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前言撤回をしなくてはならない。ひまわりはどうやら六月でも咲き始めるようだ。興味が無いのでろくに調べたことが無かったのが原因で、憶測を語ってしまった。反省しなくてはならない。
学校へ続く本来の通学路から少し外れた、住宅街の路地を通って学校へ向かう。深い意味は特に無く、少し強くなってきた六月の日差しを避ける為に影の多い住宅街の方へわざわざ遠回りをしたのだ。そこまで遠回りと言うほどでもないのだが。
日差しが途切れ途切れになっている路地を進んでいると、開花しかけの背の小さなひまわりが一輪だけ、住宅と住宅の間に咲いているのを見つけた。花とも蕾とも区別がつかないぐらい中途半端な咲き方をしている。おまけに住宅の陰に入ってしまっており、陽の光が思うように当たっていない。
見つけたのはひまわりだけではない。同じ高校の制服を着た女子生徒が、その若いひまわりの前で座り込んでいた。制服のリボンの色は緑。俺と同じ二年生だ。ちなみに先程痴漢行為を受けていた女子高生Cのリボンの色は青だった。この高校では一年生は青、二年生は緑、三年生は赤、と定められている。男子のネクタイの色や体操服のズボンの色、通学用自転車の泥除けの上に張るステッカーの色なども同様だ。俺のネクタイも深い緑色をしている。
つい、その女子生徒の後ろに立ち止まって同じようにひまわりを見てしまう。彼女は住宅の間から射す太陽光を背に浴びている。俺はそれを遮るように立ち止まった。立ち止まって、と言ってもものの三秒程だ。
そういえば、人の第一印象は約五秒で決まるらしい。確かメラビアンの法則だったか、あれは誤解の解釈だったか、その辺りはうろ覚えだが、俺はたった五秒で「こいつとは趣味が合いそうにないな」と思ったのは事実だった。自分の嫌いな、それも特別嫌悪するものをじっと見つめていられる奴なんて、趣味性格が合致するはずがない。
この住宅街の路地から目と鼻の先に位置する学校の武道場から、剣道部の踏み込みの音が微かに聞こえてくる。どどん、どどどん、と。早朝練習が行われているのだろう。
「......んん? おはよう陽くん。なしてるん? こんなとこで」
見知らぬ女子に話しかけられる。......いや、本当に俺に話しかけたのか? 辺りを見回すが俺と彼女以外の人影は見当たらない。となると、彼女は俺に話しかけたのだろう。
......しかし『陽くん』とは一体誰のことだろうか。誰かと勘違いしていないか、こいつ。確かに俺の名前に『陽』という字は含まれているが。
「......陽くーん? ねーぼけーてるー? おーい」
俺の目の前で手のひらをひらひらひら、とさせる彼女。かなり目障りである。
「......なんだ、鬱陶しい。ていうかお前、誰だよ」
がーん、と効果音でもついてきそうなオーバーリアクションで驚愕と悲壮と落胆を顔で演出する。一体何者だ。
「......うそでしょ」
「ほんとだ」
「えぇー」
なんだこいつ、想像以上にうざったい奴だな。
ふと目線を下げると、足元に彼女の物らしいトートバッグが置かれていることに気が付いた。柄と呼べる程こだわって無さそうな色をした少し大きめのトートバックだ。明るいクリーム色の布地に、青くて太いラインが二本。底も青い生地で出来ている。そのそばには俺の影と彼女の影が、住宅の隙間から射す朝日でアスファルトに映し出されている。ここから少しでも動けば、俺の影は住宅の影と混ざり合ってしまうだろう。
「......?」
『違和感』を、感じ取った。
見知らぬ彼女、大きめのトートバック、二人の影、日陰に咲くひまわり。
「ねーえー、ほんとに分かんないの? 話したことも何回かあるでしょ? 冗談きついよぉ」
耳に障る声が届き、思考が霧散していく。集中できない。
......そうは言ってもだな。
「いや、ほんとに分かんね......ん?」
彼女のトートバッグの中身が見える。中身は......大量の新聞紙? どうしてこんなものを学校に持ってくる必要が......。
......いや、あるじゃないか。そういうイベントが一つ。
「......わかった」
「お! 思い出した?」
「ああ、思い出した」
我が高校の文化祭は、全国的に珍しいであろう夏休み末に行われる。八月二十日、二十一日の二日間だ。なので七月、早いクラスや部活は六月から文化祭の準備が始まるのだ。二年六組、進学クラスであるうちの組は「夏休みは勉強に使いたい」という生徒が多く、比較的生徒の拘束時間が少ない『張りぼて作り』を選択した。かく言う俺もその内の一人だ。夏休みという貴重な自主学習期間を無駄に消費にしたくはない。
さて、張りぼてを作るにはもちろん材料が必要だ。竹でできた枠、紙、ペンキ、針金、そして......新聞紙。
「......ところで、全然関係無いんだが、文化祭で張りぼてを選択したのって、二年六組だけか」
突然の質問に彼女はきょとんとする。そして少し考え込み、すぐに結論を出した。
「......え? ......う、うん、確かね。大体文化祭なのに『張りぼて作り』なんて盛り上がらない出し物するの、二年の六組ぐらいだよ。......ていうか、話逸れてるー」
彼女のじとーっとした目が俺を見た。無視する。
さて、今の発言で俺の予想が確定した。彼女が大量の新聞紙を持っていたのは、それが理由だ。つまり。
「お前、同じクラスの」
「そう! 同じクラスの!」
「......」
「......?」
どうやらそれだけでは許してくれないようだ。彼女の目が「続きは?」と言っている。
「......ううーん、私、クラスで影薄い方じゃないと思うんだけどな?」
また、『違和感』があった。影? 薄い?
「ちょっとー? 聞いてるー? 陽くーん」
さっきから気になっている『違和感』を探そうとするが、彼女がそれを許してくれない。仕方ない、一旦諦めよう。
「聞いてる。それで?」
「いやいや、聞いてないじゃんっ」
「......はぁ、すまん、もう降参だ。悪かったよ。覚えてなくて」
観念して教えを乞う。このままでは埒が明かない。
「はぁー、真後ろの席の女子の顔ぐらい覚えてよ、もう一年間も一緒なんだよ?」
ざぁーっと、強めの風が吹いてきた。ひまわりがゆらゆらと揺れる。少しの静寂が俺と彼女の間に入る。
うちの学校では一年生の始めに進学クラスを選択すると、二、三年とクラス替え無しで、二年六組、三年六組と繰り上がっていく制度をとっている。彼女が言っている「一年間一緒」というのはつまり、一年六組の時から一緒と言いたいのだろう。
彼女の言葉でようやく思い出した。
「......ああー」
「リアクションひっく!」
思い出した。顔だけ。名前は分からない。
「......人の名前覚えるの苦手なんだよ」
「一年間一緒のクラスメイトの顔と名前ぐらい覚えてよ」
そうだそうだ、こいつ、確か文化祭の出し物決めで最後まで張りぼて作りに反対していた奴だ。で、名前はなんだったか。
「悪かったよ。今度から努力する。で、名前、何だっけ」
「うわひっどーい! そんなんだから仲良い友達できないんだよー?」
それは今関係無いじゃないか、という突っ込みは飲み込んだ。無意識で他人にフラストレーションを溜めさせる奴だな、こいつ。長く一緒にいると蕁麻疹が出そうだ。
彼女はようやく、名前を名乗った。
「いい、もう覚えててよ? 私の名前は――――」
ざぁぁーっと、強い風が一陣、再び通り抜けた。聞こえてきた名前に、俺は少なからず嫌悪感を抱いた。
「で、お前、そこで何やってたんだよ」
俺は先程から気になっていた事を聞いた。ちなみにもう一つ気になっている『違和感』があるが、別に『違和感』というほどのものではない小さな事なので、棚上げしておく。
「んー? あー、この子ね、見てた」
この子、と指差されたそれは、成長途中の若いひまわりだった。今も風でゆらゆらと揺れている。
「......ね、陽くん。この子見て、どう思う?」
「いや、ひまわり見たら嫌な気分になる」
俺は間髪をいれずに答えた。
「えぇ!? ......そこからなんだ......陽くん、ひまわり嫌い?」
「ああ、ものすごく」
できれば嫌いなものについて多く語りたくないのだが、彼女は止めさせてくれそうにない。
恐らく、興味津々という様子で「どうして?」と言ってくるだろう。
「なしてー?」
ほら。
「なしてもだよ。理由挙げたらきりがない。......ところでお前、この辺の生まれじゃないのか? 『なして』って」
『なんで』を『なして』と言う方言はこの県ではなかったはずだ。そういえば『なして』は何弁だったか。博多弁?
「え、この辺......ってか、家すぐ近くやけどー?」
「あ、ああ、そうなの......」
方言が安定しないやつだな。まあいい。
「それで、なんで嫌いなん?」
「いや、だから......」
まあ、少しぐらい話してもいいか。ホームルームまでまだ二十分以上ある。
俺は朝日が背に直撃して熱くなっているのを感じ、住宅の影に退避した。俺の動きを察知した彼女も同じように住宅の影へ。また、『違和感』。
「......ひまわりって......まあ、なんだ、成長したら見た目、ものすごくグロテスクになるだろ?」
「んーああー、それはわかるよ。でっかいし一つ目だしね。私、小さいころ『一つ目お化け』って呼んでたし。でも、それだけ?」
一つ目お化け。似たような呼び名を俺も付けていた事を思い出した。
「いや、他にも、枯れた時自分の頭の重さに耐え切れずに首をもたげて背を丸めて、自分の足元を見ながら枯れることとか、蝉みたいに短命なこととか、向日性......だったか、太陽無しじゃ生長できないみたいな、他力本願なところとか」
すらすらと悪口が出てくる。自分で言って、自分で驚く。俺はかなりひまわりが嫌いなんだな。
「......そこまですらすら悪口を並べ立てられるなんて、実は好きなんじゃない? 嫌よ嫌よも好きのうちって言うじゃない?」
そんなまさか、だ。
「そんなわけないだろ。嫌いだ。......俺の親両方ともこいつが好きなこととか、特に」
最後は吐き捨てるように言ってしまったことを、少し後悔した。一瞬、父の姿が脳裏を掠めた、鳥肌が立った。
「ふうん......私は好きだけどな。ひまわり。ちっちゃい太陽みたいで、見るだけで元気貰えそうじゃない?」
「いいや、まったく」
「......うーん、ざんねーん」
やはりこいつとは、趣味が合わなさそうだ。
気が付くと剣道部の踏み込みの音は消えていた。校内も心なしか賑やかになってきている気がする。スマートフォンを出して、時間を確認する。午前八時十五分。ホームルームまで残り二十五分だ。
「陽くん、今何時ー?」
「八時十五分。まだ余裕だろ」
「そうだね、まだよゆー......でももうそんなに経ってたんだ」
こいつはいつからここに座り込んでこの未熟なひまわりを眺めていたんだろうか。
「ね、陽くん」
彼女が何か話し始める。その前に、確認しておかなければいけないことがあったのを思い出した。
「なあ、その『陽くん』っての、何だよ」
出鼻を挫かれた彼女は一瞬きょとんとしてから、なんだそんな事、というように答えた。
「え? 今更ー? クラスのみんなそう呼んでるよ? 夏野 太陽くん」
やはり俺の事だったか。しかし、みんな呼んでいる、という事実は初耳だ。
「......そんな呼ばれ方された事ないんだが」
「それは陽くんがみんなに話しかけないからだよー。惜しいよね、陽くん、顔は良いのに人が良くないからー」
「......話しかける必要が無いだけだ」
友達付き合いなんて、勉強の前では邪魔になるだけだ。学校へは勉強をしに来るところなのだ。友達を作るところじゃない。それに、友達が居て勉強に何のメリットがある? 友達に勉強教えてもらうなんて非効率的なやり方はしたくないし、友達の家で勉強会だとか、雑談会か何かの間違いだろう。俺には必要の無いものだ。
「まーたそういう事言ってー......一人でも友達作っといて損はないと思うけどなぁ」
損は無いだろうが得もそこまで無いだろう、と心の中で言った。
話題はそこで途切れた。彼女は別に、言いたい事があるようだった。
「......ね、陽くん。話変わるけど、さっき「ひまわりは太陽が無いと生きられない」って言ったよね?」
確かに、ひまわりへの悪口の中でそんな事を言ったかもしれない。
「まあ、ちょっと言い過ぎたな。別に少々無くても生きていけることぐらい分かる。それがどうした」
俺の予想に反して、ひまわり肯定派の彼女は言った。
「ううん、ひまわりはね、太陽の光がないと、生きられないよ」
彼女が植物のひまわりの話をしていない事は、なんとなく分かった。だが、深い意味は分からない。彼女は俺に背を向け、咲きかけているひまわりと正対した。右手で大きな葉をやさしく摘む。
「......向日性、って、若いときのひまわりにしか見られないんだよ、知ってた?」
知らなかった。いつでも太陽を探して首を回しているものだと思っていた。俺の知らない事はまだまだたくさんあるようだ。
「人間の赤ちゃんが親元から離れられないみたいに、若いひまわりも、太陽から離れられないんだよ」
「......で、そのひまわりか」
俺はようやく少し前の彼女の質問「この子見て、どう思う?」の意味が理解できた。つまり。
彼女が言う。
「そう。......太陽の光も当たらないこの子は、これから一体どうなるんだろう。......それを、この子を見ながら考えてた」
少し、彼女に興味が湧いたかもしれない。なかなか物を考えている奴だな、と思った。どんな事でもいろいろと物を考える奴は、嫌いではない。
再三、大きく風が吹いた。ひまわりがゆらゆら揺れる。
「ねえ、陽く――――」
ホームルーム十分前の予鈴が、大きく鳴り響いた。
「うわっ、もうこんな時間!? 急がないと!」
「いや、もう学校のそばなんだし、そんな慌てる必要ないだろ」
「ううん、違くてっ。友達と約束があって......」
やはり、友達付き合いというのは非常に面倒くさそうだ、と思った。
彼女は言う。
「そ、それじゃ陽くん、また教室でっ!」
そう告げるや否や駆け足で走り去っていく。朝から元気なやつだ。そのエネルギーを勉学に使えばいいのに。走り去っていく背中を少し眺め、俺も教室へ行こうと歩き出す。
その瞬間、強い『違和感』を感じ取った。肌がぴりっとする。背中の汗がすっと引いた気がした。急いで周りを見渡す。
ひまわり、住宅、電線、青い空と雲、四階建ての校舎、住宅の影、アスファルトの道、走っていくあいつの後姿、あいつの......影。
「......あった......違和感......」
彼女と会ってから常に感じていた『違和感』。それは、影だった。
そう、影。
「......どうしてあいつ、首から上の影が無いんだ......!?」
感じていた『違和感』は、あまりにも現実離れしていて、自分でも簡単には信じられなかった。
四度目の強い風が吹く。とびきり強い風だった。ぐらんぐらんと、ひまわりが揺れる。
立ち尽くした俺の足元に、彼女が忘れていった大量の新聞紙入りトートバックがある事に気が付いたのは、それからもうしばらく経ってからだった。