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我らが二年六組のクラス座席は、黒板から見て右から男女混合の出席番号順になっている。席替えをしようという意見を挙げる奴がいないのか、一学期が始まって二ヶ月が経とうとしているこの六月になっても、未だ席はそのままだ。恐らく夏が終わるまでこのままだろう。
俺の苗字の始まりは『な』なので黒板から見て右から三列目の前から四番目だ。丁度教室の中央辺り。クラスの異端者であろう俺がこんな教室の中心にいていいものだろうか。
俺の席の一つ前は、同じく『な』から始まる南雲の席だ。南雲は俺と同じく一年から進学クラスを選択している。一年の頃は出席番号の近さから知り合いになったのだ。
後ろの席は苗字が『ひ』から始まる影無しのあいつの席だ。そういえばあいつも一年から同じ進学クラスだったな。今朝教えてくれるまで全く覚えていなかった。まあ、他人に興味が湧かないので仕方がない事である。
影無しのあいつが後ろから俺の右肩をかちかち、とシャーペンのペン尻で軽く叩いた。俺が椅子の背もたれに深く背を預けると、声を潜めて話してくる。
「ね、陽くん。今朝の新聞、ありがとね」
シャーペンを器用にくるくる回しながら彼女は言った。
登校中、ひまわりを見ていた時に忘れていった新聞紙の束を、俺は見捨てずに教室まで運んだ。その事を言っているのだろう。
「......お前、そそっかしいってよく言われるだろ」
「え、なんで知ってるの? ストーカー?」
あほかこいつ。
「自惚れんな。......それよりお前、今日用事あるか」
丁度彼女の方から話しかけてきてくれたので、俺は今朝からずっと気になっていた彼女の『違和感』について聞こうと、彼女の今日の予定を聞いた。彼女は間抜けな驚き顔を向けてくる。まるでこの世のものではない物を見たみたいに。この世のものではないのはむしろお前の方なのだが。
微妙な沈黙に耐えかねて聞いた。
「......なんだよ、そんなに驚いて」
ようやく彼女が口を開いた。
「いやぁ......なんというか、陽くんってそんな事聞いてくるキャラじゃないよなーと思って」
確かにそんなキャラじゃないかもしれないが、今はそういう事は気にすべきではない。俺の本能が「早く彼女の『違和感』の原因を突き止めよ」とうるさいのだ。
「今はそんな事、別にどうでもいいんだ。ちょっと時間をくれ」
人に物を頼む態度ではなかったかもしれない。言った後で少し思ったが、彼女は気にしていないようだった。
「まあ、別に良いけど......なになに、もしかして告白?」
......ふむ、あながち間違ってない。ただし告白するのは彼女の方だが。
「......まあ、それでいいわ。じゃ、俺は朝お前と会った所で居るから。用があったら済ませてから来てくれ」
「えぇ、それでいいわって何よ......」
彼女は不服げに俺を軽く睨んできたが、すぐに元の、今が楽しくて仕方がなさそうな笑顔に戻して言った。
「まあ、いいか。いいよ、分かった」
正直彼女は快諾してくれるとは思っていなかったが、幸運な想定外だ。
お喋りをしているとホームルームが終了する。
「私、今から進路指導室行ってこなきゃだから。また後で」
「分かった」
思いのほか順調に事が運び、一安心した。
放課になり、皆思い思いに解散していく。間もなく教室の中はまばらになる。
生徒の喧騒が遠くの方に聞こえた。少し時間を潰す必要があるようだ。教室で少し勉強し、中庭の自販機へ行って缶コーヒーを買ってからひまわりが咲くあの場所まで行く事にする。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
午後四時少し前。影無しのあいつは小走りで駆け寄ってきた。俺は読んでいた文庫本から顔を上げ、鞄へ仕舞う。
住宅街の細い路地のここは、朝と比べて住宅の影が落ちているところがさらに多くなっている。相変わらず光の当たらないひまわりは風でゆらゆらと揺れていた。ふと、ここへ向かってくる時あいつの影を少し見たが、長く濃くアスファルトへ落とされた黒い人影は、やはり首から上、手首から先の影が無かった。黒いハイソックスを履いているので足の影は存在した。
「もう少しかかるかと思ってた。早かったな」
「うん、陽くんのために早めに切り上げたんだよー? 感謝してよね?」
『感謝してよね』の『ね』が『ねぇー?』と彼女は語尾を伸ばし上げ調子で発音する。最近の女子は皆こういう発音をするのかは友人の居ない俺には分からないが、少し癪に障った。
彼女が本題を問う。
「で、陽くん、ここに私を呼び出しといて、一体何の用かな? 告白でもしてくれる感じ?」
さっきの『感じ?』も『感じぃー?』と上げ調子で......と、まあ、これはもういい。
俺は気を引き締め、まるでこの世の隠された真実を問うように真剣に答えた。
「......ああ、告白といえば告白だな」
「うそ、ほんとに告白?」
彼女は少し楽しそうに言う。対して俺は殺気でも放っているような態度で言った。
「ああ......俺は、気付いたんだ............お前の」
「私の?」
彼女はまるで見世物を見るように興味心身といった様子の瞳で俺を見る。恐らくこの後言う俺の台詞で、この態度は反転してしまうだろう。
俺は言葉を切り、彼女を......影無しの彼女を見据え、言った。
「お前の......お前の頭と手先の影は、どうして地面に映っていないんだ?」
時が、止まった感じがした。
今日は強風が吹いている日だったが、それも凪ぎ、住宅街の向こうから聞こえてくる学校の喧騒も、武道館からの剣道部の掛け声も、道路を走る乗用車のエンジン音も、俺と彼女の息遣いも、全て止まった気がした。
ふと俺は、「しまった、何か取り返しの付かない、まずいことを言ってしまったのではないか」と錯覚した。冷静に考えるとむしろまずいことになったのは彼女の方で、俺は全くまずくなかったのだが、それでもこの雰囲気はまずい、そう感じた。
「......え? なん......て......?」
彼女は少しよろめき、一歩後ろへ下がった。住宅の影から彼女の影が分離し、姿を現す。頭と手の無い影が、ひとつ。
彼女の体が強張り、狼狽している様子がありありと伝わってきた。
俺は続けて問う。
どうして平然と高校生活を送られてきたのか、どうして誰も影が無いことに気が付かないのか。そして。
「お前は一体、何者なんだ......?」
俺は、彼女がようやく、呟くぐらいの声量で「......ばれたか」と言ったのを、聞き逃さなかった。
俺の横のひまわりが、静かに俺たちの会話を傍聴している気がしていた。