、小さくため息を吐いた。
そしてみさきの目をじっと見つめた。
「なんで?」
ようやく出てきた言葉がそれだった。
「昔から、外国で暮らしてみたいなって思ってたんだよね」
みさきはこれから始まる新しい生活に胸を躍らせているのだろう。元から大きい目をさらに大きく開き、キラキラと輝かせている。そんなみさきとは対照的に、あおいの表情はかたくなっていく。
「……なんで?」
あおいはさっきと同じ内容の質問をした。どうやらみさきの返答は、あおいが知りたかったことではないようだ。それに気付いたのか、みさきは顎に手をあてて、しばらく考えてから口を開いた。
「もっとたくさんの楽しいことを知りたいから……かなぁ?」
みさきは首を斜めにかしげ、天井のシーリングファンを見上げた。どうやら本人自身もはっきりとした理由は分かっていないようだ。どちらかというと衝動的なものに近いのだろう。
「ッ……」
あおいは何かを言いかけたが、結局口を閉じて俯いてしまった。
二人の間に沈黙が流れる。あおいのパスタはすっかり冷めてしまった。みさきの話を聞いてから一口も手がつけられていない。
「そろそろ出よっか」
目に涙をためて下唇をギュッと噛んでいるあおいを見て、みさきが慰さめるようにそう言った。
帰り道でもあおいは一言も話さず、下を向いたままだった。
「そんなに下ばかり見て歩いたら危ないよ」
あおいの小さな手を引っ張る。その温かさに、あおいの頬が涙で濡れていく。
「何がそんなに悲しいのさ」
「……ここにみさきちゃんにとっての楽しさはないの?」
私がいるだけじゃつまらないの? とは聞けなかった。
「あるよ」
みさきは笑顔で答えた。
「……だったら」
「だったら?」
「ずっとそばにいてほしいの……」
あおいの言葉に対して、みさきはポカンと口をあけて目をひらいた。
そして自分よりも小さい体のあおいを、もう片方の手でゆっくりと撫でた。
絹のように柔らかくて、力を込めると壊れてしまいそう。自分も女だけど、あおいは違う生き物みたい、とみさきは思った。
あおいは、そんなみさきの手をぎゅっと握る。離れてしまわないように。
どこか遠くへ行ってしまわないように。
「ばかだなぁ……」
みさきの言葉の意味を知るために、あおいは黙ってみさきをじっと見つめる。
「ここにいることと、そばにいることは違うでしょ? 私もあおいにそばにいてほしいよ」
「でも外国へ行くんでしょ? そばにいられなくなる……」
「うん、だからそばにいてほしいって言ってるじゃん」
「……? どういう意味?」
「一緒についてきてくれない?」
理解が遅れた。数秒固まったのちその意味を理解すると、あおいは開いた口を手で隠した。
「ずっと一緒にいてもいいの……?」
「今更すぎるよ。私たちはずっと一緒だよ」
あおいは思わず抱きついた。その小さな体全部で、みさきを抱きしめる。
そして大きく深く息をする。
さっきと鼓動の大きさは変わらないのに、今はとても温かい。
「うん」
もらった声がなくならないように、大切に応えた。
「三ヶ月くらいなんだけどいいよね?」
「……? 三ヶ月……? 引っ越しじゃない……の?」
「引っ越さないよ。さすがに無理でしょ」
初めから自分の勘違いだったことに気づいて、あおいの顔は一瞬で茹でタコのように赤くなった。顔から火が出る思いだった。
「もう! みさきちゃんはいつも言葉が足りてないんだよ!」
「あはは、ごめんね。あと知り合いの部屋を借りるんだけど、ベッドが一つしかないんだ。それでもいいよね?」
「ッ……! い、いいよ……」
あおいの頭は完全にショートして、煙を出した。
どこの国に行くか聞いてないことに気づいたが、そんなことよりも素敵な想像で頭がいっぱいになってしまった。
楽しい旅になったらいいな。